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 しかしその後、なぜか川口が先方に電話することになった。それなら最初からそう言ってくれたらいいのにと響は思ったが、もちろんそんなことは口にも態度にも出せない。

 しかし、川口でも話はまとまらなかった。響は横で聞いていたが、川口の口調はしどろもどろで、相手の怒りに油をそそいでいるようにも聞こえた。最終的に、やっぱり明日直接会いにこいとなってしまったようで、さっき名乗り出た響が、そのままその役目を押し付けられることとなった。

「ごめんね」電話を切ったあと、妙にしおらしい態度で川口は言った。「もちろん、わたしも同行するし。というか、基本的にはわたしメインでやらせてもらうから。ただ、こういうのは一人ではいかない決まりで」

「はい、そうですよね。わかってます」

「わたしじゃなく、宇佐美さんに電話してもらえばよかったかな」

「そんなこと、絶対ないですよ!」と響は少し大げさに言った。「わたしだったらもっとひどいことになってましたよ。川口さんでダメなら、誰もダメだと思います。明日の午後、一緒にのりこえましょう」

 それから、引き出しをあけて彩果の宝石をいくつかつまみとり、川口に「どうぞ」と渡した。以前、桜子から大量にもらったので、いざというときのために一部をとっておいたのだ。

「わあ、きれいなお菓子。これ、ゼリー?」

「そうです、さいたまの銘菓なんですけど。ああいう電話って疲れますよね。糖分補給につかってください」

「うれしい。甘いものがほしいって思ってたところよ。これ食べながら、少し休憩してくる。ちょうど鬼ババも会議でいないことだし。ありがとう」

 彩果の宝石を両手に一つずつ持って、鼻歌まじりに立ち去っていく川口の丸い背中を見ながら、響はほっと息をつく。二人の間にあったわだかまりのかたまりのようなものが、ほんの少しだけ溶解……していたらいいなと思う。もし本当にそうなら、桜子たちのおかげだ。

 おすそ分けスキルと相手をほめたたえるスキル。桜子たちと接するうちに、それらのスキルアップができていたのかもしれないと、響はほくそ笑む。大事なのは、少々ずうずうしいぐらいでちょうどいいということだ。遠慮しているだけでは、年上女性との距離は縮められないのだ。桜子宅に泊めてもらったお礼に何を渡したらいいのか考えあぐねて、デパートの菓子折りを用意してしまったあの頃の自分が、なんだか懐かしく、愛おしかった。

 翌日、川口は欠勤した。

 妊娠中の娘が切迫流産かもしれないので、というのがその理由だった。

「しょうがないから、今日はわたしがいくわ。ヒラ社員二人でいっても仕方ないし」

 朝の申し送りで、速水が響のほうを見もせずそう言ったとき、自分はハメられたのでは、とうっすらと思った。そのあと、川口が自席に置いている小さなゴミ箱の中に、昨日渡した彩果の宝石が未開封のまま放り込まれているのを見つけ、“うっすら”はより濃い線になった。

 

 午後一時過ぎ、速水とともに会社を出た。

 そのとき、はじめて響は直接、彼女から声をかけられた。

「何にも手土産、用意してないの?」と。

「あ、えっと、乗り換え駅の構内で買っていこうってことになってました」

 響はあわてて答えた。しかし、相槌すら返ってこなかった。

 駅までの道中も、一言も話さなかった。電車に乗ると、一つだけ席が空いていたので「どうぞ」と言ってみたが、当たり前のように無視された。さらに速水は響との間に二人挟んだところまで、なぜかわざわざ移動してしまった。

 今日の速水は、メイクはやや薄目で、ニューバランスではなく低めのヒールのパンプスをはいていた。いつもおろしているロングヘアはぴしっとしたお団子にしている。今野は銀座のホステス風だといっていたが、響には普段も今日も、校則の厳しい女子高の教頭先生みたいに見える。

