「そのうわさ、少し間違ってるんです」と響は言った。「訴えてるのは、わたしじゃなくて、契約社員の庶務さんなんですよ」
響はここしばらくの間、自分の職場で起こっている騒動を簡潔に説明した。庶務の清田さんが体調不良改善を理由に、一週間分の有休を申請したが、速水がこれまでの清田さんの業務態度や勤怠などを理由に却下し続けたこと。その結果、清田さんが入院するに至り、経緯をしった家族が苦情を申し立て、速水の懲戒処分が検討されはじめていること。
「そうなのね」と桜子は言って、数秒、目を閉じた。「どうしてそんなこと、しちゃうのかしら」
「確かに、清田さんは遅刻とか欠勤も多かったし、ミスもしょっちゅうで。問題があったといえばそうなんですが……」
「だからって、有休拒否で入院させちゃうんなんてパワハラ認定されてもしょうがないわ」と桜子。「新人時代はさ、もしお互いお局になっても、若い子をいびったり意地悪したりするのは絶対やめようねって散々言い合ったのにね」
「いつからそんな意地悪をするようになったの? はじめはそんなことはなかったんでしょ?」すいちゃんが聞いた。
「わからない。わたしも一緒に働いていたのは、ほんの一時期だし。花村さんとのことで周囲から孤立しちゃったのも原因かもしれないし、二年休んで、同期や後輩の男性たちに次々追い抜かれてしまったことがきつかったのかもしれないし。そのほかにも、いろいろなことが積み重なって……」
そのとき、すいちゃんのスマホからLINE電話の着信音が鳴り出した。「嫌な予感がするわ」と言いながら、すいちゃんは電話に出る。響もにわかに、自分の手先が冷たくなるのを感じる。
通話はすぐに終わった。
「安心して」とすいちゃん。「ランボーのおむつが見つからないんだって。でも、今日はご飯をたくさん食べてるみたい。そろそろ帰らなきゃ」
すいちゃん宅に戻ったランボーはまだ持ちこたえていた。響はほっと息をつく。
そのあといつも通り、三人できっちり割り勘して店を出た。駅までいってタクシーに乗る、というすいちゃんとは、その場で別れることになった。
「飲みすぎちゃったわ。酔い覚ましに、久しぶりに散歩しましょうか」
桜子はそう言うと、すたすたと駅とは反対方向へ歩き出した。見慣れた早歩きの後ろ姿だった。春の夜風はどこか甘いにおいがして、空にはほぼまん丸の月が浮かんでいて、そして、二人はもうほとんど話をしなかった。響は、今夜はもう、桜子や速水のことについて、あれこれ聞くのはやめようと思った。ただ、この自由を楽しみたかった。週末の夜、気の合う人と散歩する。時間も、家で待つ人のことも、明日の約束も、心配する必要もなく。
それでも本当は、なぜ、もっとはやく打ち明けてくれなかったのかと問いたかった。自分と速水の板挟みになるのが嫌なら、もっとはやく、正直にそう言ってほしかったのに、なぜ避けたのかと。そんなに自分は信用ならないのか、と。
それから十分ほど、あてどなく歩き回った。信号のない交差点で立ち止まったとき、桜子が言った。「そろそろ帰りましょうか」
そこは、二人の住まいの分岐点だった。響は桜子の顔をじっと見て、それから意を決して息を一つはくと、言った。
「今日は速水さんのこととか、いろいろ話してくれて、ありがとうございました」
桜子は驚いたように目をわずかに見開いた。「……こちらこそ、聞いてくれてありがとう。じゃあ、また」
「待ってください」と引き留めたあと、響は両手をもみながら逡巡する。
「どうしたの」
「あのお……えっとお……」
「もじもじしなくていいわよ。聞きたいことがあるなら、はっきり聞いてよ。もしかして、わたしと元お……バカ男がちゃんと子作りしてたかどうか、聞きたいんじゃないでしょうね」
「そんなことはビタ一聞きたくありません!」思わず声を荒らげてしまった。「そうじゃなくて……あの、わたしのこと、信用できないですか?」
