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「で、桜子さんは源五郎丸さんにおしっこひっかけられて、離婚したのよね」

 そう言ったあと、すいちゃんは揚げたてのメンチカツを子供みたいな顔で頰張った。「あふっ、あ、肉汁が! でもっ、おいしっ」

「断じてひっかけられてません」と桜子は仏頂面で答える。「まったくもう、すいちゃんにはこの話、ひゃっぺんはしたでしょ。店員さーん、おかわ……あら、こっち全然見ないわ」

 四月最初の土曜日、まだ午後六時前にもかかわらず、浦和駅近くの居酒屋はとても混みあっていた。ぽかぽか陽気につられて、例年より少し遅れて咲いた桜も満開、絶好の行楽日和のせいかもしれない。響は手をあげて「すみませーん」とかわりに店員を呼んでやる。

「桜子さん、またレッズサワーでいいですか?」

「うん」と桜子はうなずくと、手元のグラスの真っ赤なサワーを最後まで飲み干した。響はようやくやってきた店員に、「レッズサワーとトマトハイ、それからすいちゃんはハイボールでいいね? え? 変えるの? 変えないの? どっち? 変えないのね? えっとハイボールと、あと軟骨ハンバーグとそら豆」と注文した。

 三人は午後三時すぎに集まり、桜の名所として知られる調公園に出かけたが、あまりの人手にすぐに退散し、四時から開いていたこの店に飛び込んだ。花見にいこうと声をかけてきたのは桜子だったが、「もういいよ、酒飲みにいこう」と最初に言い出したのも、桜子だった。

 店に入って注文を済ませると、桜子は神妙な顔で「ひーちゃん、ずっとごめんなさい」とやにわに言って頭を下げた。そして「どうかこの場で、今回の件について釈明させてほしい」と言ったあと、自身が十八歳で新卒入社したときのことから、語りだしたのだった。

 それから約二時間、途中、かつて存在した新宿プラザですいちゃんが高校の先輩と初デートしたときに痴漢にあった話や、『キモチいい恋したい!』を見て吉田栄作ファンになったすいちゃんの妹のために姉妹で彼の出身小学校、中学校、高校を聖地巡礼した話や、すいちゃんが新卒入社した会社にも「マイケル・ダクラスにそっくり」と噂のある人物がいたが、実物に会ってみたら笑福亭仁鶴にしか見えなかったという話に脱線しつつ、ようやく今、桜子が念願の寿退社したところまでたどりついたのだった。

「おしっこひっかけられてないなら、なんで離婚したんですか?」響は聞きながら、あっという間に最後の一切れになったメンチカツを、二人にとられる前に急いで箸でつまんで口に入れた。「あ! あふっ、あ! でも、本当、肉汁が! あふっ」

「別に」と桜子は仏頂面のままで答える。「単に、いい人じゃなかったってだけよ」

「いい人じゃないなんてどころじゃないでしょ」とすいちゃん。「あの方、自分で使うお箸すら、自分で出さなかったんでしょ?」

「お箸どころじゃない。何にも自分で出さないし、やらないんだから。服は脱ぎっぱなし、お風呂で使ったタオルはべちゃべちゃのまま脱衣所にほったらかし、ジュースのペットボトルも最後まで飲まずにほん少し残した状態で置きっぱなし」

「うわー」と思わず響は声をもらした。「そういう人、やだなあ」

「作り置きのおかずをチンすることすら、自分でやらないの。一度ね、わたしに用事があったときに、おかずを作って『温めて食べてください』って書いたメモと一緒においといたのね。で、帰ったら食卓にそのままでおいてある。『なんで食べてないんですか?』って聞いたら『君が温めてくれないから』なんて言うわけ。で、わたしのご飯は食べずに、牛丼屋にいったんですって」

「その話、何度も聞いたけど、聞くたび真剣にむかつくわね」とすいちゃん。「世が世なら、そいつ死刑よ」

「あー!」と桜子は頭を抱える。「あの当時のことを思い出すと、いまだに自分のことが嫌になって死にたくなるの。もう、なんで三年も我慢したのかしら……桜子のバカバカ!」

「あ、レッズサワーきましたよ、まずは一口飲んで」と響は真っ赤なサワーを桜子の前においてやる。「しかし、ずいぶん長々と耐えたんですね」

「ほんと、わたしってバカよ、おバカさんよ」と桜子は頰杖つく。「でも、仕事もやめちゃってたし、やっぱり当時は、二十代で出戻りなんてバツが悪いし。親や周りにも、相談できなくてね。だって、暴力をふるわれてたわけでも、愛人がいたわけでもないの。この程度のことで離婚なんてできないって当時は思ってた」

「今考えるとさ」とすいちゃん。「みんなそうだったわよ。売上金全部使いこんじゃう自営業の旦那とか、海外に買春ツアーにいって性病持ち帰ってきたサラリーマン亭主の話とかざらにあって、でも離婚なんて簡単にできないから、みーんな歯を食いしばって我慢してた」

