その日に向けて、響は十分に心の準備をした。
「何か意地悪なことを言われても、かかしがなんか言ってるぐらいに思えばいいの。真に受けちゃダメ」
すいちゃんのその言葉を、何度も何度も心に刻んだ(速水を知っているらしい桜子からも何かアドバイスがもらえたらよかったが、『頑張ってね』くらいしか言ってもらえなかった)。ありとあらゆるパワハラを想定し、適切な対処法を考えるなどのイメージトレーニングも重ねた。今は昭和ではない。平成も飛び越えた令和だ。職場でのいじめに対し、黙って甘んじるしかない時代では決してないのだ。
異動初日。少しはやめに出社し、あらかじめ渡されていた座席表を見て、自席についた。まだ同じグループの誰の姿もなかった。
クレジット管理センターは六十名ほどの正社員と数名の非正規の庶務で構成されている。その名の通り、ガスや電気の小売部門における、クレジット払いの顧客の請求や督促を管理するセンターだ。それぞれ契約内容や地域別にいくつかのチームに分かれている。お客様からの問い合わせに直接応えるカスタマーセンターは別フロアで、そちらは業務を委託されたグループ企業が担っている。
響が配属された総括グループは、いわゆるなんでも屋だった。センター全体の業務を円滑に進めるために、やれることはなんでもやる。この手の仕事は、新人時代の研修期間以来だった。最初に何を命じられるのか、まったくもって想像がつかない。
そして。
とくに何も起こらなかった。
「本当に何にもありませんでした。拍子抜けするぐらい」
金曜日の夜、佐藤さんのおにぎり屋で集まったとき、響はみんなにそう話した。
「あら、よかったわね」「安心したわ」と口々に言う彼女たちの顔を眺めながら、なんだか学生時代の友達と何年振りかに再会したような気持ちになっていた。つい先週も、ここで会ったばかりなのに。
「で、噂の速水さん、今はどんな様子なの?」とリカちゃんがお猪口を片手に聞く。先週末、競馬で勝ったらしい。「相変わらず、アレなの? アレ、あのアレ、きれいなおばさんをさ、アレって言うじゃない、アレ」
「美魔女ですか?」と響。「いや、そんな感じじゃないです。むしろ服装は地味でした。ハイヒールもはいてなくて、ニューバランスだし。ただ、メイクは濃い目ですね。あと、異様にやせてます。昼休憩も十分ぐらいしかとらないんですよ。多分、何にも食べてないです」
「ああ、昔もそうだったよ」とリカちゃんが同意する。「一人だと何も食べてなかった。誘うと食べてたけど。ただすっごい少食」
「とにかく、わたしが彼女にされたことは、無視。それだけです。異動してきた人とか、新入社員は徹底的に無視するそうなんです。前はきつい言葉を言ったり、みんなの前で叱責したりしてたみたいですけど、やっぱり最近はコンプラ的に厳しいじゃないですか。本人もそのあたりはわかってるのか、ここ数年はずいぶんおとなしくなったらしいです。もうやれるパワハラは無視ぐらいなのよって、チームリーダーが言ってました」
「パワハラ自体をやめるって選択肢はないのね」とすいちゃんが言って、ため息をつく。「なんだか悲しい人ね。なんで、そんな人がいつまでも会社にいられるのかしら」
「仕事が超できるんですよ」響は言った。「総括グループっていろんな仕事があるんですけど、適材適所に人を振り分けて、すべてをきちんとフォローして、効率の悪そうなところを見つけたらすばやく対処してって、とにかく管理職として隙がない。彼女がマネージャーになってから、クレジット管理全体の残業時間が大幅に減ったそうです」
「あ、そうそう」とリカちゃんが言う。「カスタマーにいたときもね、当時まだカスハラって言葉はなかったんだけど、そういうやっかいなお客への対処法とか、受けたオペレーターのケアみたいなやり方のルールを速水さんがつくったの。そしたら非正規のオペレーターの離職率がすごく下がってさ。社長賞みたいなやつとってたよ」
「へえ」とすいちゃんが目を丸くする。「自分はパワハラ大王なのにね」
「大王って、あはは」とぶっちーが笑った。「でも、ひーちゃんは無視されて、つらくない? 平気?」
「ほかの人がフォローしてくれますし。なんとかなりますよ」
響はそう答えてから、一週間ぶりのこんぶのおにぎりをようやく頬張った。にぎりたてのご飯がほろりと崩れ、そのあとにやってくる、こんぶの佃煮のやさしい甘みと海の香り。この味、この甘さだなあ、と心の中で独り言をつぶやく。
「そういえば桜子さん、大丈夫かしらねえ」リカちゃんが言った。「会社では元気そうだったけど」
桜子からグループLINEに「ごめん、疲れてるから、今日はやめておく」とメッセージがあったのは、集合時間の五分前のことだ。
