しばらく無言で歩いたあと、リカちゃんは何度も背後を振り返り、桜子の姿がだいぶ遠くなったのを確認してから、口を開いた。「ねえ、ひーちゃんに、ちょっと相談ごとがあるんだけど」
おそらくそうなのだろうと響は思っていた。そして、桜子たちには話せないが自分には話せることとはなんだろうと、少し前から考えはじめていた。遺産や相続関係ではないはずだ。自身の健康問題でもないだろう。となると……。
「ひょっとして、気になる男の人でもいるんですか?」
「なんでわかったの?」
あまりにも大きな声に、思わず響も背後を振り返った。もう桜子の姿は、肉眼で確かめることはできなかった。
どこかで犬が吠えている。リカちゃんの魂の叫びに、反応したのかもしれない。
リカちゃんは小さな手で口を押さえて、えへへと恥ずかしそうに笑った。「やだ、ごめん。すっごいでっかい声だしちゃった。いやね、好きな人ができたとか、そんなんじゃないの。ただね……」
すっかり酔っぱらっているリカちゃんの説明は、いつも以上の支離滅裂ぶりだった。が、全神経を集中して耳を傾けて、なんとかぎりぎり、理解できた。
なんでも、数カ月前にフェイスブックのアカウントあてに、“元カレ”からメッセージが届き、以来、頻繁にやりとりをしているというのだ。彼はリカちゃんが旅行会社に勤めていた頃、出張先のオーストラリアで知り合った韓国人男性で、今は母国で事業を起こして成功しているらしい。
リカちゃんは元カレという表現をつかったが、実際に交際していたといえるかどうかは、響の価値観では微妙なところだった。彼と一緒に過ごしたのはわずか数日のようだし、しりあってまもなく母親が倒れ、それっきり会えずじまいのまま二十年近く過ぎてしまった……というのが実態のようだった。
「写真もあるの、見て」
それは、黒いぴちぴちのポロシャツを着た胸板の厚い中年男性が、クルーザーか何かのデッキに立っている“いかにも”な画像だった。作り物みたいにふさふさの黒髪が、風に揺れて稲穂のようになびいている。
「あ、結婚詐欺師だって思ったでしょ」とリカちゃんは響のひじをつつく。「大丈夫よ、会ったことのない人ならアレだけど、わたしはこの人とかつてね、そういう関係だったわけだしね。いつもメールで、昔の懐かしい話をしてるだけなの」
「そ、そうですか……で、韓国にいったら、会うんですか」
「そうしようかなって思ってる」とリカちゃんはうつむく。「まだ、約束してないけど。会いたいとは何度も言われてて。こっちで持つから、なんて、言われたりしてさ。でもずっと断ってたの。ほら、お金のことはともかく、お母さんが生きているうちは、とても旅行なんて無理そうだったし。だけど、ようやく、ようやくね。自由の身になったから」
そうつぶやくリカちゃんの横顔を見ながら、響は高校時代のことを思い出していた。こんなふうに友達と並んで帰り道を歩きながら、よく男の子の話を聞いた。オレンジ色の陽がさす商店街で、たこ焼きか何かを買い食いしながら。あまり色恋話に興味のなかった響は、なんでも思ったことをはっきり友達に言っていた。「それ、脈なしだよ」とか「あの人、ほかの女の子にも同じことしているよ」とか。
しかし、今は……。
「わたしさ、若いときもあんまりかわいくなかったし、ほら、性格も変でしょ? 頭もあんまりよくないし、いい縁っていうのかな、そういうのがほとんどなくて。彼が、唯一、唯一なの」
リカちゃんは夜空を見上げる。それから、ふふっと笑った。
「とにかくね、なんだかこういう話ってさ、みんなにはしにくいのよ。わたしたちってほら、食べ物とかテレビの話しかしないじゃない。だから韓国でひーちゃんが相談にのってくれるとたすかるっていうか、だから一緒にきて……」
「ええ! いきますとも!」と響はリカちゃんを遮って言った。「絶対にいきます。会社クビになってもいきます!」
「本当? やったー」
そのとき、道の先からこちらにむかって走ってくるタクシーの姿が見えた。響は逃すまいと手を挙げた。
「いきますから、そろそろもう帰りましょう。遅いですし。今、百万円以上持って歩いてるも同然ですからね」響はことさら真剣な顔を作り、リカちゃんをまっすぐ見て言った。「家の前にべたづけして降りてください」
リカちゃんを無事タクシーに乗せ、見えなくなるまで見送った。そのあと、響はこの先を案じて、深くため息をついた。
リカちゃんのことが心配なわけでも、スケジュールが明けられるか、気がかりなわけでもない。
桜子たちとの海外旅行なんて、黒木に許してもらえるかどうか――
