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 彼女の隣には、今日お昼で一緒だったすいちゃんもいた。ほかの二人も、リフレッシュルームや社食で彼女と食べている姿をよく見る人たちだった。
「ねえ、だからね」彼女は響がまるで道をよこぎった猫かなにかであったかのように、なんの反応も示さないまま、ぷいっと顔を背けた。「何も言わず、明菜の難破船の動画を見て。女のすべての感情が表現されてて、よくわかんないけど泣けるのよ。とくに夜中に酒飲みながら見たりしたら号泣よ。南極物語より泣けるから」
 四人はおにぎりをつまみに、焼酎をなにかで割ったものを飲んでいるようだった。すいちゃんの脇に大きなボトルが置いてある。
「お客様、おまたせいたしました」
 そのとき、調理場から女性が出てきた。浅黒い肌に大きな目をした若い女性で、外国語のなまりがある。「お持ち帰りの鮭とキムネギ……」
「あの、やっぱり食べていってもいいですか?」
 女性は一瞬、戸惑うような表情を見せたが、すぐに笑顔になった。「あ、ええ、はい。今、お皿にのせますね」
「あ、このままでいいです」と響はパックにつめられたおにぎりを受け取ると、四人組から一席あけてカウンターの前に座った。
「お飲み物は、どうしますか?」
 カウンターにはドリンクと数品のおつまみが書かれたメニュー表があった。それを見ながら響は答える。「えっと、ウーロンハ……あたたかいお茶あります?」
 女性はまたにっこり笑う。「お待ちください」
 響はなんでもないような顔を作ってパックから鮭のおにぎりを取り出しながら、横目で四人の様子を探る。こちらを気にしている素振りは全くない。彼女たちはさっきから明菜とマッチがどうの、奈保子とジャッキーがどうのと、昭和の芸能スキャンダル話で盛り上がっていた。
 おにぎりを一口頬張る。海苔がばりっと音を立て、口の中で握りたてのごはんが、ほろっとほどける。中には分厚い鮭の切り身。おいしい……のだと思う。が、四人が気になりすぎて、あるいは酔いも手伝って、味がよくわからない。
 いつの間にか四人の話題は、正月のおせち関連に移り変わっている。
「デパートでいいものを予約しても、誰も食べないのよね」
「うちもそう、昔は母親が好きだったから、三段の豪華なやつ注文してたけど、もう高齢で、食が細くなっちゃって。あまっちゃうから、最近は母が食べるものだけ自分で用意して、重箱一つにつめてるの」
「わかるわ。結局ほとんどあまるのよね。田作りとかさ、あと昆布巻きとか、だーれも食べない」
「でもわたし、なますは結構好きだわ」
「わかるー。ベトナム風にパンで挟むと意外といけるのよ」
「あら、それおいしそう」
「わたしはやっぱり栗きんとん!」
 会話に聞き耳をたてているうちに、鮭おにぎりを食べきってしまった。やっぱり、ほとんど味はわからなかった。
 お茶を一口飲んでのどを潤す。パックからネギキムチのおにぎりを取り出し一口かじる頃には、話題はまた昭和の芸能話に戻っている。演歌歌手一人一人の名をあげ、自毛かヅラかを言いあいはじめた。
 一番よっぱらっている様子のすいちゃんが、誰の名前があがっても「あれはヅラ」とか「あんな人毛はないわ」などと言うのが妙におかしくて、響もついつられて笑ってしまう。そのとき、すいちゃんがひときわ大きな声で「だーかーらー!」と言った。
「その人はわたしが子供のときからずっとかぶってるから! 自前の毛だったところなんて見たことない! 何回言ったらわかるの? 毎年毎年帽子みたいに不自然なやつ頭にのせて紅白出てたから」
 ほかの三人は手をたたいて大笑いする。
 ふと、響は思う。
 この人たち、自分の家庭のこととか、話さないのかな、と。
 夫の仕事がどうとか、子供の学校がどうとか、その年齢で借家はダメよとか、孫の顔も見られない人生は悲惨よとか、女の一人は老後に苦労するわよとか……。
「あ!」とまたすいちゃんが大きな声を出した。「そうだ、思い出した。不倫といえばさ、わたし今日、偶然見たの」
「何を」と一番奥に座っているお団子ヘアの女性が聞く。彼女はおそらく、うちの料金グループ所属の正社員で、名前は……思い出せない。
「法人営業のさ、ステキングいるじゃない、ステキング。今日ついに現場を押さえたわ!」
 途端に心臓が早鐘をうつ。つい彼女たちのほうに体を傾けてしまう。
「やっぱり二人は男女の関係だと思う、わたし。見たの、もうばっちり!」
「だから何を?」とほかの三人が口々に聞いた。響も「何を?」と今にも心臓を吐き出しそうになりながら、心の中だけで聞く。何を? どこで? いつ?
