はっと気づいたときには、ベッドの上だった。桜子とすいちゃんの部屋の片方のベッドの隅っこで、猫みたいに丸くなって寝入っていた。同じベッドの真ん中にすいちゃん、その隣にリカちゃんもいた。桜子はテーブルの前に座って、キンパをもそもそ食べていた。
響に気づくと、桜子は言った。「さっき、駅で買ってきたの。食べる?」
昨夜散らかしたものはすでにきれいに片づけられていた。床に落ちていたスマホを拾って画面を見ると、朝の六時半少し前。響は言った。「全然お腹すいてないです」
「あら、そう。じゃあ、コーヒー淹れてあげる。こっちにいらっしゃい」
妙な姿勢のままかたまっていたせいで、首やら膝やらがぎしぎしときしんだ。二人を起こさないようによろよろとベッドを抜けると、窓辺に立ってわずかにあいたカーテンの隙間から外をのぞいた。美しい朝焼けが広がっていた。ソウルの街の眠りは浅い。ずっとどこかが動いている。テーブルの前の一人掛けのソファに座ると同時に、湯気の立つマグカップがことんと目の前に置かれた。
「濃いめに淹れてあげたわ」
桜子の言うとおり、カフェインががつんと脳を刺激して、一口すすっただけで目がぱっちり開いた。二口目にはだいぶ気分がすっきりして、昨夜の記憶が少しずつ蘇ってきた。
「今日は帰りの便まで、各自自由行動よね?」桜子が言った。「荷物はホテルに預けるでしょ? 一時ぐらいにフロントに集合ってことでいいかしら。ひーちゃんは何する予定? もし何もなかったら、一緒にいってほしいお店があって、わたし一人じゃ……」
「そのことなんですけど」と響は声をひそめて、前のめりになる。「リカちゃん、今日、例の人に会いにいくんですよ」
韓国人の元カレのことは、桜子とすいちゃんもすでにしっているらしかった。一日目の夜にリカちゃんが少し話したようなのだ。が、会う約束をしていることまでは、二人は把握していない。
「そうなの?」と他人事のように言いながら、桜子はキンパを指でつまむ。
「一昨日、寝る前にリカちゃんと少し話したんですけど、今日の午前中に、どこかのカフェで会おうって話になってるみたいです。彼はこっちで貿易の会社を経営してて、ポルシェ乗ってるらしいんですよ。そのポルシェの画像とか、わざわざメールで送ってきてるんです」
「へえ、すごいわね」
「怪しくないですか? いや絶対怪しい。旅の間、ずっと考えてたんです。会うの、やめさせたほうがいいと思うんです。でもリカちゃんのことだし、話してもきかないかもしれない。そしたら、みんなで尾行するとか」
「放っておきましょう」
「え?」
「尾行なんて、しなくていいわ」
「だけど、もし」
「わかってるわよ、リカちゃんだって」そう言って、桜子は最後のキンパを口に入れる。ぽりぽりぽりとたくわんの小気味いい音が聞こえる。「怪しい、変だと思ったら、きっと自分で気づいて引き返せるわよ。それとも、ひーちゃんはこう思ってるの? リカちゃんは自分では何にも判断できない愚か者だって。リカちゃんのお父さんや、お兄さんたちみたいに」
響は何も言えなかった。ただ昨夜、床に転がって寝たふりをしながら、実は聞き耳を立てていたらしい桜子の、巨大な背中のシルエットを思い返していた。
「わたしね」と桜子は含み笑いをする。「飲み会で酔いつぶれて倒れちゃってもさ、なぜか意識だけ鮮明なタイプで、その場の話はぜーんぶ耳に入ってるし、ぜーんぶおぼえてるの。意外といるのよね、聞いてないと思って、わたしの悪口言ったり、変な噂話する人。ひーちゃんも油断しちゃだめよ」
そのとき、背後からごそごそと物音がした。すいちゃんが起きだし、それにつられてリカちゃんも目を覚ましたようだった。
「二人とも、もう朝よ、起きなさい」お母さんみたいに言って桜子は立ち上がると、部屋のカーテンを全開にした。窓の向こうはもうとっくに一日のはじまりを迎えていて、ぴっかぴかの太陽光が部屋になだれこんでくる。
「お腹すいた」
すいちゃんとリカちゃんが、同時につぶやいた。
ホテルをチェックアウトしたあと、その場でいったん解散した。リカちゃんは「ちょっとアレが、アレがね」と言いながら、ニコニコ顔で去っていった。すいちゃんは経過診察と薬の受け取りのため、タクシーに乗って美容クリニックへ出かけていった。
響と桜子はとりあえず明洞に向かい、いきそびれていた雑貨屋などをひやかしたあと、桜子がネットで調べて気になっていたというベーカリーカフェに入った。店内は英国風のヴィンテージ雑貨であちこちにしつらえられたかわいらしい空間で、若い女の子がたくさんいた。店に入る前は「こんなおばさんが大丈夫かしら?」などとおびえていた桜子は、美しくディスプレイされたケーキや菓子類を前に誰よりもはしゃぎ、あれやこれやぶつぶつ言いながら時間をかけてチョコレートのスコーンとイチゴのカップケーキを選び取り、さらに「韓国といえばこれよね」と店員に話しかけながらアイスアメリカーノを注文した(若い男性の店員は、流ちょうな日本語で『さすがお姉さん!』と言っていた)。