「あ、そっか、別れるんだった」
一人、つぶやく。夜空を見上げると、月はもう隠れている。そうだ、次の満月までには、と決意を改める。周囲を見回し、人っ子一人いないことを十分確認してから、響はスキップした、ほんの数歩だけ。
四月は全員のスケジュールが合わず、旅行は五月の連休明けまで先延ばしになった。四月の満月は中旬なので、響は順調にいけば、その頃には一人暮らしの新生活を堪能しているはずだった。
しかし、現実はいつだって手厳しい。結局、前日になっても同棲を解消するどころか、別れ話すらできていないありさまだった。
なぜなら、リカちゃんに続いて、黒木まで母を亡くしてしまったからだった。
それはあまりに急だった。ある日の夜、土産物屋を閉めたあとの犬の散歩の途中で、突然胸を押さえて倒れ、そのまま帰らぬ人となったという。知らせをうけた黒木は、今までには見たこともないほど取り乱していた。あと少しで「徳島まで一緒についていこうか」と響は提案してしまうところだった。が、心を鬼にしてぐっとこらえた。そんなことをしようものなら、別れ話など向こう半年はできなくなってしまう。
それでも、韓国旅行だけはあきらめたくなかった。しかし、桜子たちと遊びにいくとはとても言えず、韓国に住んでいる大学時代の友人の淳が病気になり、身寄りのない彼女は看病を必要としている、という嘘をでっちあげた。念には念をいれて、インスタで体調不良をにおわせる投稿を淳にしてもらった。喪中でも油断ならないのが、黒木という男なのだった。
旅行のメンバーは桜子とすいちゃんとリカちゃんと響の四人。ぶっちーはダンスの練習中に左足の親指を骨折してしまい、今回はやむなく断念ということになった。二泊三日じゃせわしなかろうということで、木曜出発の三泊四日になったが、響はどうしても休みがとれず、一人だけ金曜からの途中参加となった。
そして当日、予定時刻通りに、響を乗せた旅客機は仁川空港に到着した。スマホの機内モードを解除するとすぐ、桜子からLINEの通知があった。開いてみると、「ここにきて」というメッセージとともに、マップが添付されている。ピンが刺さっていたのは、美容外科医院だった。
先にホテルによって荷物をあずけたあと、その美容外科医院からほど近いところに見つけたおしゃれなカフェに入った。ちょうど午後三時をまわったところだった。チョコレートのたっぷりかかったベルギーワッフルを食べつつ時間をつぶしていると、三十分ほどしてリカちゃんと桜子が連れだって現れた。
「イボよ、イボ」と響の顔を見るなり、桜子が嬉しそうに言った。「イボをとってきたのよ」
二人の首元に、丸い小さなシールが何枚か貼られている。桜子がこことここも、と自分のこめかみを指さす。
「おばさんになるとね、変なイボがいっぱいできてくるのよ」とリカちゃん。「でも簡単に、しかもお安くとれるのねー。ひーちゃんもお年頃になったらくるといいわ。ところでそれ、おいしそうね。わたしもいただこうかしら。桜子さん、どうする?」
「朝ご飯しか食べてないから、お腹ぺっこぺこよね。でも、こんなどこでも食べられるスイーツで、胃を満たしたくない気もするわね」
「そうよねえ。だってこういうの、東京にいくらだってあるわよ」
「浦和にすらあるわ。探せば二軒はあるわ」
などと言い合いつつも、二人はワッフルやケーキが陳列されたショーケースを見に行き、言葉もわからないのに店員にあれやこれや質問したあげく、結局二人してフルーツやクリームが盛られた大きなワッフルを注文していた。
すいちゃんが現れたのは、それからさらに一時間ほどしてからだった。
黒いつば広のハットに、巨大マスク。そのハットとマスクを外すと、顔中びっしりと丸いシールが貼られていた。
「夜道で出会ったら、確実に悲鳴をあげるわね」リカちゃんが言った。
「夜道でなくても、今、悲鳴をあげそうよ」と桜子。
「顔中のイボとでっかいホクロ、全部とってやったわ」そう言って満足気に笑うすいちゃんを見ながら、響は「ば、化け物」と言いそうになるのをかろうじて飲み込んだ。
「何よ、みんなやけにしゃれたもの食べてるじゃない」すいちゃんは言った。「こんなもの、表参道でもいけば、百個は食べられるでしょ。あら、でもあの人の食べてるティラミスおいしそう、ちょっと見てくるわ」
すいちゃんは日焼け防止のつば広ハットとマスクをつけなおすと、そそくさとショーケースを見に行った。端から端を何度もいったりきたりする姿は、ターゲットを探して夜道をうろつく変質者のようだった。