「まあまあ、一から説明するわね。今日、お昼を食べたあと、なんかちょっともの足りないわと思って、一人で五階にいったわけ。あそこの休憩室にさ、お菓子の自販機があるじゃない? それにブランチュールが入ってるから……そう、わたしホワイトチョコレート好きなの。アルフォートより断然ブランチュール派。えー? バームロール? ブルボン全体でいったらそこはやっぱりルマンドよ。え? あ、そうそう、ステキングね。もう、話そらさないでよ。でね、ブランチュールブランチュールと思いながら休憩室のドアを開けたら、なんか男女がもめている話し声が聞こえてきて、あらなにかしらと思って、そっと隙間からのぞいたわけ。そうそう、市原悦子みたいに……ってあなた、たとえが古いわよ。今は松嶋菜々子でしょ? まあとにかく中をのぞいたら、ステキングがいてさ。相変わらず素敵よね。すらーっと背が高くて、わたし、いつもあの人に似てるって思うの。ほら、あれよ。あれ……なんだっけ。ビールのコマーシャル出てた……違う違うその人じゃない。あら? ビールじゃないかしら。えーっと、あ、ごめんごめん、ステキングの話ね。彼とね、派遣から直雇用になったばかりの……えーっと、なんだっけ、法人営業一課の庶務のさ、きれいな髪の……ああ! そう、小竹さん! 休憩室の奥でさ、彼女と、なんか二人きりでもめているわけよ。小声過ぎて何言ってるかよくわかんなかったんだけど、そうわたしさ、最近なんか耳の聞こえが悪いの。ワイヤレスイヤホンっていうの? あれがよくないんだと思う。だからコードがついているやつに戻したの……え? 老化? あんた、ふざけんじゃないわよ、わたしまだそんな年じゃないわよ。……あ、そうそうごめんごめん、で、一生懸命聞こえない耳をすましてたらさ、小竹さんが、ついに決定的なセリフを口にしたわけよ」そこまで言うと、すいちゃんは胸の前で手を組んで、せつなげな表情を作った。「『彼女がいること、なんで隠してたんですか!』って」
 一瞬の間をおいて、三人が「えー!」とそろって声をあげた。
「それって二股ってこと?」
「彼女じゃなくて、奥さんじゃないの?」
「彼、独身じゃない?」
「だから、隠し妻の存在よ」
「ついでに隠し子もいたりして」
 みんなで口々に言い募る。楽しそうだ。響は残りのネギキムチおにぎりをぐいぐいと口にねじ込み、湯呑をあおって無理やり流し込んだ。すべて飲み込まないうちに席を立つ。そのとき、彼女がこちらに視線を向けた気がして、ちらっと響も彼女を振り返る。気のせいだった。からあげを手づかみで口に放り込みながら「なーにがステキングよ。なんであんな一目見てクズってわかる男にひっかかるのかねえ。おバカな子が多いわ」と彼女は言って笑った。

 店を出てすぐ、雨が降り出した。ぱらぱらとした小雨があっという間に強くなり、自分のマンションにつくころには、ずいぶん濡れてしまっていた。
 恐ろしくて確かめる気にもならないが、間違いなく十一時を過ぎている。なんで寄り道なんかしちゃったんだろうと、自分の愚かさにあきれてため息も出ない。とにかく言い訳を考えなければ。そもそも口をきいてもらえるのか。
 エレベーターが九階につく。部屋のドアの前に立ち、まず呼吸を落ち着ける。正直に話せばいい。ひとつ前の駅で降りちゃって。歩いてきたの。遅くなってごめんなさい。次から気をつける、も必ず言い添えよう。
 よし、と気合を入れ、開錠してドアをあけようとした。が、ガンと音が鳴り響き、ドアが途中で止まってしまった。
 ドアガードがかけられていたのだ。数秒後、部屋の奥から、パジャマ姿の黒木がぬっと姿を現した。
 この間、実家のお母さんから送ってもらったパジャマをさっそく着ている、とどうでもいいことを響は考える。「寝るときにパジャマではなく、Tシャツやスウェットなどを着る女はだらしがない」というのが彼の持論だ。
