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 桜子のアパートは、今晩響が間違えて降りた駅から歩いて十分ぐらいのところにあった。木造三階建ての一階。車を降りてちよちゃんに別れを告げたあと、エントランスのドアを開けながら、
「朝、隣の犬がうるさかったらごめんね」と桜子は言った。
「はい、どうぞ」と促され、玄関にあがる。すぐ左手にあるキッチンは、調味料類やキッチン用品が機能的かつ整然と配置され、使い込まれた雰囲気だった。小さいがダイニングスペースもある。奥のリビングは七畳か八畳はありそうだった。テレビとちゃぶ台。ソファはなく座椅子が二つ。窓際にシングルのベッド。とりたててしゃれているわけでも、洗練されているわけでもない。生活感はあるが、清潔な部屋。
 響はほっと息をつく。少なくとも今、彼女は一人で暮らしている。不在にしている家族もいない。
「少し広めの1DKってところね」と桜子は言った。「これで六万七千円はまあまあお得でしょ? 駅から遠いのだけが難だけど、通勤がいい運動になるし。本当はURっていうの? ああいうのに入りたいけど、なかなか難しいわよねえ」
 それから、桜子に促されるままシャワーを浴びた。バスルームを出ると長そでのTシャツと短パンが用意されていた。下着は途中でコンビニに寄ってもらって入手した。それをバッグから取り出すとき、つい、スマホを確かめそうになって手を止める。
 もう、マンションを出てから一時間は軽く過ぎた。黒木から怒りのメッセージがきているかもしれない。いや、絶対にきている。見たい気持ちと一生見たくない気持ちが半分半分。
「服大丈夫ー?」と桜子が声をかけてきた。「大きすぎない?」
「大丈夫です」と答えながら、スマホをバッグの底の底に押し込んだ。
 桜子はちゃぶ台をどけてスペースを作り、そこに布団を敷いてくれていた。彼女もその後すぐにシャワーを浴び、同じような半そでのTシャツ短パン姿で戻ってきた。
「ねえ、アイス食べる? 遅いしやめ……」
「食べます!」
 響の元気な返答に、桜子はぐっと親指を突き立てる。しばらくして「はい、どうぞ」と手渡されたのは、あずきバーだった。
「かたいから、歯を折らないように気をつけて」
 そう言われおそるおそるかじりつく。かたい。が、舌の先に触れるあずきの甘みがここちいい。こんな時間にアイスなんて食べるのは、とても久しぶりだった。深夜に何か口にしているところを見られでもしたら、黒木に朝まで延々と説教されかねない。
 桜子はベッドに腰かけながら、あずきバーのかたさなどものともせず、すでに半分かじり終えている。すっぴんは普段よりずっと若々しく見えた。Tシャツや短パンからのびる腕や脚も、白くつややかな肌をしている。
「やだ、じろじろ見ないでよ」と桜子は言った。「おばさんのくせに漫画のキャラクターTシャツなんて着るなって思ってる?」
「そんなこと思ってません」と響はあわてて言った。そもそもそのカエルの絵がなんのキャラクターなのか、響にはわからなかった。
「これ、いいでしょ。ピョン吉。すいちゃんがね、ネットで見つけて、絶対にわたしに似合うからって買ってくれたの。会社に着てきてって言われたけど、わたしはひろしじゃないからさすがに無理だわ」
「あの……」と響は恐る恐る切り出す。「どうして今はこんなに親切にしてくれるのに、会社では、なんていうか、怖い感じなんですか?」
「なんでそんなオドオドと聞くの。とって食いやしないわよ」と桜子は笑う。「うーん、そうねえ。前はね、もう少し愛想よくしてたんだけど。そう、ずっと前。庶務の仕事をはじめたばかりのとき。当時はいわゆる社内コンプラっていうのかな、そういうのが存在しないも同然だったからさ。庶務のおばさんっていったら、もうみんななんでも屋みたいに扱ってくるわけ。それこそ二十年前は『おばちゃーん、お茶』なんて言う人もいたんだから。二十年前っていったら、わたしまだ三十代よ。やだ、年がばれちゃうわ、ハハハ」
 桜子がかなり前からあの会社で庶務として働いているという話は、響も聞いたことがあった。その昔は、一般職で採用された正社員だったという噂もある。
「わたしにはちゃんと『日吉桜子』って名前があるのに、いつだって『庶務のおばちゃん』。気づいたらしょうもない雑用のために、当たり前のようにサービス残業してる自分がいてさ。このままじゃダメだって、あるとき気づいたの。『庶務のおばちゃん』に甘んじていたら、どんどんつけこまれる。だからとにかく、わたしの名前も覚えないような人たちに、無駄に親切にするのはやめたの。お愛想もやめた。
