マンションのドアの前に立ち、響は一度、深呼吸する。
一度じゃ足りない気がしたので、二度目の深呼吸。
それから、意を決してドアノブを回し、引いた。
ガンと大きな音を立てて、ドアが途中で止まった。ドアガードがかけられたままだった。
しばらくして、郷里の徳島で土産物店を営む母親から送られてきたパジャマを着たままの黒木が、のっそのっそと部屋の奥から現れた。それは、白地に大きなキスマーク柄という、あまりにもおどろおどろしいデザインのパジャマだった。
「遅い」ドアの隙間から顔をのぞかせて、響の上司兼同棲相手は言った。「遅すぎる。何時だと思ってるんだ」
「あああの、ここ公園で」ずっと必死に考え続けた嘘を、響は紡ぐ。でも、うまく口から出てきてくれない。「こここ公園で、そそそそのベンチで、うっかり、ねね寝ちゃって」
「嘘をつくな」
「嘘じゃないの」
「嘘を」そう言いながら、黒木は週五のジム通いで鍛えた太い腕をドアの隙間からのばしてきた。「嘘をつくなー!」
次の瞬間、熊ぐらいありそうな大きな手が、響の顔面をがしっとわしづかみにした。そのまま、ものすごい力で握りつぶされそうになる。こめかみがみしみしと音を立て、響は思わず……。
「ああ!」と大声をあげながら瞼を開いた。驚愕の表情でこちらをのぞき込んでいる中年の女と目が合った。
この人は……うちの庶務の……あ、そうだ昨日の晩……。
「大丈夫?」桜子が言った。「死んだように寝てるかと思ったら、急にうなりだしたから怖かったわよ」
「今、何時ですか」かすれた声で聞きながら、ベランダの窓のほうを見やる。ずいぶん明るい。
「もう十一時半よ。よく寝るわねー、子供みたい。隣の犬がわんわん吠えても、ぴくりともしなかったんだから」
自分でも信じられなかった。たぶん、今まで一度も起きなかった。普段は五時間連続して寝られればかなり上出来で、深夜や明け方に覚醒してそのまま寝られなくなることのほうが、ずっと多いのに。
昨夜、一時間以上歩いてくたくたになっていたからだろうか。あるいは、隣に黒木がいないせいかもしれない。
そんなことを考えながら、枕もとに置いたスマホを見る。LINEのアイコンに56という数字がくっついているのを見て、また床にスマホを伏せた。
「あなたがぜーんぜん起きないから、朝ごはんは食べちゃった」桜子が言った。
「え!」と響は声をあげた。楽しみにしてたのに、と心の中でつぶやくと同時に、ぐーっと腹が鳴る。
「だから、もうお昼にしましょう、さ、いい加減起きなさい」
桜子が掛け布団をがばっと勢いよくはぎとった。はいはい、お母さんと内心で答えつつ起き上がる。丸っこい容姿といい、きびきびした動きといい、まるでアニメや漫画に出てくるお母さんみたいだと思う。実際の響はこんなふうに母親から起こされたことはなく、園児の頃から目覚まし時計を自分でセットして、一人できちんと起きていた。きっとそうしつけられたのだろうが、はっきりした記憶はない。気づいたら、できていた。
洗面台で顔を洗っていると、台所のほうからじゃーっと何かを炒める音が聞こえてきて、身支度のスピードをあげた。着替えを済ませて部屋に戻ると、すでに布団があげられ、ちゃぶ台が定位置に戻っていた。
「ダイニングじゃなくて、こっちでテレビ見ながら食べましょ」
桜子はいそいそと皿やコップを運んでいる。響もあわてて手伝った。横長のちゃぶ台の前に、座椅子を二脚並べて置く。
今日の昼ごはんは、目玉焼きがのっかったソース焼きそばと、塩昆布のおにぎり一個。
「炭水化物ばっかりでごめんねえ」と言いながら、桜子は片方の座椅子に座り、テレビをつけた。NHKのニュースが流れはじめる。
「朝ごはん用に炊いたのが余っちゃったから。残してもいいからね」
「大丈夫です、お腹ぺこぺこなんで。いただきます!」
焼きそばは、なんの変哲もない焼きそばだった。麺はおそらく、マルちゃんの三袋入りのやつ。それを一・五人前ずつ。具はキャベツと豚バラだけ。あとはかつおぶしと青のりと、ちょっと多めの紅ショウガ。
しかし、抜群においしかった。もしお祭りの屋台なんかでこんな焼きそばが出てきたら、大当たりの店を見つけたと喜んだだろう。キャベツはシャキシャキとしなしなのちょうど中間で、豚肉はカリカリとジューシーのやっぱりちょうど中間。少し焼き目のついた麺は香ばしく、紅ショウガとあわせて食べると味わいが増す。
