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 自席に戻ると、さっきもらった菓子を机の上に広げた。あのあと、すいちゃんから亀田のまがりせんべい二枚とチョコパイ一つ、リカちゃんからいちごポッキーの小袋一つ、桜子からもう一つおまけのホワイトロリータとアルフォート二枚をもらった。デパートの菓子なんてものを出す人は、やっぱり誰もいなかった。
「ねえ、さっき、庶務のおばちゃんとお昼食べてなかった?」
 隣の席の今野が話しかけてきた。今野は三年先輩で、さっきリフレッシュルームで同期の人たちとドトールのサンドイッチを食べている姿を見かけた。
「仲良しなの?」
「仲良しっていうほどじゃ……」
「いや、めっちゃ仲良さそうだったよ。いつからなの?」
「えっと……」
「ねえ」と今野は声をひそめながら近づいてくる。「変な勧誘とか、宗教の話とかされてない? この会社にくる派遣で、多いのよ勧誘系」
 ため息をつきそうになるのを、響はぐっとこらえる。「大丈夫です」
「あの庶務のおばちゃんの不倫話はしってる?」
「え? 不倫?」
「しーっ。大きな声を出さないで」響より少しはやく休憩から戻り、すでにてきぱきと事務作業をしている桜子のほうをちらっと見ながら、今野は怖い顔になった。「あの人、地獄耳なんだから。わたしたちの話、全部聞いてるんだよ。……あのね、あのおばちゃん、うちの会社の役員と長年、不倫関係なんだって」
「はあ……」
「信じてないでしょ。宇佐美さんは本社から来た人だから初耳かもしれないけど、うちの支社ではこの話、常識中の常識だから。あのおばちゃん、実は大昔に一般職でこの会社入って、そのあと一度やめてるの」
 その口調はだんだん熱を帯び、最後のほうはささやき声でなくなっていた。三メートルほど先にいる桜子が地獄耳なら、とっくに聞こえていそうだ。噂話など、聞きたくもなかった。無視したかった。が、それは角がたつというもの。異動して間もない頃、時短勤務中の今野がはやい時刻に退社する際、「この仕事はやっておきますね」と声をかけたら、「やっておくって何? 上から目線すぎじゃない? わたしは当然の権利として早上がりするだけなんですけど?」と叱られたことがあった。以来、彼女の地雷を踏まないよう、つねにびくびくしているのだ。
「やめた理由は寿退社なんだって。わたし、それは違うんじゃないかなと思う。だって、あんな人が結婚できる? まあそれはともかく、やめたあと、すぐにパートの庶務として戻ってきたらしいの。それから何十年、一度も契約を切られずにここの支社で働いてる。しかも結構いい時給で。そんな待遇の人、ほかにいないからね。その便宜をはかったのが、その不倫相手の役員って話。で、こっから先は2パターンあってさ、今でも不倫関係継続中って説と、とっくに別れてるけど、あのおばちゃんがその役員の弱みを握ってるって説」
 話を真剣に聞いているふりをしながら、今野のデスクに並べられた家族写真を見る。彼女はいつも朝九時から業務開始して、昼に一時間休憩、そして午後三時には退社する。今、午後一時すぎ。あと二時間もすれば、この人は家に帰れるのだ。
「わたしはね、別れてる説に一票だね。だって、あんないかにもおばさんって感じの見た目の人と不倫したい男なんている? でね、これはあくまでわたしの自説なんだけど、あのおばちゃんはその役員の子供を……」
「すみません、わたし、もう打ち合わせに出なきゃいけなくて」
 実際、響はこのあと取引先と会う予定があった。話を打ち切った瞬間、今野のうすい唇がくちばしみたいにきゅーっととがった。が、それに気づかないふりをして、ちらっと桜子のほうを見やる。
