それは、突然やってきた。
六月半ばの、日曜の日暮れどきだった。リビングのソファに並んで座り、黒木と『イカゲーム』を見ていた。今まで韓国ドラマの類には一切興味を持ってなかったくせに、突然、一緒に見ようと誘ってきたのだ。響がいつものようにふらっと出かけてしまうのを阻止する目的なのは明白だったが、先月、母親が亡くなって間もない時期に韓国旅行にいってしまったという負い目もあり、ここしばらく、なんとなく彼からの誘いを断れずにいた。
昼過ぎから見はじめて、第三話の半ばまできたところだった。外は小雨が降っていた。画面の中で、ダンス体験会のときのリカちゃんとそっくり同じ体育ジャージを着た人たちが、お菓子の型抜きをやっている。失敗した人から次々と容赦なく銃殺されていく。そのたびに、横で黒木が「うえっ」とか「ぐろっ」などとうめき声をあげる。
「あーやだやだ。韓国人って何が面白くてこんな残酷なもの作るんだろうな、全く」
一人、また一人と死ぬ。
「うわー、本当にいや。なんだよこのシーン。無精ひげをはやしたおっさんが菓子をべろべろなめる姿なんか見たくねえよ、きたねえな」
「もう! うるさい!」
そのとき、腹の中から、叫びが怒りをともなってこみあげてきた。その勢いのまま、言葉が口から次々と飛び出してくる。
「なんでいつも静かに見られないの? 映画館にいったときだってそうだったじゃん。べちゃべちゃべちゃべちゃ、子供みたいに」
「え、映画館?」黒木は目を白黒させている。「なんの話?」
「映画館で、もう上映はじまってるのに、べちゃべちゃ話しかけてきたことあったじゃん。あの俳優なんて名前だっけとか、あの人なんの映画に出てたっけとか。小声だから周りに聞こえないわけじゃないんだよ。大体みんな迷惑してるんだよ。映画がはじまる前に注意だってしてるじゃん、あの、黒いスーツの人がさ」
「何の話をしてるんだ? ていうか、俺ら映画なんて見にいった?」
「いったよ」
「いつ?」
「えーっと、付き合う前、最初に二人で出かけた……」
黒木は口を金魚みたいにぱくぱくさせている。混乱しているようだった。
「越谷の、あの……なんだっけ? レイクタウンだっけ? そこにいったじゃん」
「それが、今更なんだよ」
「だから!」と響は声をはりあげた。自分でも、多少のバツの悪さは感じていた。「あのとき、すっごく嫌だなって思ったの! 上映中、ずっとべちゃべちゃしゃべられたことが。わたしは、あなたのそういうところが、ずっと嫌だったの」
「そういうところって?」
「だから、映画見ながら、べちゃべちゃしゃべるところ。だから……」
「だから?」
「別れたい」
そこまで話したところで、すいちゃんが首をそらしてガハハハハッと盛大な笑い声をあげた。
「あーおっかしい」とハイボール片手に、涙をぬぐっている。「三年近く付き合って、同棲までしておいて、別れの理由がそれ? 初デートの映画館でうるさかったから? 何それ? そんな話、聞いたことないわ」
「今がチャンスだって、とっさに思ったんです」夏季限定のグリーンピースごはんのおにぎりをほおばりつつ、響は言い訳するように言った。「なかなか、別れ話するタイミングがつかめなくて。彼を納得させられそうな理由をずっと探してたんですけど……いや、理由なんていくらでもあるんです、百個でも二百個でもあるんですけど、絶対論破されない理由が必要だったんです。彼ってひろゆきみたいな人だから」
「ひろゆきって何? 元カレ?」とすいちゃん。
「なんでもないです。気にしないでください。とにかく、どうしようどうしよう、なんて言おうって悩んでたら、結局一番むちゃくちゃなやつが口から飛び出してしまいました」
「それで彼、納得したの?」きゅうりの浅漬けをぽりぽりかじりながら、ぶっちーが聞く。
