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 アイスカフェオレにさしたストローをくるくるまわしながら、先々週、十九歳になったばかりの桜子はふふっと一人笑った――つい数カ月前まで、コーヒーなんて苦くてとても飲めやしなかったのに。わたしってなんだか大人みたい……まだブラックは無理だけど。

 日曜日の昼前、西新宿の純喫茶は、カップルや家族連れでにぎあい混みあっていた。思えば、こうして一人でお店に入って食事すること自体、数カ月前に上京したばかりだった頃はおっかなびっくりだった。

 ――やっぱり、わたしももうすっかり大人だわ。でも、大人になったからって、とくにいいこともないけれど。むしろ……。

「お待たせいたしました」というやさしい女性の声が聞こえて、桜子の物思いはとぎれる。目の前にそっとおかれたエビピラフから、かぐわしい湯気がたちのぼっている。つやつやのお米に、おおぶりのエビがたっぷり。

「ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「あ、はい」

 気もそぞろに返事をしながら、スプーンにまかれたナプキンを乱暴にはぎとった。小さく「いただきます」と呪文のように唱えてから、スプーンをさっとピラフの山にくぐらせ、さっそく一口。

「あふっ」

 熱い。けれど、これこれ、この味、と心の中で小躍りしたくなる。エビのぷりっとした食感のあとにくる、濃厚なバターの風味。休日の昼、自分で稼いだお金で食べるエビピラフ。大人になってよかったことの数少ないうちの一つかもしれない。

「あー、また一人で先に食べてる!」

 待ち合わせ時間より十分ほど遅れて現れた同期の滝沢麗子が、桜子を見つけるなり、そう言って笑った。今日は白いブラウスに小花柄のスカートを身に着けている。彼女の動きに合わせて、つやつやのロングヘアが光をはなちながら揺れ、それにつられるように周囲の男たちの視線があつまってくる。

「ごめん、待ちきれなくて。でも、二人とも食べないでしょ」

「わたしは食べるもん」と滝沢は席につき、メニュー表を広げながら頰をふくらませる。「えーっと、ま、いつものでいいや。すみま――」

 と彼女が手をあげる前からすでに、男性の店員がそばに立っていた。

「あ、えーっと、アイスコーヒーとタマゴサンド……」

「サンドウィッチでしたら、ミックスサンドがおすすめですよ? あの、よかったら俺、ごちそうしましょうか、あと……」

「結構です。アイスコーヒーとタマゴサンドで」ぴしゃっと滝沢は言うと、桜子のほうに身を乗り出した。

「ねえねえ、日吉にちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」

「何?」

「えーっと、えーっとね、えーっと、日吉はさ、覚えている中で、一番古い記憶って何?」

「えっ」と桜子は一瞬、言葉につまる。「何よ、藪から棒に」

 滝沢は振り返って、さっきの店員が去ったことを確認すると、ふうと息をはいて頰杖をついた。「別に。あの店員さんにはやくどこかいってほしかったから、適当に聞いたの」

「あはは、そういうことね」と笑いつつも、桜子はエビピラフを食べ進める。おしゃべりの間に食べ物を冷ましてしまうのは、好きじゃない。「……でも一番古い記憶って、よく考えてみるとなんだろうね。うーん……あ、保育園に入った日かもしれない。結構はっきり覚えてることがある」

「へえ。何歳ぐらい?」

「年中さんからだったから、四歳とかそのあたり? 教室みたいなところで座らされてさ、挨拶してる先生を見ながら、なんだか面倒だなあって思ったんだよね。これから毎日こうなのかなあ、やだなあ、家にずっといたいなあって、なんだか悲しい気持ちになったのを覚えてる」

 滝沢はきょとんとした顔で桜子を見つめたあと、ぷっとふきだした。「何それ? 変な園児。そんな小さいうちから、そんな複雑なこと考える?」

「それが考えたんだよ。小学校入るときも思ったよ。そのときはもうものごころってやつがついてたからね。遊んでるだけで許される日々はもう終わったんだ、これからは学校とか会社とか、面倒くさいことばかりが死ぬまで続くんだって、わたしは、そう、六歳の春に悟って、はっきりと人生に絶望してたね」

「なにそれ、変なのー。日吉ってやっぱり、子供のときから変わり者だったんだ」

「そんなことないよ、普通の考えだよ。だって実際、勉強も労働も面倒でしょ。子供の頃に戻りたいと思わない?」

「思う!」と滝沢。「はやく会社やめたい!」

「わたしもだよー。だから、さっさと寿退社しなきゃ」

「ほんとよ。はやくマー君、消防士の試験合格してプロポーズしてくれないかなあ。そしたらすぐに退職届出して地元帰るのにさ。そういえばこの間、速水とその話になったんだけど、そしたら速水はこう言ってたよ。『寿退社なんて、女性差別もいいところ! なんでいつも女性ばかりがキャリアをあきらめなきゃいけないの!』って。もう、ぷりぷり怒っちゃって」