すいちゃんが注文した大きなティラミスを食べ終わり、ようやく店を出る頃には、すっかり空は夕方色だった。
「さあ、じゃあ腹ごなしもかねてまずはショッピングでもしようかしらね」
そう言ってすいちゃんが三人をつれて向かったのは、ソウル市の中心部にある広蔵市場だった。土産用の総菜や乾物、工芸品、古着なども売られているが、なんといっても圧巻なのはずらりと並んだ屋台だ。結局、現地について五分もしないうちに、一行は屋台のカウンター席についてユッケをつまみに酒盛りをはじめていた。
その後も店をかえては酒をのみ、チヂミだのスンデなどたらふく食べた。満腹になったあとは東大門に移動し、ようやくショッピングを楽しんだ。みんなで若い女の子向けの大きなリボンやバレッタを試着しながら「あら、意外と似合うじゃない。あれ、あれみたいよ、あの、あれ、なんだったかしら? たかしとようこ、みたいな」「かつみ・さゆりのこと?」などと言い合ったり、プチプラコスメのリップを選びながら「あら、桜子さん、生きてるうちから死化粧の練習? 終活に余念がなくていいわね、その調子よ」「そうなのよ。すいちゃんはどうしたの? プール上がりの子供みたいな唇になってるわよ。そこのチゲ屋でプデチゲでも食べてあったまってらっしゃい」などと言い合ったりしているうちにも、ソウルの夜はますます華やかに、騒がしくなっていく。
ホテルに帰り着いたとき、一番くたびれているのは明らかに響だった。
永遠に降りてこないかのように思えたエレベーターがようやくやってきて、這う這うの体で乗り込みながら、響は言った。「全身が痛いです」
「あら、なんで」と桜子。
「お土産買いすぎて腕がちぎれそうで、歩きすぎて足の裏がひりひりして、笑いすぎて顔の筋肉がびりびりします」
あはは、と桜子が笑う。「幸せな痛みね」
十三階でエレベーターを降りる。あらかじめ、すいちゃんと桜子、リカちゃんと響という組み合わせで部屋をわけてあった。
「じゃあ、明日は六時半に朝食会場で集合しましょう」とすいちゃんが言ったとき、響は思わず「六時半!」と絶叫してしまった。
「なによ。今、まだ十時過ぎよ。すぐ寝れば、えーっと、いち、にい、さん……えーっと、三以上の数がわからないわ。とにかく、今すぐ寝なさい!」
手を振って別れたあとも、すいちゃんと桜子はわいわいとしゃべりながら笑い合っていた。その二つの丸々とした後ろ姿をぼんやり見ながら、響はつい「あの二人、元気ですね」とため息まじりに言った。が、返事はない。そばには誰もいなかった。リカちゃんは一人でさっさと部屋にひきあげていた。
響も追って部屋に入ると、リカちゃんは「時間がもったいない」と言いながらてきぱきと荷物を片づけているところだった。それから一秒たりとも休憩することなく、シャワーを浴び、髪を乾かし、あっという間にベッドに入った。
その間、響がやったことといえば、靴を脱いでスリッパに履き替えること、それだけ。
「みんな、なんでそんなに元気なんですか?」
響は誰にともなく、問いかける。リカちゃんは顎の下まですっぽり布団にくるまれて、今にもいびきをかきだしそうな顔をしている。
「わたし、あと三十分はソファから立ち上がれないです」
「重たい荷物を、しょってないからかしら?」リカちゃんは半目になって、うつらうつらしながら言う。「ひーちゃんはね、しょいすぎなのよ」
「何をです?」
返事はない。まもなく、ぴーひょろひょろひょろ~という奇妙極まりないいびき音が聞こえてきた。
桜子もすいちゃんも、すでに眠っているかもしれない。窓の下でいつまでもどこまでもギラギラきらめく夜のソウルを眺めながら思う。反対に自分は、こんなにクタクタでもなかなか寝つけない気がする。旅行の初日は大抵そうだった。おいてきたいろいろなことを、いつも考えてしまうせいで。
もちろん、六時半には到底間に合わず、響だけ朝食抜きとなった。その日は午前中から、みんなで非武装地帯の日帰りツアーに参加した。午後にソウルに戻ってくると、響は三人と別れ、事前に約束していた通り、淳に会いにいった。
本当は淳がPRを担当しているというエステで一緒に施術を受けたあと、焼肉を食べにいくことになっていた。が、急な仕事が入ったらしく、ほんの一時間ほどお茶しただけであわただしく別れた。彼女のビジネスの成功ぶりや、最近付き合いたいと狙っているらしい香港の金融マンの話などを聞いているだけでなんだかどっと疲れてしまった響は、桜子たちとは合流せず、ホテルにもどって休憩することにした。すると、ホテルの最寄り駅で三人とばったり出くわした。三人とも顔が土色だった。