「でも結局ね、最終的には、相手から別れてほしいって言われたの」桜子は言った。「三年たっても子供ができなかったから。ま、正確には、義両親からの離縁通告って感じ?」

 子供ほしかったんですか、と響は聞こうとしてやめた。そんなことを聞いても意味はないと思った。

「で、そのとき助けになってくれたのが、速水だったってわけ。離婚するかもしれないって相談したら、お父さんの知り合いの弁護士に口をきいてくれて、最終的には相場よりかなり高額な慰謝料をもらうことができたわ。速水がいなかったら、相手に一方的に言われるまま、着の身着のまま追い出されてたかもしれない」

「そして、その慰謝料を、へっへっへ……」とすいちゃんが時代劇に出てくる悪代官みたいに笑って言う。「ね? その慰謝料を……」

「そう、その慰謝料を……」と桜子がやはり越後屋みたいな不敵な笑みを口に浮かべて引き継ぐ。「ぜーんぶ、金に換えた。ゴールドね。これも速水のアドバイスよ。半信半疑だったけど、そのあとどんどん値上がりして、いまやわたしの老後のお守り財産よ」

 響はハハハと笑ってみせたが、自分の上司のつめたい視線を思い出して、胃が少し重たくなる。こちらを真正面からは、決して見はしない。自分の体から数センチ横にずれた場所に投げられる、生ゴミでも見おろすような、視線。

「で、離婚が成立したあとに、わたしと出会ったのよね」すいちゃんが言った。

「そうね。それも速水のおかげだわ。彼女のお兄さんの勤め先に、コネで入れてくれたの。しかも正社員でね。そこで同じく正社員の事務員さんだったのが、すいちゃんで。あの頃は楽しかったわねえ。二人とも独り身だったから、よく仕事帰りに飲みに行ったわよね。会社の男たちはいやな奴ばっかりだったけど」

「ほんとよ」とすいちゃん。「あ! ねえ、あの人覚えてる? あのさ、うすらハゲで、けつまずいたふりをしながらお尻さわってくる……」

「オオサキケンジ! フルネームで覚えてるわよ! うすらハゲのセクハラ野郎!」

 それから、二人は当時の同僚男性の悪口で盛り上がりはじめた。その合間に、桜子はもう一杯レッズサワーをおかわりし、響はつまみにじゃこ天とキムチ冷奴を追加注文した。

「で……そこにはいつまで勤めたんですか?」話が一段落したところで、響は聞いた。

「えっと、ちょうどわたしが三十歳になった年までね。うちの両親が二人とも病気になっちゃってねえ。東京でフルタイムで働きながら、所沢をいったりきたりするのはきつくって。で、わたしがかつて結婚していた、人間の形をしていた何者か……元夫とかそういう表現はイヤだから、こう言うわね、とにかく、かつて結婚していた人間のか……まどろっこしいわね、もういいわ、バカ男の弟さんがね、こっちは兄と違って聖人みたいな人でね、仕事に困ったらいつでも連絡しろって言ってくれてたから頼ったら、今の仕事をあてがってくれたの。浦和だったら、所沢と往復するのもそれほど大変じゃないから」

 そこまで言ったあと、桜子はさやからそら豆を出して口に放り込んだ。「ん~この香り、春の味覚だわ」

 それが、役員一覧にのっていた源五郎丸太か、と考えつつ、響もそら豆を一つ口に入れる。軽やかなあおくささがすっと鼻を抜けていく。「ほんと、春の味覚ですねえ」

「……あ、ひーちゃん、会社で変な噂を聞いたかもしれないけど、真に受けないでね。太さん……例のバカ男の弟さんね、コネで入れてくれはしたけど、別にわたしの時給だけ不当に高額なわけでもないし、特別な契約もしてないから。みんなと同じ条件よ」

「いや、桜子さんはもっともらってもいい!」とすいちゃんがハイボールのグラスを掲げた。「あのね、あなたの部署だったら、本当なら庶務はもう一人か二人はいてもいいのよ。わたしだったら時給あげてくれって交渉するわ」

「何回もしたわよ。でも、おばさんの労働力は、どうしたって安く買いたたかれるの」と桜子。「両親をみとったあともさ、また正社員で働きたかったけど、もう四十間際だったし、いい働き先が見つからなくて。面接にいっても『あなたぐらいの歳の場合、主婦なら歓迎なんだけどね』なんて言われちゃうわけ。要はパートさん程度の給料しか出せませんよってこと。仕方がないから、若いうちは夜勤のコールセンターの仕事とか、早朝のビル掃除とか掛け持ちで働いて、コツコツお金を貯め続けたわ。もうさすがに最近は、年だしやめちゃったけど」

「最初の会社を辞めさえしなければねえ」とすいちゃんは言う。「少しずつだけど昇給して、結構いいお給料もらえてたはずよね。わたしも同じよ。けんちゃんと一緒になってすぐ、正社員やめちゃったから。その頃、けんちゃん群馬に住んでたからね」

「そういう時代だったってことですかね」と響は言った。「うちの母も、わたしの生みの父と結婚するときに、仕事を続けたいって話したら、『家のことをきちんとやるならいいよ』なんて言われたそうですし」

