ようやく終業時間がきて会社を出ると、今日一番の重たいため息がこぼれた。
さいたま市内に越してきて、二年半。こっちの風は東京よりずっと冷たく、強い。とくに夕暮れどきは、するどい刃物のようにきつくて、まるで両ほほをびんたされているみたいに感じる。
地球の向こう側へ消えていく太陽にむかって、バス通りをとぼとぼと歩きだす。同じ道を、背中を丸めた勤め人たちが、やっぱり同じようにとぼとぼ歩いている。やがて駅につくと、いつもとは反対の上り電車に乗って、有楽町で降りた。
向かった先は、本社近くの貝焼き屋。集まったのは、仲良しの同期メンバー四人。うち二人が、ちょうどこの秋にほぼ同時に育休から復職したので、久々にプチ同期会をやろうということになっていた。
響以外は全員すでにそろっていて、テーブル上の網では、たくさんのさざえやカキなどがぶすぶすと音をたてながら焼かれていた。響は席についてすぐレモンサワーを注文し、そのあとで、三人ともノンアルドリンクを飲んでいることに気づく。
「あー、こうして四人で集まると、昔を思い出すよね」
ウーロン茶らしきものをぐびっとあおって、弥生が言う。弥生は三人の中で一番先に結婚し、一番先に出産した。今は時短勤務の期間も終え、ずっと希望していた広報部でバリバリやっているようだ。
「ほんと、二十代のときは毎日のように来てたもんね。それが今では、ほんの数分集まることさえ難しいもん。わたしはまだ時短だから、今日みたいに調整しないと誰とも飲みに行けない!」おどけた調子で有紀が笑う。当初は妊娠したら専業主婦になると話していたが、家のローンがきついらしく、結局は産後半年での復職になった。入社以来、ずっと営業部所属。
「わたしなんて」と博美。「週四リモートだから、人と雑談することすらほとんどないんだよ」
反対に、博美は育休を取得可能期間めいっぱいまで使い切った。結婚前から本社の隣の子会社に出向し、労務関係の業務についている。
「二人とも偉いよ」と弥生。「ちゃんと働いて、子育てもして」
「弥生だって」と有紀。「まだえい君保育園でしょ? なのにフルタイムで働いて、すごいよ」
「うちは母が近くにいるしね。夫も協力的だし」
「うちも夫が協力的で助かるー。育休も一緒にとってくれたし」
「うちも」と博美。「地元のママ友とかさ、旦那さんが激務で、いわゆるワンオペっていうの? そういう人も多くって、とっても大変そう。もう見た目もぼろぼろで疲れ切ってるよ」
「就活がんばってよかったって、今になってしみじみ思うね」と有紀は言った。「安定、人生は安定第一だよ」
三人とも、夫は社内の男だ。そもそもこの会社は、社内結婚がやたらと多い。
それから、三人は響などこの場にいないかのように、子育てお役立ち情報の交換で盛り上がりはじめた。バアバ、吸引機、おむつペール、ユーチューブ。あらゆる単語が響の周囲をふわふわとクラゲのように浮遊する。響はぼんやりと、無関係なことに思いをはせる。今でも付き合いのある友人グループは、この同期メンバーのほかには、大学時代の五人組と、中学時代の四人組がいる。同期たちは“安定”企業に勤めながら三十代で出産し、働きながら子育てするという、ある意味、現代女性の王道ともいえる道を着々と歩んでいる。大学時代の友人たちは、競うように海を渡って、華やかなキャリアを積み上げるという道へ。中学時代の友達三人は、女子大を出た後、ほとんど社会に出ないまま結婚し、みんな子供を三人以上産んだ。
なんだか不思議だ、と響は思う。なぜみんな、同じグループ同士で同じような道を進んでいくのか。そして自分は、なぜ……。
「響はどうなの? 例の彼と」