 でもね、昔はひどかったって言ったけど、あの会社は今もかわらない。この間、今年の新入社員にすら『庶務さん』って呼ばれて、びっくりしちゃった。ちゃんと社員証を首からさげてるのに。でも、まあいいけどね。昔はいちいちムカついてたけど、今はもうなんとも思わないわ。ただ淡々と、自分に課せられた業務をこなすだけ。毎日同じ仕事。ただの雑用。誰でもできる仕事。それが庶務」
 そんなふうに言いつつ、しかし桜子に卑屈さはみじんも感じられなかった。こうして話している今も、そして会社にいるときも、彼女から感じられるのは――
 仕事に対する責任感、そして誇り。
「ねえ、ところでさ、余計なお世話だけど、彼のことは大丈夫?」桜子が聞いた。「家に帰って、怒られない?」
 響は苦笑した。「わからないです。怒られるかも。でも、大丈夫です」
「そう。大丈夫ならいいけど」とつぶやいたきり、桜子はなにも言わなかった。なにか聞いてほしかった。そうしたら、黒木のことをもっと話せるのに。しばらく待ったが、やっぱりなにも聞いてくれない。だから、響は自分から語りだした。
「彼、最初は優しかったんです。支社転勤になって戸惑ってるわたしに、いろいろ親切にしてくれて。別々の部署だったときはいい関係だったんですけど、彼が異動してきてから、なんだか変な感じになっちゃって。わたしの母のこと――うちの母、経済界ではわりと有名な人なんですけど、そのことが、プレッシャーになってるのかなあって。いずれはまたどっちかが異動することになるだろうし、そうしたら、またもとに戻れるかな。
 あ、小竹さんのことは、前から知ってました。ストーカーみたいなことされて、困ってるって。浮気とかじゃない……はずです」
「ふーん」と興味がまったくなさそうにつぶやく桜子は、とっくにあずきバーを食べ終えている。二本目に手を出そうか迷っているのか、木の棒をしばらくもてあそんでいたが、ふいに響を見て言った。
「寝ましょうか」
 そう言うと立ち上がってごみを捨て、そのまま洗面台のほうにいってしまった。戻ってきたときは歯ブラシをくわえていた。なんとなくそのまま話は途切れ、やがて響も歯磨きを済ませると、それぞれベッドと布団に入り、明かりが消された。
「わたし、今日、会社の同期と飲んできたんですよ」
 響は闇に向かって言う。敷いてもらった布団はふかふかだった。さっきおにぎり屋で一緒だった人たちが、ときどきここに泊まりにくるので、まめに手入れしているらしい。桜子がすぐ横でまた「ふーん」と返事をする。
「わたし入れて四人、入社したときからずっと仲良しで。昔は本社近くで毎日飲んだり、夏休みも一緒に旅行したりしてたけど、三十代にもなって、もうほかの三人は当然、結婚してて。みんながんばって、働きながら子育てしてます。忙しいながらも自分の時間もちゃんと作って、充実した日々を送ってるんだろうなあって伝わって、なんだかすごいなあって思いました。大学時代の仲間は結婚してたりしてなかったりするんですけど、わたし以外はほぼ全員、海外に出てキャリアを積んでます。中高時代の友達は逆に、ほぼ全員専業主婦で、子供も二人とか三人とかいて。とにかくみんな、着実に人生の駒を進めてる感じで。
 わたしは、少なくとも二十代の中頃ぐらいまでは、みんなと同じほうを向いてた気がするんです。具体的なイメージは持ってなかったんですけど、友達の中の誰かと同じような道にいくんじゃないかなって。どの道も選べると思ってたし、周りからもそう思われてたと思います。自分でも、自分が恵まれてるってわかってます。今の会社に就職できたのも、母のおかげだし。一応出世ルートにのっているのも母のおかげだし。
 たぶん、どこへでもいけるんです。母ほどの人物になれるとはさすがに思わないけど、わたしはたぶん、この国に生まれた同世代の女性の中で、あ、もしかしたら世界に幅を広げても、選択肢がすごく多くて。それはわかってるんです。恵まれてる。わたし、恵まれてるんですよ。
 だけど、わたし、なんていうか、どこにもいきたくないんです。人生の駒なんて進めたくない。幸せでいたいとは思うけど、そのために、どこかへいく必要があるのか、先へ進む必要があるのか、よくわからなくて。
 このままじゃ、ダメなんですかねえ。
 人生ゲームのあのルーレット、絶対に回さなきゃいけないんですかねえ。
 でもこんな話、誰にもできなくて。だって、わたしは恵まれているから。お嬢様の贅沢な悩み、みたいな。そんなつもりは全くないんですけど」
 ガゴーガゴーといびきが聞こえてきた。自分がただ虚空に向かってしゃべっていることには、だいぶ前から気づいていた。それでも、自分の気持ちを口に出したのはこの夜がはじめてだった。五十代の独身女性がたった一人で暮らすこの小さな、だけど清潔で、とても居心地のいい部屋で、響ははじめて自分の気持ちと正面から向き合った。

 

(つづく)