 やがて乗換駅につく。速水は響を一切振り返ることなく、一人きりで行動しているような素振りで改札を出て、さっさと商業施設の中に入っていく。そのまま、まっすぐ和菓子屋にむかっていった。

 速水の顔はいつもやけに白い。狐のお面のようだ。どんなファンデーションを使っているのだろう。ショーケースの前にかがみこんで品物を選んでいるその横顔を見ながら、意識が少しずつ、目の前のことから遠くなっていく。

 なぜ、こんな邪魔者みたいな扱いをうけなければならないのだろう。バカみたい。中学生じゃあるまいし。何が悪かったのだろう。とくに目立とうともしていないし、昇進なんて望んでいない。結果なんて出したくもない。ただ、自分に課せられた仕事をこなして、日々の生活の糧を得たいだけなのに。恵まれた環境にいるってなんだ。なぜ勝手に期待されたり、ねたまれたりされなきゃいけないのか。もういっそ、やめてしまおうかな……けれど、今よりいい条件の仕事なんてそうそうに見つからないだろうし、手取りがひくくなったら、一人で生きていくというプランも……。

「じゃあ、この二十四個のつめあわせで」

 速水が言った。そしていつも持っているぼろぼろのプラダのトートバッグから、派手な花柄の刺繍が施された、がま口タイプの財布を出す。そのとき、遠く離れかけていた意識が、突然戻ってきた。その刺繍に、見覚えがある、確実に。速水が会計を終え、響に一瞥もくれることなく出口に向かって歩き出したとき、はっきり思い出した。

 桜子がいつもリフレッシュルームに持ってくる、手提げバッグ。それと全く同じ、マリーゴールドの刺繍。間違いない。桜子は友達の手作りの品だと話していた。速水と桜子は同期入社だ。もしかして……。

「あの、さっきのお財布ですけど、ご自身の手作りですか?」

 再び駅のホームに戻ったとき、響はもうほとんど体内に残っていない勇気と元気をしぼりにしぼりだしてそう言った。どうせ九割九分無視されるのだから、言っても言わなくても同じだとも思った。

 速水はどこかおびえた顔つきでこちらを見た。何か言いたそうに、口が動く。でも何も言わない。

「あの、えっと」と響は言葉をつないだ。「わたしも昔、刺繍、ちょっとやってたんです。だからもしかしてと思って。違ったらすみません」

「いや、そうだけど」

 小声だった。ほとんど聞き取れなかった。そして速水はプラダのトートから、さっきの財布とおそろいのポーチを出した。その手は少し、震えているようにも見える。

「わあ! 素敵ですね」と響はことさら大げさに言った。「配色がとってもきれい。葉っぱの色がグリーンだけじゃなく、鮮やかなのがいいですね。ご自分でデザインされたんですか?」

「最近は、もうやらなくなっちゃったけど」

 さっきよりは少し大きな声だった。そのとき電車がやってきて、会話は途絶える。車内はややすいていて、座席もぽつぽつ空いていた。響はさっきと同じように、「どうぞ」と速水に声をかけた。

 速水はほんの一瞬の間があったあと、響が示したところに腰かけた。「ありがとう」はなかったが、響のほうを見て、こくりと一つうなずいた。

 電車内ではもう会話はなかった。二人は二つ先の駅で降りた。先方は午後二時に、所有している雑居ビルの三階の事務所にくるよう指定していた。午後一時五十分にビルの前についた。昨日の川口との電話で「二時きっかりにこい!」と怒鳴っていたので、ビルの前でしばらく待つことになった。

「宇佐美さん」

 そのときはじめて、名前を呼ばれた。

 そしてはじめて、まっすぐ目が合った。速水の顔は年相応にしわがより、たるみもあるが、よく見ると子供みたいなあどけない顔立ちをしていると、響は気づく。

「わたしがあなたのことも紹介するから、あなたはそばにいて、頭を下げてくれてるだけでいいから。怒鳴られたり、きつい言葉をかけられるかもしれないけど、なんとか耐えてほしい」

