それから約半年後の年明け一月末、桜子はついに、念願だった寿退社を果たした。
滝沢と花村の婚約が発表されたあと、桜子は町田の前で「寿退社がしたい」「結婚して専業主婦になりたい」と毎日のように愚痴るようになった。すると町田が見合いをセッティングしてくれたのだった。
相手は社内の人物だった。その男、源五郎丸弘と銀座のホテルのラウンジではじめて対面したとき、桜子は気が合うとも素敵だとも思わなかった。背が小さく小太りで、無口な男だった。食べることが好きだと話していたので、見合いの翌日の月曜、弁当をつくってもっていってやった。すると、手をたたいてよろこんでいた。そのとき、この男と結婚しようと桜子は思った。それから三回デートして、四回目で相手の両親と会い、五回目に結納の日取りが決まった。
弘は重役の甥で、本人も出世が確約されているという。十三歳年上と年齢差はあったが、そんなことはどうでもよかった。町田が婚約後になって「そんな家柄の息子が売れ残ってるなんて、あやしいからやめといたほうがいいかもしれない」などと言いだしたが、ほかを探すのも面倒だった。とにかく、会社をやめさせてくれるなら、相手なんて誰でもよかった。
最後の出社の日、とくに何事もなくいつも通りだった。いつも通りの、嫌な職場。花村をはじめ、営業の男性たちは知らん顔で雑用を言いつけてくるだけで、おめでとうも今までありがとうも言いもしない。表向きの送別会は辞退していたが、実は生活営業部の一般職の女性たちだけで、今週末の昼に集まる予定だった。幹事を引き受けてくれた後輩に出席簿を見せてもらったところ、滝沢の名前の横には×印がついていた。今、妊娠中だからだと思うことにした。
ようやく終業時間になった。定時きっかりにタイムカードを押し、町田をはじめ一般職の女性たちにだけ挨拶をして、いそいそと生活営業部のフロアを出た。荷物はほとんど片づけた。あとは制服をクリーニングに出して返却するだけだが、郵送するつもりだった。エレベーターまでの廊下を歩きながら、もう二度とここへくることはないのだと考えても、実感があまりなかった。
一階につき、いつものように受付の前を通り過ぎて、会社の外に出る。冬の夕暮れ空はもうだいぶ暗く、西のほうにかろうじてオレンジ色の太陽のなごりがあった。ようやく会社をやめたんだ、あれだけやめたかった会社をやめられたんだ、と心の中で繰り返す。けれど。それなのに。どうしてこんなに、気分が晴れない。深呼吸をしても、どこか苦しいままだった。
ガードわきの道を、とぼとぼ歩いていく。やがて、いきつけの立ち飲み屋の店先が見えてくる。店の前に並べられた、ビールの空き箱をつんだテーブルは、すでにサラリーマンたちでいっぱいだった。今日は金曜日だ。さわやかな風のような解放感を身にまといながら、男たちはコップをあおり、ガハハハとうるさい笑い声をあげている。あの中にまじって、わが身をねぎらう最初の一杯を飲むのが、なによりの楽しみだった。業務中、午後三時ぐらいには、今日はビールかな、それとも寒いから熱燗かな、あては何にしようかなと考えていたっけ。この店はあての種類がとても多いから、ためしてみたいメニューがまだいくつも残っている。塩辛じゃがバターって、おいしいのかな。山芋の短冊、いつも食べようと思って忘れてたな。そんなことを心の中でぶつぶつつぶやきつつ、でもなぜか、今夜はあの中に交ざる気がしない。とてもさみしい気持ちになってしまう気がして。もう二度と、わたしはこうして、仕事帰りに一人でお酒を飲むことはないんだって。
そのとき、ふと背後から視線を感じた。
振り返る。すると、少し先の電柱の陰から、グレーのスラックスをはいた女の細い脚がちらっと見えた。その脚の先にあるフェラガモのパンプス。
速水だ。桜子はとっさに駆け寄り、「何してるの」と声をかけた。速水が自分を尾行していたのは明らかだった。それなのに、いざ声をかけられると、一瞬、逃げるようなそぶりを見せた。
「ねえ、こんなところで、何をしてるの」
「別に」
速水は九月に埼玉支社に異動になっていた。この時間にここにいるということは、休んだか、あるいは早退したのかもしれない。
八月の終わりに最後に見たときより、明らかに速水はさらに瘦せて顔色も悪くなっていた。滝沢の婚約発表以降、速水は日に日にやつれていった。異動して、少しはよくなるかと思っていたが、かえって悪くなってるようだ。
「それ、何」桜子は速水が手に提げている紙袋を指して聞いた。
「せ、餞別兼結婚祝い」
速水はぶっきらぼうにそれを差し出した。とらやの大きな紙袋だった。やっぱりわたしに会いにきたんだと桜子は思いながら、「ありがとう」と小声で言って受けとった。
もう話すことが、なかった。
「……じゃあ、あのいくね。元気でね」
桜子はそう言って、速水の顔をなるべく見ないようにして、その場を急いで立ち去ろうとした。すると速水が「待って」と引き留めた。
「わたしがあんなこと言ったから、結婚決めたの?」
そんなことを聞かれると思っていなかったので、桜子は「え?」と驚いた。速水の目が今にも泣きだしそうに真っ赤で、ますますびっくりした。