急に矛先が自分に向いた。有紀がハマグリの殻をこちらに振っている。
「いつまでもだらだら同棲してたら、ダメだよ。うちら、もうすぐアラフォーだよ」
「そうだよ」と弥生。「社内結婚なんかイヤだって言ってたけど、社内結婚ほど楽な道はないって」
「でもほら、響は出世していく人だから」と博美が言う。「三十代の女性初の支社長をめざしてほしいって社長が言ってたんでしょ?」
「でも響のお母さんだって、結婚相手は社内の人なんだよ」と有紀は、今度は博美に向かって殻を振る。「キャリアを積むなら、協力的な夫は不可欠なんだって。うちの会社の男たちはみんな保守的でおとなしい奴が多いし、バリキャリの結婚相手としてちょうどいいと思うけどね」
「確かにー。わたしたちはバリキャリじゃないけど」
「子育ては大変だけど、家庭を持つって幸せそのものだよ」
「わかるー。もう一人きりの生活にはもう戻りたくない。毎日一人で寝るなんて、さみしくて死んじゃう」
「いっそ、子供つくっちゃえば?」
「ていうか避妊はしてるの?」
「そもそも今の彼に結婚の意思はあるの?」
「親に紹介はしてるの?」
「うるさい! 黙れメス豚ども!」
……と怒鳴りつけられたら、どんなにいいだろうと思う。しかし実際に響にできたのは、ひたすらへらへら笑ってその場をやりすごすことだけだった。するとそのとき、思ってもみない救世主が現れた。金髪の男の店員がやってきて、「お料理ラストオーダーになります」と告げたのだ。
「え!」と三人はそろって声をあげた。
「もう九時だよ! 九時半には帰るっていってあるのに!」弥生が慌てて立ち上がる。
「うちも!」と有紀。
「わたしなんて八時半!」と博美。
「わたしが会計しとくから」と響は前のめりになって言った。「みんな、帰っていいよ」
三人は慌てて身支度しながら、なんとかペイがどうのと言い合っている。なにペイでもいいからはやく帰れと言いたいところをぐっとこらえつつ、笑顔で三人に手を振り続けた。
そして、気づけば一人。
テーブルの上は汚れた皿とあらゆる貝の殻で散らかり放題だった。店内は盛況で、ときどき爆発音のような笑い声がはじける。その騒がしさが、妙に孤独をかきたてる。
さっき誰かが言っていたが、二十代の頃は本当に、毎日のように四人でここに集まってくだを巻いていた。誰かがパワハラをされたと言って泣けば、みんなで一緒に泣いて、誰かが彼氏と喧嘩すれば、この場に彼氏を呼び出して説教して。忙しくも楽しい日々だった。
恋愛も仕事もがんばる。あの頃、口癖のように言っていた。彼女たちは志を同じくした仲間だった。しかし、今は何光年も遠くの星に暮らす人々のように思える。みんなそうだ。友達全員そうだ。自分一人だけ、資源のつきた母星に取り残された、そんな気分。みんな、ロケット切り離しに成功して、どこか遠くへ旅立った。
「なんかちがう」
と思わずひとりごちたときには、すでに駅から十メートルは進んでいた。なじみのない風景の中で立ちつくす。うっかりしてひとつ前の駅で降りてしまった。
スマホで時間を確かめる。まだ終電はあるが、引き返してまた地獄行きの満員電車に乗る気はしなかった。この辺りは散歩がてら、何度か歩いたことがある。家までは二十分程度だろう。
ため息をついて、響は再び、歩き出す。人気のまばらな通りへ入る。コンビニ、ガソリンスタンド、古い雑居ビル。さみしい道だった。不動産会社の店舗の看板が倒れて、行く手をふさいでいる。仕方がないのでよっこらしょと持ち上げて脇によけていると、その横を自転車に乗ったよっぱらい男が通りしな、「貧乳ちゃーん」と言った。
最悪。その言葉しか、頭に浮かばない。