「法人営業は今回、ひーちゃん以外にも人の異動が多かったから、大変だったのかもね」とすいちゃん。「ま、来週はこられるでしょう」
ところが翌週は、集まり自体が見送られることになった。木曜日になって、グループLINEに次々とキャンセルのメッセージが送られてきた。ぶっちーはまたしてもダンスで骨折、すいちゃんはロッキーの看病、リカちゃんは実家の売却にともなう不動産会社との打ち合わせ。じゃあ今回は桜子と二人かと思っていると、最後に桜子から「じゃあ、今週は見送りましょうか。わたしも少し疲れてるし」とメッセージがあった。
さらに翌週も、同じく見送りになった。ぶっちーは骨折がよくならず、すいちゃんは引き続きロッキーの世話、リカちゃんはいまだもつれているらしい遺産相続にまつわる親族会議。今度は桜子に断られる前に、二人で飲みにいこうと誘ってみたが「当日にならないとわからない」とそっけない返事が返ってきた。
その週の金曜の夜、ごほごほと人の咳の音がサラウンドで聞こえる帰りの満員電車に揺られながら、響はふいに、とてもさみしい気持ちになった。さっき、桜子から今日はやっぱろ無理だとLINEがあった。今日は帰って一人でご飯を食べるのだ。昨日だって、一昨日だってそうだった。いつもと同じ。それなのに、なんだか呼吸がしにくい感じがする。誰かに話を聞いてほしい、という思いが胸の中でぷすぷすとくすぶる。
仕事はいまだ慣れないことばかりだが、そう難しいものじゃない。関わるのは社内の人間か委託会社の担当者のみ。法人営業部でセクハラ上等の取引先を相手にしていたときのほうが、よっぽどきつかった。速水には相変わらず無視されているものの、それも大した問題ではなかった。直接指示をあおぐのはチームリーダーだからだ。
そこまで考えて、響はそうだ、と思う。認めるしかない。その川口という女性のチームリーダーの態度に、自分が少々まいっているということを。
川口は、見た目は桜子に似ている。ふっくらとした体つきで、眼鏡をかけていて、おまけに体型隠しのチュニックを愛用している点まで同じだ。ただあちらは八人も孫がいる家庭人で、デスクには乳幼児の写真がこれでもかとかざられている。最初は親切だった。着任初日、はりきって速水の目の前で直立不動で自己紹介してあっけなく無視された響に、「鬼ババのことなんか、気にしちゃだめよ」とやさしく言葉をかけてくれたとき、少なくともこの職場に一人は味方がいるのだと思った。
しかし、あるときから突然、自分に対するあたりがきつくなったような気がするのだ。仕事の進捗状況を聞かれ、答えると意味深なため息をつかれる。何か質問したときもやはり面倒そうにため息をつかれる。その程度。そしてときどき、皮肉なのかなんなのか、よくわからないことを言われるようにもなった。一昨日は仕事中になんの脈略もなく「どうせ半年後にはあなたがチームリーダーよ」と言われた。昨日はほかの人と話しながら「この会社はコネばかり」と大きな声で言ってため息をついていた。今日は出社してすぐ唐突に「国際事業室への異動断ったの本当? いーわねー、選択肢がいっぱいあって」と言われた。その程度。その程度だが、その言葉、そのため息、そのひとつひとつに心をかりかりと小刻みに削られていくように感じる。徐々に、というより、あるとき突然変わった。しかし、きっかけがわからない。ミーティングで気づかぬうちに出しゃばった発言をしてしまったのかもしれない。自分に関する、よくない話を聞いたのかもしれない。すべて気のせいかもしれない。
わからない。
別にそんなこと、たいしたことじゃない。
いやなやつなんて、今までいくらでもいた。ただ愚痴を、誰かに聞いてほしかった。けれど大学の仲間たちや、会社の同期たちにはあまり話したくない。きっと彼女たちは、有益なアドバイスをしてくれるはずだ。でも、そんなものは、今はほしくなかった。ただ、聞いてくれるだけでいい。そしてそのあとは、おいしい季節の食べ物や、くだらない芸能人のゴシップ話なんかを聞いて、すべてを流してしまいたい。
ようやく電車が浦和駅について、吐き出されるようにホームに出る。今日が無理なら、明日か明後日、散歩かランチにいけないか、その場でメッセージを打ちこんで桜子にLINEを送った。
返事はすぐにあった。
ごめんね。週末はどちらも予定があるの。
なんとなく、桜子にもさけられている気がする。
翌週の水曜日の朝、佐藤さんのおにぎり屋がしばらくの間休業する、という衝撃的な知らせがぶっちーによりもたらされた。
