しかし一か月後の二月半ばの昼過ぎ、響は何度もため息を吐きながら、体験会前の集合場所として指定されたコンビニに向かって歩いていた。空を覆う分厚い雲は巨人専用のマットレスのようで、景色のすべてが灰色がかっているように見える。「ダンスだけはしない、やるぐらいなら死にます」とこの一か月、言い続けた。誰よりしつこかったのは、すいちゃんだ。しまいには「お願い、きて。ひーちゃんがきてくれないなら、翠、泣いちゃう」などと実際に目に涙を浮かべて言うので、とうとう断り切れなくなった。どうやらすいちゃんもダンスに自信がないらしく、仲間がほしいようだった。泣くぐらいなら断ればいいのに、と思ったが、「みんなでやるものには絶対参加する主義」とのことだった。
時間ちょうどに現地に着くと、すでに全員集合していた。桜子、リカちゃん、すいちゃんのほかにもう一人、佐藤さんのおにぎり屋さんの従業員、ちよちゃんもいる。ダンス前にランチはさすがにきつかろうということになり、食事は各自で軽めに済ませてくることになっていた。
ぶっちーのダンス教室は、そこから徒歩八分ほどの雑居ビルの中にあった。七階、八階、九階の三フロアのうち、今日の初心者体験会は九階の教室で開かれることになっている。
まずは更衣室で動きやすい服に着替えた。ぶっちーからTシャツとスパッツを推奨されていたので、みな同じような格好になるかと思いきや、リカちゃんの姿に誰もが目を見張った。
えんじ色に白の三本線が入った、上下そろいのジャージ。かなり古めかしいタイプだ。しかし、驚くべきはそこではなく――
「ねえ! リカちゃん!」とすいちゃんが声をあげた。「胸元に、白い糸で、清原って縫ってあるけど?」
「う、うん。えへへ」とリカちゃんは照れくさそうに笑う。「そうだけど……」
「そうだけどって」と桜子。「あの、それって、もしかしてもしかしてだけど、あの、ちょっと聞くの怖いけど、やだ、どうしよう、当たってたら怖いわ。ひーちゃん、かわりに聞いてくれる?」
「えっ、わたしですか? ……えーっと、そのジャージはひょっとして、学生時代の……」
「そう、中学のときの体育のジャージ」リカちゃんは少女みたいに頬をピンク色にして、告白した。「だって、これしかなかったんだもん」
一瞬の間をおいて、どっと笑い声があがった。
「やだー何十年前のやつ?」
「年季入りすぎよ」
「それにしてもよく着れたわね」
「そうね。わたしだったらふくらはぎすら入らないわ」
などとやいやい言いつつ、中学時代の体育ジャージに身を包んだリカちゃんの姿は見れば見るほどおかしくて、みんな腹を抱えて大笑いになった。桜子など涙まで流しはじめる始末だった。まわりにいたほかの参加者たちもつられて笑っていたが、その場の注目を集めるのが大好きなリカちゃんはまんざらでもなさそうな様子で「三十年もののヴィンテージだからさ。ここのほつれ、自分で直したの」などと知らない人にまで話しかけている。
響もなんだかおかしくて、ずっと笑っていた。そのうち、朝からずっと自分の体をまとっていた緊張が、するするとほどけていくのを感じた。まだ何もしていないけれど、きっとたぶん、今日きてよかった。
その後、みんなでぞろぞろと教室に移動し、予定時刻きっかりに体験会がはじまった。参加者は響たちを合わせて十五名ほどいたが、さっきの大騒ぎで全員が打ち解けた雰囲気になっていた。講師のぶっちーが「え? みんなお友達だったの?」と目を丸くして言っているのがおかしかった。
そしてダンスは、全く、恐れるにたる相手ではなかった。
参加者たちの年齢層が思いのほか高かったのもあり、ぶっちーがかなり簡単なプログラムを用意してくれていたのだ。音楽は流行りのK-POPで、ダンスというよりは、ときおりアイドルっぽい動きの交ざったエアロビクスといった趣だった。後半は少し難しいステップもはいってきたが、ぶっちーが丁寧に教えてくれたおかげか、難なくできた。
意外だったのは、桜子だ。すいちゃんが「さいたまのサモハンキンポーね」とよくわからない賛辞を贈るほどのリズム感と俊敏さを見せつけていたのだ。スタミナも抜群で、最後は一番前のど真ん中で、みんなのお手本となって踊っていた。
しかしそんな桜子も、講師のぶっちーの輝きには遠く及ばないのだった。一か月前、リフレッシュルームで自分の無能さを嘆いて半べそをかいていた中年女性と、同じ人物とは到底思えなかった。スパッツとスポーツブラのみを着用したぶっちーの体は、しなやかに引き締まっていた。腕は刀のように鋭くまっすぐのび、脚は天をつくように高々とあがる。その動きの一つ一つにあわせて、彼女の筋肉が躍動しているのがよくわかった。誰よりも声を出し、誰よりも激しく動き続けていたが、ほとんど息を切らさない。そして、内部から発光しているかのような、まばゆい笑顔。