ふいに、また「なんかちがう」という感覚にとらわれた。恐る恐るグーグルマップを確認する。家とは真逆の方へ向かってずっと歩いていたことがわかり、愕然とした。
最悪。その言葉しか、頭に浮かばない。
そのときだった。少し先にオレンジ色の光がぼうっとともっていることに気づいた。飲食店だろうか。通りに並ぶほとんどの店が営業を終了している。まるで吸い込まれるように、響は早足でそこへ近づいていく。
やがて、目の前までやってきた。やはり飲食店のようだった。店名はどこにも出ていない。出入口の上に木の看板がかかっていて、そこにはただ一言、
おにぎり
とだけ、書いてある。
店の横にはのぼりもあった。やはりそこにも、
おにぎり
とだけ。
ガラスのドアから中をのぞく。店は奥に細長い造りで、左側にたくさんのおにぎりが陳列されている。
まだ営業しているのだろうか? こんな時間に? あちこちきょろきょろ探したが、営業中の札がかかっているわけではない。が、準備中の表示もない。おにぎりはかなりの量が並んでいる。売れ残りだとしたら、この店は相当不人気店か、あるいは商品管理へたくそすぎか。が、なんとなくそうは思えなかった。なぜなら陳列されているおにぎりたちは、プラスチックのふた越しだが、妙においしそうに見えるのだ。
そのとき、レジに人影が現れた。三角巾をつけた中年女性。こちらを見ると、ぺこっと会釈をした。
いらっしゃいませ、という意味にしか受けとれなかった。響はおそるおそるガラスの引き戸を開けた。
「いらっしゃいませー」と三角巾の女性は、まるで今がランチどきであるかのようなさわやかさで言った。「出ていないおにぎりは作れますから、言ってくださいね」
陳列棚は二段になっていて、上の段に七種、下の段に六種のおにぎりがならんでいる。それぞれに上に押し上げるタイプのふたがついていて、ほしいものをトングでとって盆にのせ、レジにもっていくスタイルのようだ。こんぶ、おかか、たらこ、ツナマヨ、名前だけでは具材がよくわからないやつも数種。
ぐーっと腹がなった。
思えば貝焼き屋では、レモンサワーにちびちび口をつけただけで、ほとんど箸がすすまなかったのだ。
響は盆もトングも持たず、レジに向かった。
「あのー、なすびちゃんってなんですか?」
「ああ」とレジの女性はにこやかに笑う。「おなすをね、甘辛く煮て、ねぎとかしそとあえたもの。優しい味で、おいしいですよ」
「えーっとじゃあ、あさり姫は?」
「あさりの佃煮です。手作りで、しょうががきいてて、おいしいですよ」
「なるほど。えーっと、鮭とネギキムチください」
「あ、はい。すぐ握りますね。お持ち帰りですか?」
「え……あ、はい」
「二つで五百八十円です」
レジは手打ちで、電子マネーどころかクレジットカードすら怪しいところだ。財布の中を確かめると、千円札が一枚だけあってほっとした。
響の会計をしながら、「アリちゃん、鮭とキムネギー」と女性は背後の調理場に元気よく声をかける。「はい、次の方―」
響は驚いてさっと脇へよけた。後ろを見ると、しらない間に男性二人、女性一人が並んでいた。
三人とも勤め人風情で、うつろな目つきをして立っている。お盆の上に、一個か二個のおにぎり。
そのとき、店の奥からどっと女性たちの笑い声が聞こえた。レジの右脇の通路をのぞくと、奥にカウンター席があり、女性が四名、ならんで座っていた。そういえば、さっきお持ち帰りかどうか聞かれたっけと響は思う。イートインスペースがあるのか。
ふいに、一番手前に座っている一人がこちらを振り返った。目があった。
彼女だった。
そっけない黒髪のショートヘア、黒縁めがね、お尻まですっぽり隠れるチュニックにジーンズ。今日、会社で見たままの姿の彼女が、そこにいた。