「もちろん、しませんとも」響はきっぱりと言った。「昨日まで、会社から帰ったら毎日話し合い……という名の洗脳教育を受けました。お前は向上心がなさすぎるだの、一人でいたら怠けるだけだの、だから手本となる俺の近くにいるべきだの、もう延々と。でも、わたしが頑として考えを改めないので、昨日、ついにあきらめてくれました……ていうか、なんとなくですけど、庶務の子に乗り換えた感じもします」
「家は?」とぶっちー。「いつまで一緒に住むの?」
「いつまでもなにも、昨日、普通に追い出されました」
「そうよ、びっくりよ」と桜子が口をはさむ。右手に持ったおにぎりは、同じく夏季限定のうなぎ飯だ。「昨日、夜中に突然『しばらく泊めてください』って連絡きてさ。何事かと思ったら、大きなトランク三個も持って現れるんだもの。インバウンドの旅行客かと思ったわ」
「すみません。リカちゃんが帰ってきたら、リカちゃんのところに住まわせてもらいます。部屋がたくさんあまってるそうなので」
リカちゃんは今、一週間のオーストラリア旅行の最中だった。ようやく手にした自由を、謳歌しまくっているようだった。
「そうね。うちは狭いし、そのほうがいいかも」
「でもまあ、よかったわね。変な男と別れられてさ」とすいちゃんが言う。「ひーちゃんね、もう三十代半ばも近いからって、悲観することはないわよ。まだ若いし、いくらでももっといい相手を見つけられる。わたしの知り合いにね、三十九歳で婚活はじめて、三人産んだ人いるから。大丈夫、焦っちゃだめよ」
「いいなあ」ぶっちーは頬杖をつき、どこか遠くを見ている。「わたしも若ければ、あれやるのに。あれ、あのさ、スマホのさ、あれ、あれのやつ、知らない人と出会うやつ」
「あれじゃなくても、あれよ」とすいちゃん。「普通の結婚相談所っていうの? 人気らしいわよ、若い人じゃなくて、我々の年代に」
それから、響以外の三人は、シニア世代の婚活や再婚の是非について、やいのやいのと盛り上がりはじめた。そしていつものように閉店まで居座ったあと、いつものようにきっちり割り勘して、店の前で別れた。
いつもと違うのは、今晩は桜子と二人の帰り道だということ。
雨が降っていたらしく、県道沿いの空気は湿っぽいにおいがしていた。桜子は楽しそうに鼻歌をうたっている。おそらく昭和歌謡だが、曲名はやっぱりわからない。
「次の……」と言いかけて、響は口をつぐむ。次の相手って、探さなきゃいけないですかね、と聞こうとした。すいちゃんの言うように、結婚も、出産さえもまだ間に合うなら、そうするべきなんですかね、と。人として? あるいは女性として? それとも生き物として? そうするべきなんですかね、と。
けれど、やめた。
桜子の鼻歌の曲名が、ふいにわかったからだ――はいからさんが通る。最近、カラオケでものまねしながら、しかも振りつきでよくうたっているのだ。
「凜々しく恋してゆきたいんですわ~たし~」
桜子の鼻歌に合わせて、響はうたってみた。すると桜子はきっとこちらをにらみつけ、それから響よりも大きな声で、さらに得意の南野陽子のものまねをしながら、しかも全力の振りつきでうたいはじめた。
響は笑ってしまいそうになるのをぐっとこらえ、なんとかはりあってうたい続けようとした。が、ダメだった。ぶはっと噴き出してしまう。つられて桜子もぶははっと笑った。
正面からやってきた自転車のおじさんが、「青春だねえ」と言いながら、通り過ぎていく。
「やだ、わたしたち、箸もなんとかって年頃に見えるのかしら」
そう言って、桜子がまた笑い、そして再びうたいだす。「ややこしいかけひきは苦手ですわ~たし~」と大きく右腕をふりあげながら。それを見て響はまたぶほっと噴き出しつつ、本当にそうかもしれない、と思う。
あれこれ不自由だった十代より、忙しさのあまり死にかけていた二十代より、好きでもない男と暮らした先週までより、今、この瞬間が一番楽しいから。今がわたしの、青春期かもしれない。