「この手のことには慣れてます」と言おうとして、やめた。ただ「はい」とだけ返事した。出しゃばりすぎてはいけない。

 やがて、午後一時五十九分になった。速水は無言で階段をのぼりはじめた。その電柱みたいに細い背中を見ながら、大事なのはこの謝罪訪問が終わったあとだと、自分に言い聞かせるように思う。さっき速水が言ったように、自分は黙って相手の話を傾聴しているふりだけしていればいい。いつだったか、黒木に「こういうときは相手を赤ちゃんだと思え」と教えられた。どんなにぎゃんぎゃん泣かれても、大人は黙って耐えるのみ。しばらくしたら相手は疲れ寝てしまうのだから、と。

 謝罪を終えてここを立ち去るとき、どれだけ速水をねぎらい、おだてて、心をつかめるか。さっきの財布の件で、一歩……いや三歩前進できた……かもしれない。場合によっては今日で計十五歩は前進できるかも。そしてそのことがわかれば、川口の態度もさらに軟化して、そうしたらきっと、ずっと楽になる。

 速水が、事務所のインターホンを押した。

 それから一時間半後、事務所を出る頃には、一歩前進どころか、百歩は後退していることを、響ははっきり自覚していた。

 

 ――いや、もしかしたら千歩かも。あるいは一万歩かも。あれから響は何度も何度も繰り返し思い出しては、後悔し、ため息ばかりついている。

 なんで、あんなことしちゃったんだろう、と。

 ビルオーナーの男は、二人を事務所の中には入れなかった。玄関先に立たせたまま、怒りをぶちまけつづけた。しかし、それも無理もないことだと響はわかっていた。初手で対応したオペレーターの態度はあまりに不遜だったし、そのあと出てきた委託会社の責任者の言い逃れるような口ぶりも、ついでに川口のしどろもどろな対応も、すべて火に油をそそぐことしかしていなかったのだ。

 そして、速水はその負のサイクルを、さらに負の方向へ回転させた。

 ビルオーナーの男の話を遮ってまで、執拗に相手に反論しようとしたのだ。速水としては、相手の怒りをしずめたい、その一心だったとは思う。しかし話を最後まで聞かずに自分たち側の正当性を主張するなんて、謝罪の場でもっともやってはいけないことの一つだ。

「話を聞けよ!」とビルオーナーは怒鳴っていた。しかし速水のほうもヒートアップして「しかしながら」「そうおっしゃられても、事実として……」などと強い口調で言い返す。相手はますます怒り心頭に発し、今回の件とは関係ない、法人契約の料金について文句を言いはじめた。いくつも契約を持っているのに割引にならないというのだ。その話をしたあと、相手は手洗いにたった。戻ってきたときの顔を見て、響はピンときた。おそらく用を足しながら、少しクールダウンしたのだろう。そういうことはよくある。

 速水がまた余計なことを言う前に――そう思った。ただこの場を解決したい、その一心だった。

「恐れ入ります。この度のご迷惑に重ねて、ほかのご契約でもご不満をお持ちとのことで、申し訳ございません」

 とにかく恐縮しきっている、という態度を装いながら、響はそう切り出した。

「差し支えなければ、そのことについてもう少し詳しくお聞かせ願えますか? 場合によっては、今一度法人営業部と連携しながら、何かいいご提案ができるかもしれません」

 その後、相手の態度は急に軟化した。響の提案が功を奏した、というよりは、やはり用を足しにいったときに冷静になれたのが大きかったようだった。その後はとくに声を荒らげることもなく、三十分ほどでその場を去ることができた。

「いやあ、あなた、いい部下をお持ちだね。あなたね、この子を見習ったほうがいいよ。もっと謙虚になりなさい」

 去り際、ビルオーナーは速水にそう言った。

 