「さっさと嫁にいって会社を去るのが義務、なんてひどいことを言ったから……」
「違う違う」と桜子は慌てて言った。「速水のせいじゃない。やめたいって、ずっと思ってただけだから」
「そっか」
二人は、黙り込む。やっぱりもう、話すことがない。
「……じゃあ、あの、元気で」
「待って」と速水はもう一度、言った。「あの、結婚なんか、やめなよ」
「何言ってるの? 今更」
「結婚なんて、しなくていいよ」
「いや、だから」
「一人で生きるって夢、悪くないと思う」と速水は少し声音を強めて言う。「あんたらしくて、すごくいいって、あれから思うようになったよ」
桜子は何も言わなかった。ただ速水の、ウサギみたいな赤い目を見ていた。
「男に頼って生きていくなんて、多分あんたには無理だよ。続かないよ。やめなよ、結婚なんて。絶対失敗するよ」
さすがにむっとした気持ちになる。「そんなこと、あんたにだけは言われたくない! 自分と結婚する気のない男との子を二度も妊娠しておろしたあんたに!」といつか朝の玄関で、速水に言われたように言い返してやろうかとさえ、一瞬思う。でも、そんなことはやっぱりとても言えない。誰よりも傷ついている速水には、言えない。桜子は口をつぐんでいた。
「ねえ、今からでも遅くない、結婚なんてやめなって。ほんとにほんとに、悪いことは言わないから」
しかし、やけにしつこい。寒空の下にぼうっと立っているのもつらくなってきた。
「わたしね、実は埼玉支社の支社長にコネがあって、再雇用頼めるかもしれない。だから、今から結婚やめても、仕事復帰できると思う。あのね、埼玉なら家賃も安いから、契約社員でも一人で……」
「今さら、無理に決まってるでしょ」
少し語気を強めて言ってみた。速水は口をつぐんだ。困ったように眉毛を八の字にしている。
「とにかく、わたしは結婚するの。もう決まったことなの。来月には新しい家に引っ越すし、結婚式場も予約したし、もうとにかくいろいろ決まっ……」
「あんたの結婚相手!」と速水が突然、大声を出した。横を歩く男女が、おどろいたような顔で通り過ぎる。「とんでもない変態だって噂がある! 女におしっこ飲ますんだって」
「……はあ?」
「だから、だから、本当は結婚やめてほしい。ろくなことにならないよ。どうしても言わなきゃって思って、それでここまできたの」
そこまで一息で話したあと、速水は小さくため息をついた。「でも、そうだよね。今さら、もう戻れないよね」
「あ、あの、言ってることが……」
「でも、とにかく、嫌になったら、何か嫌なことがあったら、絶対に我慢しちゃダメ。困ったことがあったら、夜中でもいいから連絡ちょうだい。うちの電話番号はわかってるよね? 一人で我慢しちゃダメ。ね!」
そう言って、速水は桜子の両手を、両手で握った。氷のように冷たい手。その目には涙がいっぱいたまっていた。あまりにむちゃくちゃすぎる言葉と、目の前の速水の切羽詰まった顔つきに、桜子は混乱しきって頭がくらくらした。
「もうわたしたち、前みたいに仲良くできないかもしれないけど、でも、わたしにとって、あんたはずっと友達だから」
「わたしにとってもそうだよ」
桜子はかろうじて、そう答えた。速水は桜子から手を放した。それから小さくうなずくと、背を向けた。そのまま、駅とは反対のほうへ駆け出した。草原をかけるガゼルのような俊敏さで。
――前みたいに仲良くできないかもしれないけど、でも、わたしにとって、あんたはずっと友達だから。速水の言葉が、胸の中でリフレインする。まだ頭の中は「?」で一杯だった。茫然としつつも、同時に、祈るように思う。どうかどうか、速水の夢がかないますように。仕事で素晴らしい成果をだし、輝かしいポジションを得て、美しい花々に彩られたようなキャリアウーマンの道を歩んでいけますように。
人ごみの中に、小さな背中はあっという間に紛れてしまう。
それにしても。
さっきの速水の発言はなんだろう。本当に、源五郎丸さんは変態なのだろうか。これからはじまるはずのわたしの結婚生活は、すでに暗礁にのりあげかけているのか?
そうだとしたら。
案外はやく、また一人の暮らしに戻れるのかも。
なぜか急にうきうきとしてしまう自分に気づく。ふふふと笑ってさえいる。自然と足が、立ち飲み屋に向いていた。今日の一杯は決めた。寒いけど、やっぱり最初は生ビール。ビールでつめたくなった口には、アッツアツのもつ煮がぴったり。あ、今日こそ塩辛じゃがバターにトライしてみるか。でもでも、肉じゃがも捨てがたい!
のれんをくぐると、「いらっしゃーい」と顔なじみのおかみさんが声をかけてきた。
「今日も一日、おつとめご苦労様。外じゃなくて、こっちのヒーターの横にしなさい。今、空けるから。生でいい?」
「はい。おかみさん、あと、もつ煮と塩辛じゃがバターと肉じゃが!」
テーブルの前につき、ほっと息をつくと同時に、ふと思う。速水と自分、そして滝沢は、これからどんなふうに年をとっていくのだろう。わたしたちもいつかは、おばさんと呼ばれる年代になる。きっとあっという間のことなんだろうけど、まだ二十二歳のわたしには、全く想像がつかない。