「え?」
「あ、すみません。間違い、今のなし! あのえっと……そうだ! もう一人の同期の、滝沢さんってどうなったんですか?」
桜子は、今度は大きく目を見開いた。それから、「話すの、忘れてたわ!」と言いながら、響の右腕をばしんとたたいた。
「それがね、びっくらぽんよ!」と桜子は言った。「滝沢ね、花村さんと結婚して、子供も無事生まれて、家も買って、まあなんというか、絵にかいたような幸せファミリーを築き上げたわけ。会社は結局やめちゃったんだけど、わたしとは年賀状のやりとりだけは続けてたのね。で、それから何年も過ぎて、驚き桃の木山椒の木、あの子、駆け落ちしたの」
「え!」という響の大声が、夜八時すぎの交差点にこだました。
「しかも、五十過ぎてからよ」
「ええ!」その声に反応するように、どこかで犬がワンワンウーと遠吠えした。
「誰と?」
「マー君よ! 地元の彼氏の。速水の言うように、この世に存在しないわけでも、お化けなんかでもなかったの」
「ずっと続いていたってことですか?」
「いや、それがね、二人はそもそも親に付き合いを反対されてたらしいの。で、滝沢は彼をあきらめる形で花村さんと……だめよ、一言二言で説明できないわ、もう一歩きしましょう」
「あ! じゃあそこのコンビニでアイス買って、歩きながら食べません?」
「いいわね!」
二人は交差点を走って渡った。そのとき、桜子が「走れー走れーコータロー」とわけのわからない歌をうたいだしたので、響は大笑いした。
「ハハハ! なんですか、急に変な歌つくらないでくださいよ」おかしくておかしくてたまらず、響はそのまま大笑いしながら、コンビニの駐車場にうずくまってしまった。
「作ってないわよ、やだ、ハハハ、こういう歌が本当にあるんだって」
「絶対うそですよ、アハハハ、あーおかしい」
「本当よ、何がそんなにおかしいの。変な子ね」
そう言う桜子も、笑いながらこぼれた涙をぬぐっている。
二人はまるで思春期の家出少女みたいに、コンビニの駐車場の真ん中でいつまでもげらげら笑っていた。野良猫があらわれて、怪訝な顔で二人を一瞥したあと、のろのろと去っていく。春の夜風がまたふいて、甘い花のにおいがした。
翌週月曜、速水は出社しなかった。結局、それきり彼女の顔を見ることなく、数日後の朝礼で、センター長から速水の退職が発表された。
速水がいなくなると同時に、再びチーム内で配置転換があり、委託会社担当を二名に増やしてもらえることになった。速水に代わるマネージャーもすぐにやってきた。偶然にも以前、本社の営業部にいたときの先輩だった。彼は間が抜けていて仕事もできないが、ハンサムで気の優しい男なので一瞬でみんなの人気者となり、それまでチーム全体を覆っていたよそよそしいような雰囲気があっけなく一掃された。川口もこのところ、つきものがとれたように友好的になった。徐々にわかってきたことだが、川口の陰湿な態度は、速水が彼女に課していた仕事量のあまりの多さのせいだったのだ。最近は彼女のほうからおすそ分けの菓子をくれるようになった。
六月半ばには、佐藤さんのおにぎり屋がようやく営業再開した。そこで、久々に五人全員が集まることになった。
それぞれ注文した飲み物やつまみが出そろい、乾杯をすませると、各々の近況報告がはじまった。すいちゃんはランボーを看取ったあと、新たな保護犬コブラを迎え入れ、さらにけんちゃんが痛風になり、前以上にバタバタと忙しく過ごしているという。リカちゃんは法律関連の資格取得を目指して勉強していたが、あまりにも難しくてついに断念し、最近、介護職員初任者研修の資格講座に乗り換えたらしい。ぶっちーからの報告には、全員が驚きのあまり悲鳴をあげた。なんと夫の不倫が発覚したというのだ。しかし、ぶっちーに落ち込んでいる様子は皆無で、それどころか高笑いしていた。これまで夫寄りだった娘二人がぶっちーサイドにつき、家庭内の主導権を奪還しつつあるうえ、離婚となった場合もこちら側が有利なのは明らかだからということらしい。響はもちろん、ルナの話をした。