「昨日、いくらなんでもはしゃぎすぎたわ」なぜかすいちゃんの分の荷物も持っている桜子は言った。「明洞の街中で、すいちゃんが五分でいいから地面で寝させてとか言い出すから、もう帰ってきた」
それからそれぞれ部屋に戻り、仮眠をとった。目が覚めたときにはすっかり夜だった。結局、その日はもう出かけずに、出前をとってパジャマパーティを開くことになった。
韓国では出前をペダルといって、専用のアプリを利用するのが一般的だという。韓国通のすいちゃんが、手際よくあれやこれやアプリで注文してくれた。それから三十分もしないうちに、テーブルがあらゆる食べ物でいっぱいになった。
フライドチキン、チーズトッポギ、サムギョプサルと野菜のセット、ジャージャー麺、なぜかお好み焼きまである。そして大量の韓国焼酎とマッコリ。結局、ホテルの小さなテーブルでは足りず、一部はテレビボードの端にのせた。
「なんて最高な夜なの!」四つの紙コップに焼酎を注ぎながら、すいちゃんが言った。「見て、このおいしそうなご飯と、美しいソウルの夜景と、いつでも寝られるベッドと、ウエストゴムのパンツ! 家が一番。さ、乾杯しましょう。リカちゃん、音頭をとって」
ぶえっほん、とリカちゃんが咳払いする。「気づけばもう最後の夜ね。あのね、みんな、忘れてると思うけど、ここにこられたのはわたしのおかげじゃなく、お父さんのおかげだからね。うちのお父さんが、あれやこれや韓国でいかがわしい遊びをしてくれていたおかげで、おいしいもの食べたり、イボとったりできたんだからね。というわけで、最後は両足切断して目も見えなくなったうちのろくでなしのお父さんにかんぱーい!」
それから、飲んで食べての宴がはじまった。いつものように、いやいつも以上に笑って、食べて、ありとあらゆる噂話をして、芸能人の誰がカツラか、誰が鼻に異物を入れていて誰が糸で顔をひっぱっているかを言い争い、そして飲んだ。二時間もしないうちに、珍しく桜子が酔いつぶれ、床の上にころがっていびきをかきはじめた。すいちゃんはその三十分ぐらい前から、フライドチキンを両手に持ったまま、半目状態でやじろべえのように左右に揺れ続けていた。リカちゃんは手酌で焼酎を飲みながら、きらびやかな夜景が広がる窓に向かって、家族の話をずっとしている。
「わたしはね、家の中で一番のおバカなの。何にもできないやつ、どんくさいやつ、バカなやつってずっと言われ続けてね。とにかく何をやっても笑うの、うちの男どもって。女はだからバカなんだとか、そんなこともわからないのかとか、これだから女はとか。何にも決めさせてもらえなくて、いつでもわたしは言いなりよ。学校も、成人式の着物も、わたしに決めさせちゃろくなことにならないんだって。わたしが一番いいところに入ったし、一番いい給料もらってたのにさ。まぐれだとか運がいいだけとか、挙句、女のくせに金なんか稼いでも意味がないとかかんとか。まあ、認めてほしいとは思ってなかったけど。あー、とくに長男のケンジロウね、あいつはほんっとに最悪。わざわざ電話してきて、はやく結婚しろとか、子供を産めとか。お前に関係ないだろって。でも、気が小さいから、言えなくてさ。男の人との縁も、あんまりなかったし。
でもね、それがようやく、ようやくよ。三十七のとき、あれ? 三十八だっけ? 忘れちゃったわ、とにかく、わたしにもついに春が到来って思ってたのに、お母さんがあんなことになっちゃって。そのときにね、ケンタロウには言ったの、次男のね、一番ましだったからさ。いい人がいて、家には帰れないって。そしたら、なんて言ったと思う? 家族より、自分の幸せを優先するのか、お前はそんな人でなしなのか、だってさ。ひどいよね。風俗嬢と駆け落ちしたくせにさ。挙句、借金こさえて、三百万も生前贈与してもらったんだよ。なんでわたしだけ? なんでわたしだけ我慢しなきゃいけないの? そう思ったけど、どうしても、どうしてもお母さんを見捨てられなかった。でも、やっぱり間違いだったんじゃないかって、今でもときどき思っちゃうの、あのとき、見捨てるべきだったんじゃないかって。
明日ね、十何年振りかに会うの。彼に会ったら、わたし……」
ふいにリカちゃんの語りがとまった。響は右手にサムギョプサルをつまんだ箸、左手に数枚のサンチュを握ったまま、じっとその続きを待った。が、ちっとも再開しないので、「会ったら、どうするんですか?」と小さな背中に向かって尋ねた。
しばらく待って返ってきたのは、ぴーひょろひょろ~といういびきの音だった。