「遅い」ドアの隙間から、黒木は地蔵のような無表情で言った。「遅すぎる」
「あの、駅をひとつ……」
 ガンとドアが閉じられた。
 言い訳どころか、部屋にすら入れてもらえなかった。
 こうなったら、この場で何をしても許されないのは明白だった。家を閉め出されたのは、これがはじめてではなかった。
 朝まで家の外で過ごす。それが彼にとってはとても重要なことなのだ。だからホテルやインターネットカフェに泊まってはいけない。できれば公園がいい。そして、一時間おきに外にいることを示す画像や動画を送信しなければならない。そうすれば、はやければ四時頃、おそくても六時には入室許可の連絡がもらえる。
 頭をふって気持ちを切り替える。ここで自分の馬鹿さ加減に絶望していても仕方がないのだ。とりあえず時間を確かめようと、バッグの中をさぐった。
 ない。
 その場にしゃがみこみ、バッグの中味をすべて出した。ない。パンツとジャケットのポケットもまさぐる。ない。スマホがない。ついでに財布もない。
 脳裏に一つの光景が浮かぶ。おにぎり屋のカウンター席。湯呑の横に重ねておかれた、自分のスマホとジミーチュウの財布……。
 次の瞬間、響は立ち上がって早足で歩きだした。おにぎり屋まで、徒歩約三十分。明日とりにいく、という選択肢はない。なぜなら、一時間以内に黒木に画像を送らなければならないからだ。迷っている時間など一秒もなかった。
 雨は少し弱まっていた。歩いたり走ったりしながら、ひたすら前に進む。もう出歩いている人はほとんどいなかった。よっぱらいすらいない。わたし何をやっているんだろう、なんて自問自答はしてはいけない。ほんの数時間、耐えていれば朝がくる。こんな夜を、何度も過ごしてきたから大丈夫。
 目的地まであと少しのところで、タクシーを呼べばよかったと気づいた。
 わたし、何をやってるんだろう。
 ようやくおにぎり屋のオレンジのあかりが見えてきた。まだ営業しているか、少なくとも人がいるのは確かだろう。最後の力を振りしぼって走りだしてすぐ、中から人が出てきた。
 丸っこい、パンダみたいなシルエット。お尻まですっぽり隠れるチュニック。彼女だ。こちらを振り返ると、その小さな目をいっぱいに見開いた。
「お財布と携帯、忘れたでしょ」
 そんなふうに友達みたいに話しかけられたのが意外で、響は面食らって一瞬頭が真っ白になった。が、なんとか正気を取り戻し、「はい」と息も絶え絶えに答えた。
「とりにくるかと思って、店しめるの待ってたのよ。ちょっと待ってね」と言って、再び中に入っていく。しばらくして、見知らぬ女性をともなって戻ってきた。
「あらあらずいぶん濡れちゃって」と言いながら、女性はこちらにスマホと財布を差し出した。三角巾をしていないのですぐにはわからなかったが、さっきレジに立っていた女性だった。
「歩いてきたの?」
「おうちどこ?」
「まだ雨降るのかしら」
「ちよちゃん、この子も車に乗せられる?」
「ええ、もちろん」
「あ、のぼり」
 二人は響の返答も確かめもせず、勝手にそんなやりとりをしながら、のぼりを片づけたりシャッターをしめたりしている。やがて店じまいの作業がすべて終わると、「さあいくわよ」「いきましょう」などと言いあいながら、どこかに向かってすたすたと歩きだした。
「あの」と響は二人の背中に声をかけた。「あの、送ってもらわなくっていいです。ご迷惑をおかけして……」
「どうして」とレジの女性が聞く。
「あ、歩いて帰るので」
「遠慮しなくていいのよ、さあはやく」
「いや、あの本当に……」
「あのステキングと同棲してるんでしょ?」彼女が唐突に言った。「彼が迎えにきてくれるの?」
 言葉が出なかった。そんなこちらの顔を見て、彼女はあきれたようにぐるっと目をまわした。
「あの部署で何年庶務やってると思ってるの。誰と誰が付き合ってて、誰と誰が同棲してるかなんて全部しってるわよ」