 その姿がまざまざと目に浮かぶようで、桜子は思わず声をあげて笑った。

「しかもね、そんな田舎者と結婚なんて小さな夢見てないで、玉の輿狙いなさいってまた𠮟られた。あんたは美人なのに、なんでそれを活かそうとしないんだって」

 桜子はきゅっと口をすぼめた。自分もいつも速水に怒られているのだ。彼氏を作って寿退社したいなら、もっとおしゃれしてきれいになる努力をしろ、と。いつまでも親に買ってもらった服をきてるんじゃない、と。せめて口紅ぐらい塗れ、と。

 その噂の人物、速水美奈子はそれから一時間ほどでようやく姿を現した。オレンジ色のサマーニットに、明るい色のジーンズという最近おなじみのスタイリングは、人気の月9ドラマ『キモチいい恋したい!』に出てくる森尾由美をそっくり真似たものだ。取引先との接待で「似てる!」「ひょっとして姉妹?」などとおだれられたのがよっぽどうれしかったらしく、ずっと伸ばしていた髪もばっさりきって、パーマまでかけた。

「ねえ、あんたそれいくつめ?」席につくなり、眉をひそめて速水は桜子に聞いた。「そのホットドッグ、一食目じゃないでしょ」

 桜子は口元のケチャップをぬぐいながら、正直に打ち明ける。「……二食目」

「まったく、相変わらず食べることにしか興味がないのね。もっとほかのことにも目をむけなさいよ。おしゃれでもいいし、英語でもいいし、なんでもいいから。わたしたち三人の中で一番若いんだから、ものごとにチャレンジできるチャンスも一番多いのに。……ところで、これは何?」そう言って、滝沢のグラスの横に置かれたカードをつまむ。「……電話番号?」

 滝沢は無言だった。仕方なく、桜子がかわりに説明した。「なんか、店員さんが、滝沢のサンドウィッチを持ってきたときに、それも渡していったの。よかったら友達になってくださいって」

「どの人?」と速水が聞くので、桜子は少し迷ったが教えてやった。すると、速水は桜子が思った通りのことを口にした。

「アハハ、頭の悪そうな男。滝沢って、本当に低レベルなやつばっかりに好かれるよね」

 滝沢は聞こえないふりをしながら、もうすでに空のグラスに口をつける。まったくもう、と桜子は思う。どうして速水はこう口が悪いのか――こんなときは、あの女の話題を出すしかない。

「ねえ、昨日の閣下ってば、どう思う? あのお茶の件」

 その一言で殺伐としかけた空気は一掃され、三人にとって共通の敵、閣下こと、恐怖のお局こと、町田富美子の話題で持ちきりになった。そもそも、町田の悪口を言い合うために、わざわざ休日にこうして集まっているようなものだった。

 三人はこの春、国内最大手のガス会社に新卒入社し、東京本社の生活営業部一課に配属された、いわゆる“同期の桜”だった。速水は大卒の総合職、滝沢は短大卒の一般職、桜子は高卒の一般職で、学歴も年齢もバラバラだが、同じ課に配属された女子はこの三人だけだったので、自然と仲良くなった。

 バラバラなのは学歴と年齢だけではなかった。速水は世田谷生まれ世田谷育ちのお嬢様で、中高一貫校から有名私大に進学、二年間のアメリカ留学経験もあり、入社式では当社初の女子の新入社員代表にも選ばれた。滝沢は長野県松本市にある農家の娘で、短大進学と同時に上京、その頃に原宿でスカウトされ、少しだけ芸能活動をしていたこともあるという。桜子は埼玉県所沢市出身、父は公務員で母はパート、速水に言わせれば「なにもかもがド中流」。

 はじめは速水と滝沢が親しくなり、桜子は一番年下という引け目もあって、なかなか中に入れなかった。配属初日、速水に「お茶くみだけやってお金がもらえるなんて、あなたラッキーね」と言われて、すっかり怖気づいてしまったというのもある。そんな桜子を気遣って仲間に入れてくれたのが、滝沢だった。

 速水は上昇欲の塊のような人物だ。なにせ将来の目標は“わが社初の女性取締役就任”なのだ。他人への対抗心も異様に強く、何かが誰かより劣っていると察することに敏感なタイプで、とくに滝沢にたいして並々ならぬライバル心を抱いているようだった。

 一方、滝沢は他人の評価を気にしないおおらかな性格で、桜子はひそかに親近感を持っていた。芸能活動もライバルとの出し抜き合いにうんざりして、すぐにやめてしまったという。もちろん、自分は滝沢みたいな誰もが振り返る美人ではない(休日に一緒にいると最低でも五人にナンパされる)し、故郷に恋人(モックンにそっくりらしい)がいるわけでもない。けれど、のんきなところや、他人との無駄な衝突はできるだけさけて生きていきたいというスタンスが、似ているような気がしていた。

