十月、秋の気配にようやくつつまれはじめた頃、桜子とリカちゃんの三人で伊香保温泉にいき、全身ふやふやになるまで何度も湯につかった。十二月には、今度はぶっちーも入れた五人で再び韓国旅行にでかけた。またみんなでイボをとり、しこたま酒を飲み、たらふく食べた。桜子はまたしても広蔵市場で泥酔して、その辺にいる韓国人男性とツーショット写真を撮りまくり、すいちゃんは初日に飛ばしすぎて二日目の夜には体力を使い果たしてついに地べたにねそべり、ぶっちーは明洞の街中で突然、「イ・ビョンホンがいた!」と叫んで走り出して行方不明になり、リカちゃんはまたホテルにパンツを全部忘れた。
そして迎えた年末年始、響は実家に帰らず、一人きりで過ごすことになった。
正確には一人と一匹。すいちゃんのところの保護犬ランボーを、あずかることになったのだ。
もう片方の保護犬、ロッキーの体調が思わしくなく、すいちゃんがそちらの世話に専念できるようにするためだった。昔は家族で何匹も保護犬を世話していたときもあったが義父が動物を毛嫌いしているので、両親の再婚後、実家は動物厳禁となった。だから今年は帰省を見送ることにしたのだ。
桜子は例年どこにもでかけず一人で過ごしているらしいが、今年は九州に住む姉のところにいくという。年末に姪っ子たちが立て続けに出産したので、そのお世話のためだそうだ。リカちゃんは中学時代の同級生三人で豪華プーケット旅行。ぶっちーもほかの友達も、当然、家族や恋人と一緒に過ごす。
一人なのは、自分だけだった。
「楽しみでしょ、ね?」
二十七日の夜、佐藤さんのおにぎり屋での年内最後の集まりの際、桜子がいつものエビ天おにぎりを片手にそう言った。
「うらやましいわあ。一人の年末年始って、本当にいいものよねえ。わたしはね、年末年始の過ごし方ってここ十年ずっと同じなの。ルーティーンってやつね。まずね、二十九日までに大掃除を済ませる。もう家中ピッカピカにするから。カーテンも洗うし、靴底の奥まで拭き倒すわよ。で、三十日は、必ず煮込み料理を作る。丸一日かかるような大作ね。去年は鶏のコンフィで、一昨年は……なんだったかしら、まあいいわ。で、三十一日は昼からそれ食べながらだらだら酒飲んで、一日は朝四時に起きて家を出て初日の出を見て、それから初詣。で、二日はね、ドラマとか映画を一日中見まくるわけ。去年は韓国のあれ、あの、あれのやつ、あー名前も内容も忘れたわ、まあいいか。それで三日は、ちょっといいお店でランチ、それが一番の楽しみでね。今年は銀座でフレンチ食べようと思って、お店も決めてたのになあ。あとは気が向いたときにお散歩。そんなふうに過ごしてたら、あっという間。いいなあ、いいなあ」
そう言って、子供みたいに何度も「いいなあ」を繰り返す桜子がおかしかった。
だから響は、桜子をそっくりそのまま真似してみることにした。大掃除をなんとか二十九日までに終わらせると、そのあとランボーを引き取りにいった。ランボーは白い毛の中型の雑種で、老犬でかなりおとなしいが、散歩が大好きな子だった。三十日は桜子に教えてもらったレシピで、スペアリブの味噌煮込みと黒豆を仕込んだ。黒豆はちょっとしわができてしまったけれど、味はまずまず。スペアリブは大成功だった。お肉がとろとろに仕上がって、濃いめのタレも抜群。三十一日は午前中のうちにいつもの沼の公園へいってランボーを歩かせたあと、スペアリブと黒豆をつまみに、リカちゃんにもらった伊香保温泉のお酒や韓国で買ってきたマッコリやら飲んでいたら、七時前に寝てしまった。元日は早朝三時半に起床。自転車に備え付けたキャリーケースにランボーを乗せ、荒川の河川敷までひとっ走りして、初日の出を拝みにいった。帰ってくると少しまた寝て、午後に大宮の氷川神社まで初詣にいき、それから二日にかけて見そびれていたイカゲームシリーズを一気見した。そして待ちに待った三日は、桜子に教えてもらった浦和随一の鰻の名店の一万円のランチコースを、たった一人で、ゆっくり時間をかけて堪能した。
最後に出てきたうな重(梅)は綿のように身がふわふわで、タレは甘く香ばしく、幸せそのものの味だった。最後の一口をほおばったとき、店のおかみさんが「贅沢なお正月ね」と笑顔で声をかけてきた。
「はい、最高です」と即答せざるを得なかった。
休みの最終日の四日は、午前中にまたランボーと沼の公園にいった。人出はいつもの倍以上だった。手をつないで二人の世界に入り込んでいるカップルもいれば、妻らしき中年女性に怒鳴り声をあげている中年男性もいる。泣き叫ぶ赤ちゃんに翻弄される若い家族もいれば、ワイヤレスイヤホンで誰かと通話しながら独り歩きしている女の子もいる。ときどき子供がよってきて、ランボーを指さしたり、触ったりしたがった。ランボーはおとなしいので、誰にも吠えないが、あまり愛想もふりまかないので、すぐに人は去ってしまう。
いつものメタセコイアの並木道のところのベンチは、一つも空いていなかった。だからランボーと並んで立ったまま、静かに波打つ沼の湖面を、じっと見つめた。
木々の葉はほとんど落ちて、さみしい色合いだった。目の前を水鳥が縦一列になって泳いでいる。
そのとき、スマホが鳴った。桜子からのLINE電話だった。