 いつも通りの厳しい顔つきで、自分の仕事を淡々と片づけている。
「あ、よかったら、これどうぞ」
 机の上の菓子を適当にいくつかつまんで今野に渡した。途端に今野のくちばしが、にこっとやわらぐ。
「アルフォートだ。うちの子好きなんだよね。家に持って帰ろ」
「おい、宇佐美」
 ちょうどそのとき、一緒に打ち合わせにいく予定の黒木から声をかけられ、響はいそいそと席を立つ。今後は小さな菓子を自席に常備しておこうと心の中でメモをする。おすそわけ検定合格への第一歩だ。

 十二月の最初の土曜日、午前九時少し前に、大塚駅で二人と落ち合った。朝九時から麻雀をやるのは響ははじめてだったが、二人によれば以前は朝七時に集合していたらしい。おしゃべりしながらてくてく歩いて十五分ほどで、目的地についた。
 地下一階、地上三階の、あたりでもひときわ目をひく美しい家だった。そこに卓の持ち主であるふじちゃんと猫三匹、犬一匹で暮らしているという。
 門扉のインターホンを押すと、まもなく「はーい、あいてるわよー」と声が聞こえてきた。桜子とすいちゃんはまるで昨日も一昨日もきていたような慣れた足取りで、庭を横切り玄関を抜けて二階にあがった。二人に続いて入った広い部屋には、麻雀卓と冷蔵庫、そして巨大な仏壇が置いてあった。
「変なところでごめんねえ」とふじちゃんは言いながら、卓にちらばった牌から風牌を選び取る。「これ、死んだ主人の仏壇。この部屋は主人のトレーニングルームだったの」
 ふじちゃんは二人とは違い、背筋の伸びた長身の女性だが、年齢は二人より一回り以上年上らしい。響は未だに、桜子の年齢をしらない。おそらく五十代半ばか後半だ。ということは、ふじちゃんは七十歳オーバーの可能性もある。
 駅からここまでくる道中に聞いた話によると、ふじちゃんの夫は桜子の正社員時代の上司だったという。新婚時代に何度か家に呼ばれたり、一緒に食事に連れていってもらったりしていたが、桜子の退社を機に交流が途絶えた。それから数年後に庶務として復職する頃には、ふじちゃんの夫は他県に異動してしまっていた。そして五年前のふじちゃんの夫の葬儀の際、十数年ぶりの再会を果たし、付き合いが復活したということだった。
 つまりこの話で、今野が話していた噂の一部が裏付けられてしまった。
「わたしたちはね、前に同じ麻雀教室にいってたの」ふじちゃんが言った。「主人が亡くなったあと、新しい趣味をつくりたくて、二人を誘ってね。そしたらはまりにはまっちゃって、ついにはこの自動卓の中古を購入したってわけ」
「わたしとすいちゃんはもう教室にはいってないんだけどね」と桜子。「やるのも数カ月ぶりだよね」
「ふじちゃんはあちこち打ちにいっているんでしょ?」
 すいちゃんのその言葉通り、ふじちゃんは慣れた様子で席決めを仕切ったり、ルールの確認をしたりしてくれた。そして座順も決まり(東家・響、南家・ふじちゃん、西家・すいちゃん、北家・桜子)、ようやく対局開始かと思われたが、もちろんそうはならない。
 おすそわけの交換。それは、絶対に欠かせない儀式。
 桜子はデパートの北海道物産展で仕入れたという鮭とばと六花亭のバターサンド、すいちゃんは実家のある小田原の焼きぼこ、ふじちゃんは先週出かけた愛媛みやげのみかん大福、そして響は……。
「あ! これ! 元気が出るやつ! 買うの忘れてた!」
「あ、本当だ! すっかり忘れてた」
「わたしも忘れてたわ」
 三人の盛り上がりを確認しつつ、響は得意満面で持参したモンスターエナジーを一缶ずつ手渡した。昨日、リカちゃんが業務中にわざわざ法人営業部までやってきて(リカちゃんは三階上のカスタマーセンター所属だ)、こっそり教えてくれたのだ。