オーナーの佐藤さんの妻の体調が思わしくなく、しばらく看病に専念するため、ということだった。しかし以前から佐藤さんは昨今の米価格高騰や自身と妻の年齢を理由に、近いうちの閉業をほのめかしていたのだ。ベッドの中で丸まったままスマホの画面を見つつ、響は深くため息をついた。
そのあと、続々とみんなからグループLINEにメッセージが送られてきた。すいちゃんの「どっちみちわたしは、夜に家を出るのはしばらく無理かも。ロッキーがまだ悪くて」の言葉に、リカちゃんが「わたしも家のことや勉強で忙しい」と応じ、ぶっちーも「うちも最近、娘が不安定で」と返した。最終的に、お花見の時期になったらまた集まろう、ということになった。響はとてもそんな提案には同意できず、ちょっとした抗議の意味もこめて何も送らなかった。みんなはそれでいいかもしれない。だって、会社のリフレッシュルームでいつでもワイワイ盛り上がれるのだから。自分でも幼稚なふるまいだとわかっていたが、大人のふりはできなかった。
その日はランボーを病院につれていくために、午前休をとっていた。ここ数日食欲がなく、さらにお腹にしこりのようなものを見つけたからだ。動物病院の待合室で診察を待っている間、桜子にだけ、週末のどこかで会えないかとほとんどダメもと気分で誘ってみた。桜子もさっきのグループLINEでの会話に不参加だったのだ。もしかしたら、桜子だけは自分と同じ気持ちかもしれない、そう一縷の望みにすがりながら。信じたかった。が、あっさり断られた。今週は火曜から有休をとって、姪っ子と赤ちゃんの世話のために再び九州にいっているというのだ。さっきグループLINEで無言だったのは、単に忙しかっただけだった。
おまけにその後、診察でランボーに腫瘍が見つかった。悪性の可能性が高く、しばらく検査入院することになった。すいちゃんから、老犬だし一度大病もしているので、長くは一緒にいられないと思うとは言われていたが、今年一年ぐらいは大丈夫だろうと高をくくっていた。まさに泣きっ面に蜂。すっかり意気消沈しながら昼すぎに出社し、自席についてすぐ、チーム全体に、不穏な空気が漂っていることに気づいた。
「やらかしちゃったんだよ」と隣の席の橋川が声をかけてきた。彼女は響よりも五年も後輩だが、つねにため口で話しかけてくる。「委託会社のバカ派遣がさ」
まもなく、情報共有のためのミーティングが開かれた。問題になっているのは、カスタマーセンターの派遣オペレーターの接遇へのクレームだった。最初の問い合わせは、以前にクレジットカード払いを申請したのに、なぜかずっと振込票が送られてくるのでどうなっているのか、というものだった。実際はこちらの手違いで支払い方法の変更の処理できていなかったのだが、オペレーターはきちんとそれを確認しないまま、申請は受けた履歴がないの一点張りで追い返したというのだ。後にこちらの手違いが発覚し、大クレームに発展してしまった。
クレームの発端となったのは一般家庭用の契約だが、相手は数件のビルオーナーで、法人部門の超お得意様だった。怒り心頭の相手方は、ビルのほうの契約を他社に乗り換えることをちらつかせていて、他部署を巻き込んでの大騒動になりかけていた。
通常、委託会社社員が起因のクレームは、できるかぎり委託会社側で解決してもらうのが筋だ。が、今回は、そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。
「あっちの責任者が何度も先方に電話入れてるんですけど、納得してもらえないみたいで。もうこっちで引き取るしかなさそうです」チームリーダーの川口が言った。「むこうは謝罪訪問を求めてるようですけど、まずはもう一度、こちらから電話してみます」
「誰が対応するの?」速水が言った。速水の声を聞くことはめったにないが、たまに聞くとそのガサガサぶりにびっくりする。すいちゃんが「ケーウンスクみたいな声」と言っていて、響は当然わからなかったのでユーチューブで検索して見てみたが、ケーウンスクより速水のほうがガサガサだと思った。
ミーティングには、この二人のほかには響をふくめてあと三人選抜されていた。誰かが生贄にならなければならない、ということだ。
「わたし、やります」
響は言った。半ばやけくそ気分だった。
しーんと静まり返ったまま、なんの反応も返ってこない。
「あ、えーっと、わたし、一応、法人営業やってましたし、この手のオーナーとは……」
ふん、と速水が鼻でわらった。
「優秀なエリートがきてくれて、助かるわね。じゃあ、それで。もういいわね」
そう言うと、速水はそそくさと席をたって、ミーティングルームを去っていった。