もし、彼女が職場や家庭で見下されたり馬鹿にされたりしているのなら。今日の雄姿を撮影した動画を見せつけてやりたい。そんなことを響は思った。
途中、休憩をはさんで、あっという間の一時間半だった。最後の十分、ぶっちーがちょっとハードな振り付けを組み入れたので、みんなぜえぜえ息をはいていた。桜子も大の字になって「限界よろしくどうぞ~」と情けない声を出していた。その上下にうごく丸いお腹を見ながら、今日、やっぱりきてよかったと響は心の中でつぶやいた。
ダンス教室を出たあとは、ぶっちーをのぞいた五人で予定通り近くのスーパー銭湯へいき、サウナと風呂で汗を流してさっぱりした(サウナの水がぬるいと桜子が文句をたれたり、風呂の手前でリカちゃんがすっころんだりとそれなりに波乱もあったが)。再び外に出ると、そのまま地球を燃えつくすのではと思えるほど真っ赤な夕焼けが、西の空に広がっていた。
「ああ! なんてすばらしい休日!」そう言って、桜子が歩道の真ん中で両腕を広げた。「あまりにすばらしくて、鼻血が出そうだわ」
鼻血は全く共感できないが、しかし、今日がすばらしい一日だったことは否定のしようがなかった。響も桜子の真似をして、腕を広げて大きく息を吸い込んだ。冬の夜のはじまりの空気は、少し甘い。なぜか、学生時代の帰り道を思い出す。さっきまで真っ赤だった夕焼け空が、あっという間に紫に変化していく。
それから、けんちゃんと近所の居酒屋に飲みにいくというすいちゃんと、大宮に住む娘一家と食事をするというちよちゃんとはその場で別れた。残った桜子、リカちゃん、響の三人でタクシーに乗り、佐藤さんのおにぎり屋へ向かった。
店にはインド出身のアリちゃんとアニちゃんと、オーナーの佐藤さんがいた。カウンターに三人並んで座ると、待ちに待った生ビールで乾杯した。
「あー、最っ高!」桜子が演歌歌手みたいにこぶしをきかせてうなる。「ここまで我慢した甲斐があったわあ」
「そうでしょ? 風呂上がりにコーヒー牛乳なんて飲まなくてよかったでしょ?」とリカちゃん。「あんなの飲んでたら、おいしさが半減してたわよ」
「はいはい、リカちゃんの言う通り。リカちゃんはいつでも正しいです。さ、おにぎり注文しましょ」
リカちゃんは即断即決のペペロンおにぎりだけ二つ。桜子は少し考えてエビ天、イカ天、唐揚げマヨの揚げ物トリオ。響は熟考の末、いつものこんぶとたらこに決めた。ほかに、卵焼きとからあげをみんなで分け合うつまみとして注文した。
六席あるカウンターは自分たちしかいなかったが、売り場はわりかし混みあっていた。学生風の若者もいれば、お盆に十何個もおにぎりをのせている子連れの女性もいる。ウーバーイーツもときどきくる。去年、有名ユーチューバーに動画でとりあげられて以来、店はずっと繁盛している。アリちゃんとアニちゃんだけでは持ち帰りの客をさばくだけで手いっぱいだが、今夜は佐藤さんがいるので、三人はにぎりたてのおにぎりにありつくことができそうだった。
カウンターの向こう側に、小柄な白髪の男性が現れた。こちらを見てにこっと笑うと「ちょっと待っててね」と言った。佐藤さんは七十代の元サラリーマンで、十年前に本人いわく“道楽”でこの店をはじめた。月曜休みで営業時間は朝八時から夜八時まで。けれど、この辺りは都内から転勤でやってきた単身の会社員が多く住んでいるので、その人たちのために、木曜と金曜だけ遅い時間まで営業している。佐藤さんもサラリーマン時代に長らく単身赴任していて、夜中によく小腹がすいてコンビニのおにぎりを食べていたらしい。
「はい、おまたせ」
やがて、それぞれ注文したおにぎりが波佐見焼の皿にのせられて、目の前にやってきた。三人はそれ以外何もできないヒナのように、黙って受けとった。
「いただきます」と声をそろえて、最初の一口を頬張る。
海苔がぱりっと音を立て、追ってかぐわしいお米がほろほろと崩れる。そのあとでやってくる、こんぶの佃煮の優しい甘さ。やっぱりこんぶで正解だった。体を目いっぱい動かしてくたくたになっている今日は、とくに。
「やっぱり休日はエビ天よ」桜子が言った。「聞いた? この一個で今日は売り切れだって。あんたたちって本当に間抜けね」
「だーかーらー」とリカちゃん。「夜はペペロンだって何回言ったらわかるわけ? 本っ当に、二人とも何も学ばないんだから」
「それにしても、桜子さんって意外と体力ありますね」響は言った。「今日、最後までついていってるの、桜子さんぐらいでしたよ。みんな途中でバテちゃってたのに」