響は昨夜の暴飲暴食もあってか食欲がわかず、アイスカフェラテだけにした。目の前で「あのテーブル見て、素敵ね」「このスコーン、チョコたっぷり!」「ドライフラワーってこんなふうに飾るときれいなのね。家でやってみようかしら」などとうきうきしゃべっている桜子に生返事をしつつ、何度もスマホを確かめる。リカちゃんからの連絡は、ない。
「リカちゃん、たぶんね、今日、いいこと一個もないと思う」
桜子がふいに、冷めたような口調で言った。響は「え?」と聞き返した。
「まあ、相手がとってもいい人で、昔話だけをたくさんして、また会いましょうって言い合って帰ってくることも、万に一つはあるかもしれないけど、ないわ。もしかしたらお金をせびられるかもしれないし、全然違う人が現れるかもしれないし、普通にすっぽかされるかもしれない。会いにいってよかった、なんてことはないと思う」
響は言葉もなく、桜子の丸い顔を見つめた。その表情は、怒っているようにも、微笑んでいるようにも見えて、彼女の真意がますますわからない。ただ、ほっぺたに生クリームがついていることだけははっきり見て取れた。
「じゃあ、やっぱり今からでもやめさせたほうが……」
「だめよ」と桜子はぴしゃりと言った。「それもリカちゃんの選択の結果なの。傷つくとわかっていてもね。自分で選びたいのよ。自分の行き先は、自分で決めたいの、リカちゃんは」
――今でもときどき思っちゃうの、あのとき、家族を見捨てるべきだったんじゃないかって。
昨日、窓に向かって語りかけていたリカちゃんの、どこか悲し気な横顔が目に浮かんだ。そして、お母さんが倒れたときのリカちゃんを想った。自分の進む道を、自分では選べなかったリカちゃんを。
「出かける前に、いろいろ言って聞かせたんでしょ? 二人きりになっちゃいけないとか、お金を渡しちゃいけないとか」
「言いました。人のたくさんいるところで会ってくださいとか、知らない人がきたら走って逃げてとか」
「なら、大丈夫」そう言って、まるでおもちゃみたいにかわいらしいカップケーキにかぶりつく。「……あ! 食べる前に写真撮るの、また忘れちゃった。インスタにのせようと思ってたのに」
「インスタやってるんですか? アカウント教えてくださいよ」
ふふふ、と桜子は上目遣いで笑う。「秘密。とにかく、リカちゃんがどんな顔をして帰ってきても、何も言わず、聞かず、明るく迎えてあげましょう」
集合時間の少し前に、響と桜子はホテルに戻った。するとラウンジで、リカちゃんが一人で優雅に紅茶を飲んでいた。
「あ! おかえり!」リカちゃんはこちらに気づくと、席をたってぴょんぴょん飛び跳ねた。「ねえねえ、見てこれ!」
リカちゃんは若者に人気の町、弘大にいっていたらしく、そこで買い込んだ雑貨をたくさん見せてくれた。さらに「これ、お土産」と言って、響にはウサギの耳がついたタオル地のカチューシャ、桜子にはなんだかよくわからない変なキャラクターの入ったマグカップを渡した。
それだけだった。リカちゃんからの報告は、それだけ。
その後まもなくすいちゃんが戻ってきて、一行はあわただしく空港へ向かった。途中、リカちゃんが部屋にパンツを忘れたかもしれないと言い出したり、すいちゃんが職場へのお土産を買い忘れたと騒ぎだしたりと相変わらずのバタバタぶりで、響は搭乗して座席についてすぐ、気絶するように眠りに落ちた。
目が覚めたとき、機体はすでに着陸態勢にはいっていた。
「起きた?」と隣に座るリカちゃんがささやいた。「ねえ、ひーちゃんの分の機内食も食べちゃった」
すぐ横の小窓をのぞく。何の面白みもない見慣れた夜景が、どんどん近づいてくる。旅が終わってしまった、しかもなんだか唐突に。妙に胸が痛くて、ため息がこぼれる。
「ねえ、ひーちゃん、あのさ。何も聞かないでくれて、ありがとう」
「え?」と響はリカちゃんを振り返った。
リカちゃんはどことなく悲し気な顔で笑うだけで、それ以上、何も言わなかった。そのとき、響は気づいた。リカちゃんの笑顔は、いつもどことなく、物悲しい。
「ひーちゃん、いつものね」
波佐見焼のお皿の上の、二個のおにぎり。具はもちろんこんぶとたらこ。佐藤さんから受け取ると、まず顔を近づけて香ばしい海苔のにおいをかいだ。
「あー、この握りたてのおにぎりのにおいをかぐと、ようやく一週間が終わったって感じがする」
