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 家に帰ると、黒木がダイニングテーブルで英語の勉強をしていた。響は「ただいま」と小さく言ってから、風呂に入る準備をするために寝室へ向かおうとした……ところで「なあ」と呼び止められた。
「来月、うちの親が東京にくるって言ったじゃん?」黒木は手元のノートから顔をあげずに言った。
「え、そうだっけ」
「うん。あのさ、一度、会っておく?」
 すぐに、返事ができなかった。少しの間があって、「なんで?」と響は問い返した。
「いや、うちの親も、一度会いたいだろうし、もう俺らも、一緒に住んで長いし」
 どことなく歯切れの悪い口調だ。何か含みのあるときに、この人はこういう話し方をする。
「まあ、じゃあ、日程が合えば、ね。疲れたから、もうお風呂入るね」
 そう言って、響はこの会話を切り上げようとした。ところがすぐに「なあ」とまた呼び止められた。
「あの、ここんところ、俺、考えたんだけどさ」
 なんだか嫌な予感。
「あのさ、この間、洋平のところにいっただろ? で、いろいろ、話を聞いてさ……」
 嫌な予感嫌な予感嫌な予感。
「お前も、もうすぐ三十代後半だし、そろそろ真剣に考えないといけないんじゃないかなーと思って。その、もし子供がほしいってなったときに、手遅れってのは、まずくない?」
 黒木は相変わらずノートに顔を向けたままでいる。響はなんとなく、彼の書いた文字に目をやった。
 He will have lived in Tokyo until next August.
 という文章が読み取れた。この人はずいぶん長く英語の勉強を続けているが、少しでも上達しているのかどうか、正直よくわからない。
「けど、結婚とか興味ないんでしょ?」響は言った。「ずっとそう言ってたのに。このままでい……」
「いやいや、お前はそうはいかないじゃん?」
 響を遮ってそう言うと、黒木は顔をあげ、そのまま頭の後ろに手をやって居丈高な姿勢になった。
「不妊治療とか、お前だって嫌だろうなと思って俺は言ってるんだけど。そんなことに金使うなんて、合理的じゃないし」
 黒木はノートと教科書をとじて、椅子から立ち上がった。そして響の肩に手を置くと、会社で見る上司の顔になって、響を見下ろした。
「とにかく、お前もそろそろ真剣に考えたほうがいいと思うよ」
 それからさらに、こう付け加えた。
「あ、ごめん、風呂は俺が先に入る」
 そして黒木は着替えも用意せず(もちろんそれは響の役目だ)、バスルームのほうへ姿を消した。しばらくしてバスルームの壊れかけのドアがバタンと閉まる音を聞いてすぐ、響はスマホを手に取って桜子に「まだ飲んでますか」とLINEを送った。