ふふふ、と桜子は嬉しそうに笑う。「そうでしょそうでしょ。こう見えて、わたし、昔は駅伝の選手だったんだから。心肺能力には自信があるの」
「そうそう」とリカちゃん。「全国大会にも出たことあるんだよね」
「数年前までは、休みの日に走ったりもしてたんだけどね。今の体型じゃ、膝痛めるからやめちゃった」
「やせなさい」とリカちゃん。「中学時代のジャージぐらい、着こなせなきゃだめよ」
「だってえ。ご飯がおいしいんだもん。そのかわりね、たっくさん歩くようにしてる。こう見えて、健康診断は視力以外、オールAよ」
確かに、歩いていくにはやや遠いところにある業務スーパーやパン屋にいった話をよくしているし、社内でもすいちゃんと一緒じゃないときは、エレベーターは決して使わない。
「ひーちゃんね、おばさんがいいことを教えてあげるわ」とリカちゃんが言う。「女の人生はね、五十も半ばを過ぎてからが本番よ。更年期も終わって、自分をしばりつけるものはもはや何もない。でもそのときにね、金、健康、友達、この三つがないと楽しみ半減だから。この三つの確保だけは、今のうちから頑張るのよ」
「そうね、リカちゃんの言う通りね」
「桜子さんの話を参考にするといいわよ。とくにお金ね。財テクのスペシャリストなんだから」「やめてよ、ただ無駄遣いをしないだけ」
桜子が四つ目と五つ目のおにぎりを何にするか迷いだした頃、家族の食事の世話を終えたぶっちーが合流した。酒飲みのぶっちーの前には、自動的にハイボールとぬか漬けの盛り合わせが出てくる。
「みんな、今日はありがとね」とぶっちー。「おかげで、体験会に参加してくれた何人かがそのまま入会してくれて、先生にもほめられちゃった」
それから、リカちゃんのジャージやすいちゃんの独特なダンス(ぶっちーいわく、あれはあれで、コンテンポラリーみがあった、ということだった)、さらに二週間後に控えたダンスの発表会のことなどでやいのやいの盛り上がった。閉店の八時が近づき、二軒目にいくかどうかの審議をはじめたとき、見知らぬ大柄な男性がカウンター席の入り口に、ぬっと姿を現した。
「ママ!」と男性は野太い声で怒鳴るように言った。「ユウミのお迎えにいくんじゃないの?」
「いけない!」とぶっちーが声をあげた。「忘れてた!」
「ママがこないってLINEきてるよ。見た? ……ていうか、酒飲んだの?」
「ああ、どうしよう。このくらい飲んだ」とぶっちーは自分のグラスを指さす。「このくらいなら平気?」
「ダメに決まってるだろ、バカじゃないのか」
ぶっちーの夫らしき男性はまた怒鳴る。しかし、この人も少し酒臭いような気がする、と響きは思った。
「パパはいけないの?」
「ママが行く約束でしょ」
「ああ、どうしようどうしよう」ぶっちーは立ち上がったかと思ったらまた座り込む。完全にパニック状態に陥っていた。「困った、どうしたらいい?」
「全く、どうしようもないね、あなたは」彼は深くため息をつきながら、腰に手を当てる。「毎日遊んでばっかりで、使えないね、本当。いいよ、俺がタクシーで迎えにいくから」
そう吐き捨てるように言うと、やや大げさに首を振りながら去っていった。
「ああ、またポカやっちゃった」ぶっちーの赤ぶちの眼鏡が曇る。「ごめん、今日はもう帰るわ」
それからすぐ会計を済ませ、四人で店を出た。茫然自失のぶっちーにはもはや三人の姿は視界に入っていないのか、別れの言葉もないまま、裏手の自宅へとぼとぼと去っていく。桜子がその負のオーラをまとった背中に向かって「再来週の発表会、みんなでいくね」と声をかけたが、振り向きもしなかった。
「……さて、どうする?」と桜子。「二軒目いく?」
「うーん、わたしも、帰ろうかしら。なんだか疲れちゃった」リカちゃんは子供みたいに大あくびした。
「ひーちゃんは?」
「ごめんなさい。わたしも、帰ります」響は断腸の思いでそう言った。「明日、取引先のイベントに顔出ししなきゃいけなくて」
「ああ、そうだったわね。新橋のSL広場でやるやつだっけ?」と桜子。「そうね、じゃあわたしはリカちゃんを駅まで送りがてら、どこかで一杯やっていくわ」
二人とは方向が違ったので、その場で解散になった。「ばいばーい」と言い合いながら、手を振って別れる。さっきまで、あんなに楽しかったのに、と思う。あんなに一体感を感じていたのに。なんだか尻すぼみになってしまったのがむなしくて、響はしばらくその場にとどまって、小さくなっていく二人の姿を見ていた。
桜子もリカちゃんも独身だ。この後、どんな夜を過ごすんだろう。空は晴れ渡り、冬の星がまたたいて、道路を一匹、ねずみが横切った。