そう言った響に、佐藤さんはぷっと噴きだした。「変なこと言うね。ところで今日は一人?」
「いや、そろそろ……」
と言いだした矢先、店先から騒がしい声が聞こえてくる。桜子とリカちゃんとすいちゃんがそろって姿を現し、そのあとまもなくぶっちーもやってきた。
それぞれが好きなものを注文し、それからビールやハイボールで盛大に乾杯した。
「あ、そうだ。ぶっちー退院おめでとう」桜子が言った。
「ありがとう」とぶっちーが赤ぶち眼鏡をもちあげながら答える。「もう、本当にこの一週間、さんざんだったわ」
ぶっちーは旅行の直前、鼻中隔湾曲症を患っていることが発覚し、手術のために一昨日まで入院していたのだ。そのため、今日は大事をとってホットウーロン茶。
「骨折するわ、手術しなきゃだわ、夫は免停になるわ、もう何もかもむちゃくちゃ。あー今すぐ離婚したい。だめだめ、辛気臭い話はやめましょう。ねえ、はやく韓国の楽しい土産話を聞かせてよ」
それから、まるでその日にあったいいことを母親に聞かせようとしてきょうだいと競い合う子供たちみたいに、みんなでやいのやいのと旅先のできごとをぶっちーに語った。シミ取り治療をしたあと、紫外線完全防備態勢になったすいちゃんが変質者みたいだったこと、広蔵市場で桜子が泥酔したあげく、隣り合わせた韓国人男性を有名俳優に違いないと決めつけ、強引にサインをねだったこと、リカちゃんがホテルにパンツを全部忘れたこと。ほっぺたがちぎれそうなぐらいみんなで笑い、最後は年内に必ず、今度は五人で旅行にいこうと誓い合った。
やっぱり閉店ぎりぎりまで居座ったあげく、最後はきっちり割り勘で店を出る。抱えきれないほどのおみやげをぶっちーに渡したあと、「ばいばーい」と手を振りあって別れた。
なぜか今夜もリカちゃんは、響のあとをついてきた。「ちょっとね、ちょっとね」などと言いながら。
リカちゃんにあわせていつもより少しゆっくり歩きながら、響はしばらく黙っていた。駅方面へ向かった桜子とすいちゃんの姿がほとんど見えなくなったのを確認したあと、ようやく尋ねた。
「また別の元カレがフェイスブックに連絡してきたんですか?」
「違うわよ」とリカちゃんは顔をしかめて答える。「もう男には騙されないから。だってあいつ、会ってみたら髪の毛はないわ、服はぼろぼろだわ、借金大王だわ……もういい、やめやめ、忘れる。ねえ、来週の日曜日の昼、空いてる? ちょっと付き合ってほしいところがあって」
「うーん、確認してみますけど、多分何もないです。何に付き合ってほしいんですか?」
「えーっとね、なんていうか、あのね、あの、説明会っていうのかな、その、知り合いに教えてもらってさ、自分でやるより、まず詳しい人の話を直接聞いてみたほうがいいからって。そこね、すごくいいところらしいの。待って、あの、画面を見せるね、スマホスマホ。あの、セミナー? セミナーみたいな、そんな感じのやつで、でもそんなのいったことないから、一人が心配で、そうそうほら、お母さんも亡くなったし、わたしも新しい人生を……」
「はい、ストップ!」
響はリカちゃんの話を途中で遮った。さすがにこれ以上、黙って聞いてはいられなかった。
「なんのセミナーだかしらないけど、やめてください! それ確実に……」
「ああ、あった、これ」
リカちゃんがスマホの画面を響に向けた。それは資格取得スクールの体験講座の案内だった。電車の広告でもよく見るスクール名だ。
「お金に困ってるわけじゃないけど、女一人で非正規の庶務なんて心もとないでしょ。だから何か役に立つ資格でもとろうかと思って。でも、そっか、意味ないかな? ひーちゃんもやめたほうがいいと思う?」
「あ、いや……」
「五十過ぎで資格取得なんて遅すぎるかなあ」
そのとき、道のずっと先から、一台のタクシーがやってくるのが見えた。まだ空車の表示までは確認できない。響は反射的に手を挙げながら、「遅くないです!」と叫ぶように言った。 「全然、まだまだいけます! 来週日曜、朝から晩まであけときます!」
リカちゃんは明るく笑った。「朝から晩まであけとかなくてもいいわよ、昼のほんの数時間で」
「とにかく、リカちゃんなら絶対できますから。だから、もう夜遅いし、なんでか今日もバーキン持ってるし、家にタクシーべた付けしてくださいね」
「はいはい、アハハ、今日のひーちゃん面白い」リカちゃんはいつまでもにこにこしている。「いつも、ありがとうね」
タクシーは空車だった。リカちゃんを乗せてしばらく見送ったあと、響は「バカ」とつぶやいて自分の頬を軽くたたいた。
それから周りを確認して、スキップした、前より少しだけ長く。