「あのさ、言っちゃ悪いけど」すいちゃんが頬杖をつきつつ、枝豆をぽりぽり食べながら言う。「そもそもさ、なんでそんな男と付き合ってるわけ?」
 桜子は浦和駅近くの深夜までやっている大衆酒場にいた。なぜかすいちゃんも一緒だった。けんちゃんを早々に寝かしつけることに成功したらしい。
 客の入りは七割ほどで、静かすぎず騒がしすぎずいい雰囲気の店だった。テーブルの上には、枝豆と肉豆腐とレバテキ。
 ただ、家にいたくなくて、衝動的に桜子に連絡してしまった。話を聞いてもらいたかったわけではなく、なんとなく桜子と飲みたいだけだった。が、すいちゃんが「けんちゃんが入れたボトルだから、濃いめにしちゃお」などと言って作ってくれる紹興酒のジンジャーエール割りがおいしくてついがぶがぶ飲んでいるうちにいつになく酔いが進んで、黒木とのなれそめからさっきのプロポーズもどきまで、あれこれとしゃべってしまった。
「彼は野心の塊のような人で」響はもう、自分のろれつがだいぶ怪しくなっていることを自覚していた。「母子家庭で、お母さんは小さな土産物屋さんをやってて、あんまり裕福ではなかったみたいなんです。だから高校生のときからお店の手伝いしたりバイトしたりで忙しくて、そのせいで勉強の時間が確保できずにあんまりいい大学に入れなくて、でも就活対策がんばって奇跡的にうちの内定とって、入社後は仕事で結果出して今のポジションについて、で、もっと出世したいって思ってる。わたしは彼と真逆で、恵まれた環境にいるのに、いまいち野心とか向上心に欠けてるところがあるから……。だから、彼みたいな人といれば、わたしも変われるかなあって思ったんです」
「ふむふむ、なるほど」とすいちゃん。「で、変われたの?」
 響はうーんと首をひねる。すいちゃんはこの手の話が好きなのか、さっきから興味津々で聞いてくれていた。しかし、桜子は関心を持つ振りさえせず、ずっと熱心にスマホをいじっている。
 何を見ているのだろうと、響は身を乗り出して桜子のスマホ画面をのぞいてみた。スイカゲームをやっていた。
「ねえ? どうなの?」とすいちゃん。「変われたの?」
「たぶん、変われてないです。そもそも変わりたいのかどうかもよく……」
「じゃあ、別れちゃえばいいのに。そのひーちゃんに対するさっきの発言もさ、どうせ友達に特権階級がどうのとか言われて、虚栄心がくすぐられただけよ」
「でも、情けない理由ですけど」と響は鼻からため息を吐き出した。「この年齢で一人になったら、もう恋人なんてできないだろうなって思うんです。今の時代、出会いの手段なんて、ネットとかその手のものしかないじゃないですか。自分にああいうものが、使いこなせるとは到底思えなくって」
「そんなことはないと思うけどねえ」とすいちゃん。「まあ、わたしも四十前まで独身だったから、気持ちはわかるけど」
「ここで彼と別れたら、死に物狂いで次の相手を探すか、そうしなければずっと一人かも。そう考えたら、ふんぎりがつかなくて。まあ、ズルズルと……」
「うーん」
「でも、さっき結婚のことをほのめかされて」そう言って響は頭を抱えた。「なんか急に、やだやだ、結婚したくない! 絶対したくない! どうしてもしたくない! ってアレルギー反応みたいな拒絶感がこみあげてきて、気づいたら桜子さんにLINEしてました」
 そこで桜子はようやく顔をあげた。「えー? なんでわたし? ほかの友達じゃなくって?」
 響はそのまん丸の顔をしばらく見つめた。いつもだったら、これ以上は話さない。自分のことをべらべらしゃべるなんてことは、慎む。でも、今夜はアルコールが自制心を狂わせていた。
「わたし、ずっと桜子さんにあこがれてたんです」響は言った。「今の支社に異動してきたときから、ずっとです。あんなふうになりたいって、思ってました」
 桜子もすいちゃんも、絵に描いたようなきょとん顔になった。少しして、すいちゃんが「あんた何言ってんの?」と低い声を出した。
「ほんと、ほんとに失礼な話ですけど、あの、気に障ったら、あの、本当にすみません」響は紹興酒のジンジャーエール割りをぐびっとあおった。「わたし、桜子さんを見て、まだ何もしらないうちから、この人、独身だろうなって思ってたんです。あの、すみません、本当すみません。でも、あの、なんていうか、もし独身だったら、こんな暮らしをしているのかなとか勝手に想像してて。きちんと仕事して、自分一人で生計をたてて、気の合う仲間がいて、一食一食を楽しんで、きっと休日も充実してて、なんだかすごく自由で気楽で幸せそうって、あんなふうになりたいって、わたし、実はストーカーみたいにいつも見てたんです」
「まあ、正直言うと、この子わたしのこといつもジロジロ見てるわねとは思ってたけど」と桜子。「へーんなの」
「……ごめんなさい」
「謝ることないわよー、ハハハ。それにしても、ここの肉豆腐は相変わらず最高ね。すじ肉がいい仕事してるわ。いつもよりとろとろじゃない?」
「ね」とすいちゃん。「も一つ頼む?」
「いいわ……だめ、やめときましょ、食べすぎよ、わたしたち」
「あの、嫌な気分にならないですか?」と響は聞いた。
「え? なんで?」と桜子。
「だって。勝手に独身って決めつけてるし」
「独身よ」
「それに、勝手にどんな暮らしか想像して、楽しそうとか幸せそうとか、見た感じだけで……」
「幸せよ」
「なんだか、自分にとって都合のいい理想像を、桜子さんに押し付けているだけじゃないかって……」
「あら?」と桜子は首をかしげる。「わたしがあなたの理想の女性ってことね? うれしいわ、ありがとう。やっぱり、肉豆腐おかわりしようかな」
「やめときなさい」とすいちゃん。「スティック野菜にしましょう」
「あの、一つ聞いてもいいでしょうか」と響はおずおずと言った。「桜子さん」
「なあに?」
「一人で生きていくって、いつ、何がきっかけで、決意したんですか?」
「へ?」と桜子はすっとんきょうな声を出した。「なにそれ? そんなもんないわよ」
「そうなんですか?」
「わたしの人生はね、なーんにもない人生なの」桜子は「なーんにも」のときに両手を広げた。「すいちゃんみたいな、運命の人との出会いとか、そういうのもなかったし。仕事で大抜擢されるとか、そういうのもなかったし。それに、ぶっちーみたいに打ち込める趣味もとくにない。誰からも選ばれない、なにも得られない、本当になーんにもない人生なの」
 桜子は肉豆腐の最後のひとかけらを箸でつまんで口に入れる。それから少し考える顔になって「そうね、でもね」と言った。
「なーんにもなくても、それでもいいやって、いつの頃からか思うようになったわね。もっと頑張れば、もっとがむしゃらにやればわたしの人生は広がるかもしれないけど、そもそも広げなくてもいいと思ったの。たくさん何かを手に入れることだけが、人生じゃないもの」
「それは何がきっかけで?」と響は聞いた。「きっかけがしりたいです」
「だから、そんなもんない。理由なんてない。気づいたら、こうなってた。それだけ! すみませーん、野菜スティック一つ」
 なんとなく、それ以上は聞けなかった。結局、すいちゃんがそのあと、肉豆腐とついでにポテトサラダも注文していた。

 

(つづく)