「味、どう?」
「おいしいです、とっても」
「本当? うれしい。おにぎりも食べて食べて」
促されるまま、塩昆布のおにぎりを一口頬張る。こちらは意表をつかれる味だった。
「これ、すごくいい!」響は思わず言った。「ちょっとピリ辛。ラー油ですか?」
「あたり~」と桜子は体をゆすった。「ごま油でもおいしいんだけどね、今日は焼きそばだし、中華風に寄せてみたの」
それから、桜子はおいしい焼きそばの作り方や塩昆布のおすすめの使い方を、食べながら教えてくれた。カーテンを開けた窓からは穏やかな陽が差し込み、目の前のテレビからは東京郊外で発生したという恐ろしい強盗殺人事件のニュースが流れてくる。ちゃぶ台の上には、焼きそばとおにぎり。あまりにも土曜の昼。こんなに土曜の昼然とした土曜の昼を、何年ぶりに過ごしているのだろう。
「普段、お休みの日は何を食べてるの?」
桜子が聞いた。響の焼きそばはまだ残り半分ほどだが、桜子はすでにあらかた食べ終えている。
自分のことなのに、休日の昼に何を食べているのか、すぐに思い出せなかった。「トーストとか」となんとなく答えてみたが、少なくともここ数週間、食パンなんか一度も買っていない。
「あら、どのメーカーのパンが好き? わたしのおすすめは……ていうか、家に帰らなくて大丈夫?」
「大丈夫……じゃないと思います」響はちらっと床にふせたままの自分のスマホを見る。「彼、カンカンに怒ってると思います」
「あらら、大変ね」桜子は笑った。それだけだった。それ以上、黒木について何も聞こうとはしない。
話を、聞いてもらいたい。昨晩、寝る前に思ったことをまた思う。しかし昨晩も、桜子は何も聞こうとはしなかった。たいていの人は、あれやこれや聞きたくなるものじゃないだろうか。響だって、誰かから同棲相手に夜中に家を追い出されたなんて話を聞かされたりしたら、根掘り葉掘り詳細を知りたくなるはずだった。
もしかして――とふと気づく。この人は単に興味がないだけでなく、聞きたくないし、知りたくもないのかもしれない。
「今日は、桜子さんは、何か予定はあるんですか?」だから響は、話の矛先を変えた。
「わたし? 今日は夜まで約束ないから、適当に過ごすわ。明日は雨みたいだし、家事は明日のわたしに丸投げして、お気に入りの公園にでも散歩にいこうかな」
「それに、ご一緒していいですか?」
すると桜子は少し驚いたような顔になった。「もちろん」とすぐに答えたが、かすかな動揺が見て取れた。
が、響はそれには気づかないふりをした。どうしても、一緒に散歩がしたかったからだ。
残りの焼きそばとおにぎりを、大急ぎでかきこんだ。二人で片づけを済ませると、テレビのチャンネルを王様のブランチに変えて、雪見だいふくを一個ずつ食べた(冷凍庫の中はあらゆるアイスでパンパンだった)。そして午後一時半過ぎ、二人でようやく、桜子の小さなアパートを出た。
昨晩は肌をさすような冷たい風が吹いていたが、今日は一転、ジャケットなどわずらわしくて着ていられないほどの小春日和だった。
二人でてくてく歩いて十五分ほどで公園についた。昨晩のロングウォーキングのおかげで足の裏が若干痛かったが、桜子と話しているうちにそれもどこかに吹き飛んだ。
その公園の存在は知っていた。さいたまに引っ越す前に、黒木から聞いたことがあったのだ。大きくて美しい沼があって、秋にはメタセコイアの並木道が紅葉してとってもきれいなんだよ、と。一緒に暮らして秋を迎えたら、お弁当を作って二人で散歩にいきたい、と夢見たりもした。結局、一度も行っていないどころか、そもそも二人の間で話題にすらのぼらない。
そしてそこは、想像した以上に美しい場所だった。
沼は思っていたより十倍は大きかった。桜子によればおよそ2・4ヘクタールで、水深は場所にもよるが一メートルぐらいらしい。萌黄色の水面は風に吹かれて少し揺れている。その周囲を色とりどりに染まった木々が取り囲んでいた。
「いいところでしょ!」と桜子が、まるで自分の庭であるかのように両腕をひろげて言った。「とくに今の季節が一番最高!」