「明日、麻雀でしょ? あのね、あれ、もっていくといいよ。あのさ、自販機とかでも買える、赤とか黄色とか青とかの、あのーなんだっけ、元気になるやつ、あれ。教えてあげなきゃと思ってここまできたのに、忘れちゃった。あー名前なんだっけ。あのね、あれをね、いつも麻雀のときに飲んでるらしいから。でも多分、ひさしぶりだし二人とも忘れてると思うから。なんだっけ。缶の飲み物、違う、そっちじゃない。もう一つのやつ」と。
「これさ、覚醒の効果って言うのかな、それが長くて五、六時間は続くらしいから、朝のうちに飲んどくのがいいのよね」ふじちゃんがそう言って、プルトップを開けた。ぴゅしゅっと小気味いい音が鳴る。あとの三人も続けて開けた。
「とりあえず、かんぱーい」
 ふじちゃんの音頭で缶を合わせ、四人はごくごくとエナジードリンクを飲んだ。それからようやく、ようやく対局開始かと思いきや、トイプードルのゆうだい(二歳)がとことこやってきて、ひとしきりみんなで遊んだあと、ついにサイコロが回った。

「どうする? そろそろ食事にする?」 二半荘目のオーラスが終わったところで、ふじちゃんが言った。「一番負けてるすいちゃんが決めてくれていいわよ」
「あーもう! わたしのバカ! バカバカ」すいちゃんは自分の頭をグーでぽこぽこ殴る。「昨日ゲームで練習したのに、全っ然ダメ。あー、へたくそ。ねえひーちゃん、さっきのドリンク、もうないの?」
 対局中に響の呼び名がひーちゃんに決定された。響は「もちろんあります」と自信満々で答えた。
「二缶ずつ買ってあります。さっき、冷蔵庫に入れさせてもらいました」
「飲むわ、もう」すいちゃんは小走りで冷蔵庫に駆け寄る。「一日に何本も飲んだら、心臓に悪いわよ」というふじちゃんの忠告も無視して、その場で一気飲みした。
 午後二時過ぎ、卓の上はそのままにして、昼休憩となった。ふじちゃんは韓国食材屋で買ったらしいユッケジャンラーメンというカップ麺(大好物だそうだ)、すいちゃんはいつも食べているのと同じ、手作り弁当。
「あれ、ひーちゃんは何も食べないの?」すいちゃんが聞く。
「あ、わたしは……」
「おまたせ、おまたせ」
 桜子がトイレから猛ダッシュで戻ってくる。ほんの数メートルの距離なのに、ぜえぜえと荒い息を吐きながら、バッグからいつものビニール袋を取り出した。
「はい、リカちゃん激押しの、ペペロンチーノおにぎり」
 昨日、定例ミーティング用の資料の上に、「明日のお昼はおにぎり買っていきます」とだけ書かれたポストイットが張り付けてあったのだ。桜子はほかに、おにぎり六つとお惣菜のパック二つを袋から出した。
「好きなの選んでいいわよ」
 響は数分かけて検討し、おにぎりはこんぶ、総菜は卵焼きにした。
「そんな普通でいいの?」と桜子。「えび天おにぎりは? からあげは? ていうかおにぎりは三個食べていいのよ?」
「いいんです」と響。「ここの手作りのこんぶが好きなんです。甘くて、だしがきいてて。あと、卵焼きは食べたことないし。あ、お金はあとで……」
「あ、じゃあわたしエビ天もらう」すいちゃんがひょいっとエビ天おにぎりをつかんだ。「このエビ天も夜しか出ないやつで、しかも一日二十個限定よ? めったに食べられないレアものよ?」
 その言葉に少し後ろ髪をひかれたが、自分の選択に間違いはないと言い聞かせる。今日の麻雀もそうだった。家族以外とうつのはかなりひさしぶりだったが、いまのところ二家一家でまずまずだった。
「それにしても、すいちゃんはさんざんね」カップ麺をすすりながら、ふじちゃんが言った。「あなた、チョンボも二回もしたでしょ。お祓いいったほうがいいわよ、お祓い」