「んま!」とすいちゃん。「あんなキャリアウーマンの総大将みたいな人でも? 夫にはそんな舐めた口きかれちゃうの? しかも、今のご主人にはお金吸い上げられてるんでしょ? ほんと、夫って生き物は一体何様なのかしらね?」

「時代もあるけど、わたしの場合は甘えもあった」桜子が、少し神妙な顔つきになって言った。「あの頃、仕事をやめて男の人に頼って生きていくっていう道を選んだのは、誰でもない、自分だもん。でもね、離婚したあと、『まだ若いし、探せばいい人見つかるよ』なんて周りの人に散々言われたときに、どこにいるかもわからないいい人を探すなんてことのために、わたしの大事な時間とお金を使うなんて、もうまっぴらごめんだって思った。わたしはわたしを食わせるために、嫌な仕事でも、つまらない仕事でもがんばってやっていこうって、一人になったあと、ようやく腹が据わったわ」

「かっこいい!」とすいちゃん。「桜子さんは、いつだってかっこいいわ。店員さん! ハイボールおかわり!」

「ピピピピ!」響はホイッスルを吹く真似をした。「飲みすぎ注意報! 次の一杯で、少しペース落としましょう。ところで桜子さん、最初に釈明って言ってましたけど、それは、一体……」

「ああ、ごめん、すっかり話が長くなっちゃって。わたしと速水のね、関係性をまずは説明しておきたかったから。もう、すいちゃんが吉田栄作の話なんかするから、こんなに長くなっちゃったじゃない。あ、でも吉田栄作といえばさ、わたしこの間、街であの人の奥さんの、ほら、かわいい女優さん、なんて……」

「ピピピピ!」と今度はすいちゃんがやってみせる。「脱線注意報!」

「ああ、ごめん。とにかく、速水、速水ね。そんなこんなで、速水とはさ、もう仲良しの友達ってわけじゃないけど、困ったときは連絡し合う感じだったの。うちの両親の病気のときも、いい病院を紹介してもらったり、彼女が……」

 そこで、桜子はしばし口ごもる。決意を固めるように小さく息をついた後、言った。「彼女ね、あのあと、花村さんの子をもう一度妊娠して、産んだの。ひーちゃん、しってる?」

 響は小さく首をふった。速水がかつて、上司との不倫の果てに何度か中絶手術をうけた、という話は、実は異動初日にチームリーダーの川口から聞かされていた。「あの人、そういう噂のある人なのよ」と。響はそれを素直に信じたわけでも、信じなかったわけでもない。噂は噂でしかない。しかしその後、少なくとも東京本社内では、その件は周知の噂であることが、だんだんとわかっていった。

 それでも、子供はいるとは聞いたことがなかった。今のチームメンバーの誰一人、そんなことは言っていない。

「お腹が目立つぎりぎりまで働いて、その後、持病の治療って名目で二年ぐらい休職したからね。ほとんどの人はしらないのかもね。花村さんもその頃に会社をやめたし。
 でも……その子を、小学生のときに交通事故で亡くしてしまってね。そのとき、わたしが葬儀とかいろいろ取り仕切ったの。ご両親も鬼籍に入られてたからね」

 響は、言葉もなくただ桜子の顔を見ていた。さっきまで、あんなに鮮やかにはっきりと脳裏に映し出されていた上司の鬼みたいな顔つきが、とたんに灰色の霞の向こうへ消えていった。

「そうやって、困ったときは声をかけあうけど、普段、仲良くしてるわけではないの。飲みにいったりもしないし、電話で長話もしないし。で、実は今、彼女はすい臓がんの治療中なの」

 その噂も、聞いたことがあった。響が異動してくる前に、二カ月ほど疾病休暇をとっていたようだし、何より、生きているのが不思議なぐらい痩せている。

 桜子は一度、深くため息をついてから、また話し出す。「……ひーちゃんがね。クレジット管理に異動になるって聞いたとき、ああ、嫌だなあって思った。きっと速水は、ひーちゃんをいじめるから。でも、そんなのやめなよって、そういうことを言い合える間柄じゃないのよ。わたしは何もできないし、ひーちゃんから、速水の悪口を聞くのも、なんだか心苦しくって……ううん、違う、全部、それは言い訳ね。とにかく、あなたのことをずっと避けてた。本当にごめんなさい」

 桜子は額がテーブルにつきそうになるぐらい頭を下げ、そのまま微動だにしなかった。響はあえて、やめてください、とは言わなかった。桜子のしたいようにさせることにした。

「……ずいぶん長いわね、死んだのかしら?」すいちゃんがキムチ冷奴をつまみながら言った。

「死んでません」桜子はようやく顔をあげた。「わたしは百歳までいきるのよ」

「あら失礼」

「まあ、ともかく、速水が会社にいられるのも、きっとあと数カ月かそこら。あの人にとって、働くことが何よりの生きがいなの。だから、だからね、ひーちゃん。ひーちゃんの苦しみはわかる。わたしは決して、それを軽んじるつもりはないの。こんなお願いをするのは本当に本当に心苦しいけど、パワハラで訴えを起こすのを、取り下げてもらえないかしら」

 

(つづく)