「そうなの?」とレジの女性が言う。「あら、ずいぶんな情報通ね」
「そうじゃなくて、みんなわたしのこと雑用ロボットだと思ってるから、わたしがいても平気で大きな声で噂話するわけ。誰と誰が不倫してるとか、誰が誰にセクハラしてるとか。みんな涼しい顔して仕事してるけど、中身はどろどろよ」
 ということは、部署の人たちはほぼ全員、自分と黒木の関係をしっているということか。響はうんざりした気分で地面を見る。
 夜道は雨とわずかな月明かりで、ぬらぬらと黒光りしている。公園のベンチもきっと濡れている。座ったら下着までしっとりとして、不愉快極まりないに違いない。
「黒木さんに家を追い出されて、朝まで外にいなきゃいけないんです」
 なぜかそう口走ってしまった。二人はそろって「えー!」と声をあげた。
「何それ、一体何の権限があって?」
「ひっどい男、そんなの許せない」
「とりあえず、いきましょう!」
「ね、いこう」
 いくってどこに? と思ったが、二人の中年女性に半ば無理やり体を押されて、おろおろと歩き出した。近くの駐車場にたどり着き、レジの女性が清算をすませている間、彼女が自販機でペットボトルのお茶を買い、響に手渡した。
「あ、すみません、ありがとうございます」
「それでどうする? 家に送っていく?」
「いや、朝になるまでそのへんうろうろしてます。公園とか。そのうち、帰ってこいって連絡あると思うんで」
「そんなのだめ」と彼女はきっぱりと言った。「じゃあ、うちに来なさい」
「そうね、それがいいわ」いつの間にかそばにいたレジの女性が言った。「決まり、決まりね」
 二人はさっさと車に乗り込んでしまう。響はどうすればいいのかわからず、その場に立ち尽くした。
 ありがたい話だが、正直困る。人の家に泊まったりしたら、黒木にあとで何を言われるか。たとえうまく嘘をついても、そういうときの黒木は妙に勘がいいのだ。
 運転席と助手席に座った二人が、身振り手振りではやく乗れとうながしてくる。助手席側のサイドウインドウが少しあき、その隙間から彼女が丸っこい顔を出して「遠慮とかいらないから、はやく」と言った。
「あの遠慮じゃなくて、こ、困るんです」
「え? 何? 聞こえないわ」
「あの、だから、外にいないと、彼が」
「明日の朝ごはん、おいしいものを作ってあげるから、ね、二人で食べましょう」
「あ、はい」
 朝ごはん。その一言で、響は自分でも意外なぐらい、あっさりと心を決めてしまった。後部座席に乗り込むと、すぐにレジの女性が車を出した。
 黒木のことは、しばらく考えないようにしよう。ぎゅっと目を閉じて、自分に言い聞かせる。家に帰ってからのことは、家に帰ってから考えればいい。
 ……本当にそれでいいのかな? 胸にもやもやとした霧がたちこめる。それでも、たくさん歩いてもうへとへとだった。再び外に出て雨上がりの夜道を一人で歩くのは、うんざりだった。
 運転席と助手席の二人は、さっきから温泉の話で盛り上がっている。レジの女性――ちよちゃんは、温泉オタクらしく、青森の秘湯について熱く力説している。
「あの……」と響は二人に割って入った。「お話中のところすみません。あの、本当にありがとうございます、お二人とも。あと、今晩お世話になります……桜子さん」
「え?」と彼女は外にまで響き渡りそうなほどの大声を出した。「わたしの名前しってるの?」
「なんでそんなことで驚くの」とちよちゃんが言う。
「だって。会社の人たちは、わたしのことを庶務のおばちゃんって呼ぶから。みんな名前なんかしらないと思ってた」
「社食やリフレッシュルームでいつもストーカー行為を働いているから、しってるんです」とはもちろん言えなかった。桜子は振り返り、数秒じっと響の顔を見て、ふいに、すべてを見透かしたような目つきになった。それからさっと前を向いて「まあ、いいか、いきましょう」と言った。

 

(つづく)