「で、桜子さんは?」すいちゃんがハイボールのグラスを掲げながら聞いた。
「わたしは特に何もないけど、会社やめることにした」
「え!」と四人全員が声をあげた。それから口々に「何もないどころじゃない」「なんで」「どうして」と言い募った。
「九州に住む姉が病気になって」と桜子はひさしぶりのエビ天おにぎりを頰張りながら言った。「ほかにもまあ、いろいろあってね。しばらく週三勤務にしてほしいって新しいマネージャーに相談したの。ひーちゃんがいなくなったあとに来たひとなんだけどさ。そしたら、絶対に無理の一点張りでさ。じゃあ有休使って今月まるまる休みますって言ったら、そんなことをするなら次の更新はしないって言われた」
「マネージャーってさ、あいつでしょ! あのハゲちゃびん!」となぜか天井を指さしながら、リカちゃんが言った。「前の部署でもパワハラやって問題になってたらしいよ。だいたいそれ、雇止めじゃない。ひどいわよ」
「いいの、もう」と桜子は言った。「『あなた、自分がいなくなったらみんなが困るって思いあがってるタイプの人でしょ。庶務なんて中学生でもやれる仕事なんだからね』なんて言われて、もうあったま来ちゃってさ。じゃあやめますって言っちゃったわ」
「ひどい」とつぶやくぶっちーは、すでに涙ぐんでいる。
「戦えば契約更新できるかもしれないけど、なんだか嫌になっちゃった。そのことがあってから、ますますマネージャーのわたしに対する態度がきつくなってきたし」
「どうきついの?」とすいちゃんが聞く。
「たいしたことは、ないんだけどね。わたしのことをね、いつも『あのおばさん』って言うの。『あのおばさんに頼んで』って大きな声で。『あの“どんくさそうな”おばさん』とか『あの“太った”おばさん』なんて嫌な枕詞がつくときもある」
「うわっ」「やだっ」などと言いながら、みんなが一斉に顔をしかめた。
「いじわるな男性社員なんて、これまでの庶務人生で一億人は会ってきて慣れてるつもりだったけど、やっぱりなんだかげんなりしちゃう。いいきっかけかもしれない。ある程度は貯えもあるし、あとのことはおいおい考えるわ」
閉店時間を迎え、お開きになったあとの帰り道、しばらく桜子と二人きりで歩いた。その道中、「速水さん、かなり悪いんですか」と響は聞いてみた。
「そうねえ」桜子は右手に持ったトートバッグを、子供みたいにぶんぶん振っている。「そんなに長くはないわね。今は一人でやってるけど、いずれは緩和ケアっていうの? そういうのに入るんだと思う」
「そうですか」
「悲しい話だけど、終活っていうの? 亡くなったあとのことも考えなきゃいけなくて。家の処分とか、いろいろ。それを手伝ったりしてる。彼女、天涯孤独の身の上だからねえ」
「わたしにもできることあったら、何でもやるんで、いつでも声かけてください」
思わずそう言ったが、正直、速水とはもう一切、関わり合いになりたくなかった。彼女の顔を思い浮かべるだけで、体のすべての先がすっと冷たくなる。
「そうね、ありがとう」
少し前を歩きながら、桜子はどこかぼんやりとした口調で言った。きっと、自分のことは頼りにしないだろう。なんとなくそう思い、その気持ちはすぐに、なんとなくから強い確信に変わる。うすっぺらで薄情な自分を、きっと桜子は見透かしているのだ。
いつもの分岐点までやってくる。前に二人で女子高生みたいに笑い転げたコンビニの駐車場が、右手に見える。真っ暗な住宅地の中で、それは巨大な蛍のように今夜も煌々と光っていた。桜子は「またね」とこちらに背を向けたまま手を振り、去っていく。その足取りは、いつもより少し遅かった。