「そういえば最近、本当についてなくって」とすいちゃん。「この間、スーパーにいって見切り品のバナナ買ったら、腐ってたの。昨日は帰り道にすっころんだし」
「大丈夫? ケガは?」
「大丈夫大丈夫、このたっぷりの脂肪がクッションになってくれるから。たださ、盛大に前のめりにすっころんで、そのときに限ってスカートはいてたもんだから、おばさん御用達のデカパンが丸出し」
 やだあ、あはははと笑い声があがる。麻雀中は、意外なほど会話がなかった。ときどき誰かが「最近、野菜が高くって」などと言いだし、一言二言誰かそれに答えても、すぐにゲームに集中して会話が途絶えてしまうのだ。もっとわいわいおしゃべりしながらやるものだと思っていた響は、少し面食らった。お金をかけているわけでもないのに(それが響には一番意外だった。それに備えて小銭をたくさんもってきた)、三人とも、とにかく真剣なのだった。
 それが今、ようやくおしゃべりができるといった様子で、三人の口から言葉が洪水のようにあふれ出してくる。すいちゃんのパンツ丸出し話からはじまって、いつしか話題はなぜか韓国アイドルのスキャンダルへと移り変わった。誰それと誰それが元カノ元カレ同士だの、誰それが学生時代のいじめ加害で訴えられているだの、三人とも妙にくわしいが響はチンプンカンプンだ。だから黙って、待望のペペロンチーノおにぎりを頬張った。
 名前を聞いても、どんなおにぎりか想像がつかなかった。見た目はペペロンチーノ風のピラフをにぎったものという感じだろうか。一口食べてみて、なるほどと思う。確かにペペロンチーノだ。ニンニクスライスと一緒に混ぜ込まれたドライトマトが、いい味を出している。
 それを食べ終わる頃には、韓国アイドルはどこか遠くに押しやられ、三人はコスパのいい青汁メーカーはどこかという議題で盛り上がっていた。やっぱり、人生にかかわる話はほとんど出てこないのだな、とこんぶのおにぎりにかじりつきながら思う。ふじちゃんはかなり余裕のある暮らしをしているようだが、そのあたりをほのめかしもしない。家族の話もしない。この部屋には家族写真が一切飾られていない。あるのは夫の遺影だけ。いまだにふじちゃんに子供がいるのか、あるいは孫がいるのかもわからない。
 響はふと、何年か前のことを思い出した。大学時代の仲間同士で、ひさびさに集まったときのこと。場所は、銀座のスペインバル。
「わたしたちがこうしてずっと仲良くしていられるのは、いろんな意味で同じレベルだから。例えばこの中の誰か一人が桁違いのお金持ちと結婚したり、ビジネスが成功して億万長者になったりしたら、友情なんて続かない。だって、桁違いのお金持ちと割り勘で食事なんて、ばかばかしくてやってらんないわ。お金持ちの人がおごってくれる。でもそんなことが続いたら、友情は終わりなの」
 確か、そう話したのは、蒼だ。蒼は話しながら、飲み放題のワインをがぶ飲みしていた。とにかく大酒飲みのワイン好きが多いので、その仲間で集まるときは、飲み放題メニューがあるそこそこの単価のレストランで集まるのが定番だった。きっと桁違いの金持ちは、飲み放題でワインは飲まないだろうな、と響は蒼の話に妙に納得したのだ。
 そういえば中学時代の友人も、近所のママ友たちとの経済格差に悩んでいるといつだか話していたっけと思い出す。自慢しているわけではないのに、持ち物や家、車などを値踏みされて、勝手に妬みを買ってしまう、と。
 格差なんて全く存在しないものとして、誰でも楽しめる話題だけ持ち出してわいわいやれるこの場所が、なんだかとても居心地よく感じ、桜子やすいちゃんがうらやましかった。どうしてそれが、ときに難しいのだろうか。やっぱり桜子が言っていたように、世代の問題なんだろうか。

 

(つづく)