 配属以来、三人は生活営業一課を陰で牛耳るベテランお局・町田の陰湿な意地悪に悩まされてきた。町田は三十代後半にして独身の一般職、いつも七センチのハイヒールをはき、廊下をカッカッカッと鳴らして歩くので、陰で閣下と呼ばれている。三人の中でとくにターゲットにされているのは、同じ一般職の滝沢や桜子ではなく、速水だった。速水だけ会議資料を渡されなかったり、請求書の処理を後回しされたりするのは日常茶飯事で、それを指摘すると「わたしが悪いって言うの!」などとヒステリックな反応が返ってくる。まわりの男性社員は見て見ぬふりの完全だんまりだった。できるだけ滝沢と桜子は速水を助けてやるようにしているが、それが見つかると「頼んでいないことはやらないでちょうだい!」とやはりヒステリックに𠮟られる。

 三人はいつものように町田の悪口で散々盛り上がった。その後、話題はまたいつものように、速水の自慢話に移り変わっていった。

「そうそう、まだ先だけど、冬のボーナス出たら何に使う? 一年目でも月給三カ月分もらえるんだって。でも二人は一般職だから、わたしよりは少し少ないかな? 日吉はおなじみの貯金?」

「もちろん」と桜子は言った。「別にほしいものもないし」

「えー」と速水は口をとがらせる。「とりあえず、あの辛気臭い独身寮出なさいよ。アパートぐらい借りられるでしょ。で、滝沢は?」

「わたしも貯金かな。結婚資金貯めなきゃ。それにうちのお父さんが言ってたけど、経済の雲行きが怪しいんだって。お前の会社もどうなるかわからないぞって言われた」

「そんなそんな」と速水は鼻で笑う。「多少株価が変動したって、日本はいまやアメリカを抜いて世界一の大国なんだから。経済だってこれからどんどん発展していくに決まってる。わたしはさ、車買おうと思って。パパが少し援助してくれるっていうから。いまのところ、ベンツがいいなって考えてるんだけど、どうかなー? ほら、わたしって右ハンドルの車に慣れてないからさ、国産車って無理なんだよね」

 その手の話を、滝沢と桜子はいつも「いいねー」「すごいねー」とまっすぐな相槌をうちながら聞く。正直、桜子は速水が自慢するほとんどのこと――海外旅行、外車、家族の職業etc――に興味がまったくなかった。だから自慢されても、とくに不愉快でもないし、対抗しようとも思わない。自分のしらない世界を垣間見ることができて、楽しいと感じることすらある。滝沢も同じようなものなのだろうと思っていたが、数日前、給湯室に二人きりでいるときに、彼女は意外なことを口にした。

「速水ってさ、東京にずっと住んでいるのに、友達が一人もいないんだよ。週末もいつも暇そうでしょ。だってさ、あの性格だもん。あの長々とした自慢話につきあってあげられる人間、わたしと日吉ぐらいしかいないよ」

 そのときは何も言えなかったが、あとになって、滝沢の言うことは一理あると思った。滝沢がいなければ、自分も速水とは友達にはならなかったかもしれない、と。

 それからもさんざんしゃべって、気づけば午後の三時を過ぎていた。本当は、今日は映画『タスマニア物語』を見る予定だった。三人は慌てて純喫茶を出て、新宿プラザに向かった。

「ねえ、それにしても、あんたその服何?」

 アルタ前の交差点まで来たところで、速水が桜子に言った。

「Tシャツは首がよれてるし、ジーパンはなんか変な色だし。日吉さ、はやく結婚相手見つけて、寿退社したいんでしょ? そのために、彼氏作りたいんでしょ? そんなんじゃ一生かかっても独身だよ。それでいいの?」

「よくないけどお」と桜子は気の抜けた返事をしながら、夏の新宿をいきかう人をぼんやり見渡す。女の子たちはみんな、テレビドラマの登場人物みたいに華やかに着飾っている……ように見える。今着ているTシャツもジーパンも、高校生のときに母親に買ってきてもらったものだった。もし正直に打ち明けたら、速水に何と言われるのだろう。

 あーあ、と心の中でため息をつく。別に彼氏がほしいわけじゃない。ただ、会社をやめたいだけ。そして会社をやめるためには、結婚相手を見つけて寿退社をするしか、方法がないだけ。けれど、いい男をつかまえる(といつも速水が言っている)ために、おしゃれやメイクを頑張るのは、すごく面倒くさい。

 こんなんじゃ、いけないんだろうと思う。自分はずっと昔からこうだ。努力が嫌い。そしてやりたいことも、目標もない――速水とは違って。速水はいつも言う。「わたしたちって、恵まれてるのよ」。きっとそうなのだろうと思う。給料はどんどんあがって、経済はますますよくなって、願いはなんでもかないそうなのに。自分は、どうして速水みたいになれないんだろう。

 信号が青に変わる。「いくよ!」と速水がやにわに言うと、桜子と滝沢をおきざりにして、走り出した。その一瞬、さっと振り返ってこちらを見た。するどい目つき、細い体、俊敏な動き――まるでサバンナをかける動物のようだ。あんな速水も、そして自分も、あっという間に年をとっておばさんになるなんて、十九歳の桜子は信じることができない。

 

(つづく)