 翌日朝、予定にないミーティングが開かれた。その場でチーム内の配置転換を言い渡され、響は委託会社の担当となった。しかも通常は二人で分担する業務を、響一人だけでやることになった。

 速水がいつものように一方的にミーティング終了を告げてその場を立ち去った後、川口が今まで見たこともないぐらいのやさしげな笑顔で近づいてきて、こう言った。

「あなたなら大丈夫よ。昨日も大活躍だったそうじゃない。速水さんが言ってたわ。いずれお母さんみたいに出世もしたいんでしょ? がんばってね」

 やるしかない、とそのときに腹をくくった。一人きりでやるしかないのだ。誰かに泣き言を言って助けてもらうことはできない。こんなことはなんでもないことだという顔でやりきるしかない。それしか、ここで認められる方法はないと思った。それから、響は一人で無我夢中で仕事した。一人でやるにはあまりに多い業務量だったものの、チーム内の何人かがさりげなくサポートしてくれた。委託会社とのやりとりは骨がおれることばかりだが、立場上はこちらが上な分、心理的な負担は軽かった。

 それでも、配置転換から二週間あまりすぎた三月半ばの金曜日の夜、ようやく浦和駅のホームにたどり着いたとき、あまりの疲労と孤独感と情けなさで、ほんの少し、本当に少しだけ、涙がこみあげた。昨日も今日も、無駄な残業をするなと速水に怒鳴りつけられた。残業をしなければ終わらない仕事をわざとおしつけていると、チームの誰も、いやクレジット管理センターのフロアにいる全員が、少し離れた場所にいるセンター長まで、知っている。しかし、その全員が、二人がまるで透明人間であるかのようにふるまう。黙々とそれぞれの仕事を遂行しているだけ。眉をひそめる者さえ、いない。

 おまけにその日、すいちゃんからランボーの命はあと数カ月もたいないかもしれないと連絡があった。検査の結果、腫瘍は悪性だった。もう響一人の手には負えないので、すでにすいちゃんのもとへ返していた。

 もう春なのに。あと少しで桜のつぼみもふくらむのに、京浜東北線のホームは、氷上のように冷たい。たった一人、その場に立ち尽くす響を、誰も振り返らない。ここでもわたしは、透明人間。

 こんなの、なんてことない。

 二十代の頃、本社で営業をやっていたときのほうが、よっぽどハードだった。毎日遅くまで仕事して、営業先では叱られたりセクハラをされたりして、会社に戻れば男性の先輩社員からやっぱり嫌なことを言われる。でも、土日に友達と遊んだりほしいものを買ったりしただけで、簡単にストレス発散できた。こんなことで、こんなつまらないことで涙が出てしまうのは、年をとったせいなのだろうか。

 少しずつ、人は弱くなってしまうのだろうか。

 誰かに、話を聞いてもらいたい。

 響はトレンチコートのポケットからスマホを出し、少し迷ってから、桜子にLINE電話をかけた。

 すぐに電話はつながった。

「あ、桜子さん? 今、おうちですか? もしよかったら、今からそっちいってもいいですか。もうほんと、仕事が大変で。今日も速水さんに」

「ごめん、今、忙しい」

 あっけなく切られた。切られるような予感がしていたから、言いたいことを早口でしゃべった。すると、やっぱり切られた。

 ――困ったことがあったら、いつでも連絡してくれていいから。な?

 黒木の声が、からっぽの胸の中でリフレインする、何度も。またスマホを操作して、黒木のLINEのアカウント画面を表示させる。あんな人でも、好きになれなくても、一緒にいたほうがマシだったのかもしれない。一人でいるより、二人でいたほうがずっといいのかもしれない。一人で楽しく気ままに暮らすなんて、バカげた夢物語だったのだろうか。こんなふうに、今の自分みたいに、心がしなしなにしなびてしまうときに備えて、家に誰かがいてくれる、そんな生活を、築くべきなんだろうか。

 

(つづく)