「ねえ今晩、佐藤さんところにこられる? 営業は休みなんだけど、佐藤さんがお店で新年会しないかだって」
「あ。はい、大丈夫です」
「じゃあ、六時にお店で。ところで、年末年始はどうだった? 楽しく過ごせた?」
「それはまた、あとで」
電話を切ったあと、響は思わずにやにやしてしまう。休みの初日から今日までのことを、今夜、桜子に語って聞かせよう、微に入り細を穿って。ランボーが不思議そうにこちらを見上げているのがおかしくて、ますます頬がゆるんだ。
何年先もこんなふうに過ごせるだろうか。多分、大丈夫……なはず。飽きてしまったら、そのときに考えればいいのだ。とにかく、今年一年は、一人きりで楽しく気ままに暮らしていきたい。この湖面のようにほとんど波のない、穏やかな日々を過ごせたら、もうそれで自分は十分幸せだ。
しかし年明け早々、予想もしない大波にさっそく翻弄されることとなった。
異動の辞令が出たのだ。異動先は有楽町の本社にあるクレジット管理センター総括グループ。二月二日付。
「この辞令はいやがらせだぞ」
辞令が出てすぐ、黒木に言われた。
「去年、部長から国際事業室に異動する話があったのに、断ったんだろ? なんでだよ。そんなチャンス二度とないぞ」
確かに去年、そのような打診があり、響は一も二もなく断った。理由を聞かれたので、ペットを飼うことになったからと答えた。その頃に、ランボーをあずかる話がもちあがっていた。
「誰よりも恵まれた環境にいるのに、なんだよ。部長もぶちぎれてたぞ」
黒木は言った。まわりにいる同僚たちの視線も、心なしか冷たかった。部長に断りをいれた日から、彼らの態度が少し変わったようには思っていた。
「クレジット管理の総括っていえばさ、あの……」黒木はそう言いかけて、口をつぐむ。「……とにかく、困ったことがあったら、いつでも連絡してくれていいから。な?」
彼はあくまで上司の顔でそう言った。響は心の中で「死んだって連絡なんかしないけど」と悪態をつきつつ、「ありがとうございます」としおらしく頭をさげた。
「本当にかわいそう。心を強く持ってね」
隣席の今野にはそう声をかけられた。言葉とはうらはらに、その瞳はなぜかきらきらと輝いているように見えた。
「速水さんもね、もうお歳だし、今頃はもう少し丸くなってるかもしれない」
「速水さんって、誰ですか」と響は聞いた。すると今野は「しらないのー?」と目を丸くした。
「わが社でも一、二を争う凶悪お局。もう六十近いはずだけど、銀座のクラブのママみたいな雰囲気で、いつもバカ高いヒールはいて、廊下をカッカッカッてすごい音を鳴らして歩くの。でもまあ、わたしが知ってるのは、十年ぐらい前の姿だけどね。そのときは、ここのカスタマーセンターのマネージャーやってた。で今は、クレジット管理の総括のマネージャー。あの人のせいで何人やめたかわからないよ。わたしの同期もね、速水さんのチームに入れられたとき、ターゲットにされてむちゃくちゃいじめられてあまりにつらいから、不仲の夫といやいや子作りして産休とったんだよ。しかも年子で産んで、次の異動辞令出るまで産休育休延長延長でしのいだからね」
言葉を失った響を見て、さすがの今野も笑顔をひっこめた。
「でででも、宇佐美さんは大丈夫よ。コネ入社の人をいじめるほど、速水さんもバカじゃないと思う。ターゲットにされるのは、若くて、男性にちやほやされる系のかわいい子が多いって話だし」
何重にも失礼なことを言われているとさすがの響も気づいていたが、それを指摘する余裕はもうなかった。
その日の昼、リフレッシュルームでみんなに報告したとき、おのれをとりまく状況の深刻さを、さらに思い知ることとなった。
「そっか、速水さんかあ」とぶっちーは暗い顔になって、ため息をついた。「わたしも一年ぐらい同じフロアで働いていたことあったのね。なんていうか、言葉がいちいちキツイの。なんでそんな言い方しかできないんだろうっていつも思ってた」
「わたしなんて、五年もカスタマーで一緒だったから」とリカちゃん。「あのね、あの人の下につくと、みーんなハゲちゃうの。円形脱毛症」
「でもさ、リカちゃんって、速水さんに妙に気に入られてなかった?」すいちゃんが言った。「お昼、一緒に食べたりしてたよね」
「あの人、いつも一人だったから、気の毒で……。でも別に気に入られてたわけじゃないよ。いっつも怒られてた。『何回も同じこと言わせないで』って一日十回は言われてたね。でも、わりと歳いってる女性には優しいんだよね。若い子にきついの。あ、ごめん、優しいわけじゃない。普通に怖い。でも、多少優しい。あ、ごめん。多少も優しくない」
「どっちよ」とすいちゃんが笑って言う。
「うーん、多少、意地悪の手加減をしてくれる感じ?」とリカちゃんは思い出すように斜め上を見て言う。「あのね、ひーちゃん。速水さんはね、結構わかりやすい人だから。派手な人、かわいい人、きゃぴきゃぴしてる人、目立つ人が大嫌いなの。おとなしくしてるのが一番」
「あ、そうだ」とぶっちーが言って手をたたく。「そういえば、桜子さんって速水さんと同期入社だって……あれ、どこいった?」
さっきまで端の席で自家製ミートタコスをおいしそうにむしゃむしゃ食べていた桜子が、いつの間にか姿を消している。みんなできょろきょろとあたりを見回したが、見つからなかった。