公園内には桟橋やジョギングコースがあった。二人であてどなくぷらぷら歩きながら、いろいろな話をした。おいしい食パンの食べ方、焼きそばを失敗しないコツ、この近辺が中山道の宿場町として栄えていたこと、ヒヤシンスの上手な育て方。いつも社食やリフレッシュルームですいちゃんたちと盛り上がっている会話に入れたようでうれしい気持ち半分、自分がろくなネタを提供できない悲しい気持ち半分。だって、自分が話せることと言えば、職場の人間関係の悩みや、将来の不安や……。
「どうしたの? 暗い顔をして」
メタセコイアの並木道のそばにあるベンチにこしかけて、桜子が水筒にいれてもってきてくれたコーヒーを飲んでいるときだった。桜子がふいに聞いた。
「家、帰る?」
「帰りたくないなあ」と答えた自分の声が子供みたいで、少し笑える。
「……あの、つかぬことをうかがいますけど」響は言った。「いつもリフレッシュルームとかで、食べ物の話とか植物の話とか、みなさんでよくしてますよね」
「あら、なんで知ってるの? 声が大きい?」
「いや、そんなことは……。あの、たとえば家族の話とか仕事の悩みとか、人生っていうと大げさだけど、でもまあ、人生に関係する話は、しないんですか?」
桜子は首をかしげている。いまいちピンときていないようだ。
「わたしは友達とは、むしろそういう話しかしないというか。彼氏がどうとか、結婚がどうとか……」
「ああ、そういうことね」と桜子は言った。「わかるわー。三十代ってそうよねー。四十代でもそうかしら? でもわたし、若いときからそういうの嫌で、いつも黙り込んじゃってたなあ」
「そうなんですか?」と響は身を乗り出した。「わたしも、なんとなく苦手で……」
それなのにどうして、と心の中で思う。桜子には、聞いてほしいと思ってしまうのだろう。
「でもまあ、五十代にもなるとさ、多かれ少なかれ、みんなしんどい経験を経てるじゃない? 病気とかお金のこととかさ。人の生活を詮索するようなことをしても、ろくな情報出てこないのよねえ。おしゃべりの時間ぐらい、楽しくしたいから、しんどい話になりそうなことは、みんな自然と避けていくのかな。まあ、おばさん同士の付き合いは楽ってことね」
「なるほど」と響は桜子がいれてきてくれたコップの中の黒い液体を見る。「わたしは三十代半ばなので、あと十五年近くは耐えなきゃいけないのか」
「そんなことないんじゃない? 一足先におばさんの世界にやってきてもいいのよ。はい、これ、ちよちゃんにもらった酒まんじゅう。おばさんはね、おすそわけが生きがいなの」そう言って、桜子は大口をあけてガハハと笑った。
それからしばらくベンチで過ごし、さらに十分ほどまた散歩した。このあと桜子は近所のカラオケ屋にいってヒトカラをして、それから月に一回、仲間内でやっている読書会に参加するという。
「だいたいいつも、土日はこんな感じかな」公園を去る前にもう一度、美しい沼を見渡しながら桜子は言った。「どっちかでまとめて家事をして、どっちかでこんなふうに気ままに過ごしてる。習いごともたくさんやると疲れちゃうから、今は月に二回のサックス教室だけ。散歩して、ヒトカラやって、あとは人と会ったり、一人でおいしいもの食べたりね」
なんて。
なんてすばらしい休日の過ごし方だろう。
そう思ってすぐ、自分は今の彼女の言葉の、何についてすばらしいと思ったのだろうと考える。自分の休日だって、実は桜子と大きな違いはない。ときどき友達と会ったり、本を読んだり、ヨガにいったり、たまには黒木とどこかに出かけたり。でも、すばらしいと思えたことは、多分ない。ただいつも、焦っている気がする。何かを得なければと。少しでも成長しなければと。時間をうめて充実させなければと。そして日曜の夜には毎度思う。今週も何も得ることなく、休日が終わってしまった、と。
きっと桜子は、そんなふうには思わないのではないか。一人で時間を過ごしている、それだけ。何も得ないし、何も進まない。
この人は、たった一人で、ただただ死に向かって生きているのだ、と響は思った。
「さあ、そろそろいきましょう。近くの駅まで送っていくわね。また少し歩くけど、いい?」
本当はカラオケも一緒にやりたかったが、さすがに遠慮した。これ以上、彼女のすばらしい休日の邪魔をしたくなかった。