リフレッシュルームのいつもの席に、桜子はいた。目が合う。すると、彼女は立ち上がってこちらを手招きした。
「こっちこっち、おいでおいで」
そんなふうに呼ばれるとは思っておらず面食らったが、おずおずとそっちへ向かった。今日は二人掛けのテーブルを二つくっつけていて、隣にすいちゃん、向かいに眼鏡をかけた痩せた女性が座っている。響はその女性の隣に座った。
「この子がさっき話した、響さん。法人営業部の」
「はじめまして」すいちゃんが感じのいい笑顔をむけて言った。今日は花柄のカーディガンに、黒のレース地のワンピースを着ている。「あ、はじめましてじゃないのか。佐藤さんのところで会ってるのよね? あら、ていうか、それ佐藤さんのところで買ったの?」
「あ、はい」と響はビニール袋からパックを二つ取り出した。「昨日の晩にいって買ってきました」
「からあげ!」と隣の女性が明るい声で言った。「そのからあげね、絶対、絶対あたためちゃダメ! さめたままのほうが百倍おいしいから!」
女性は響の肩をばしばしたたく。その勢いに気おされつつ、響は「わ、わかりました」と答える。
「おにぎりの具は何?」
「えーっと、鮭と、こんぶです」
「えー! そんなの定番すぎるー。あそこで一番のおすすめはね、ペペロンチーノおにぎり。夜しか出ないやつで、最っ高においしいから。一緒にいたらすすめてあげたのに。もう悔しいわ」女性は心底残念そうに、眉を八の字にして言った。
「まあまあ、リカちゃん落ち着いて」すいちゃんが言う。「鮭とこんぶもおいしいから、いいじゃない」
「いや、ペペロンチーノよ。夜はペペロンチーノ一択! 今度、夜にいったら絶対に買ってみて。ニンニクが入ってるんだけど、すりおろしじゃないからくさくないの。だからお昼に食べても大丈夫。絶対、絶対に次は食べてみて、だまされたと思って」
初対面からこんなふうに距離をつめてくるタイプは正直、苦手だった。響は愛想笑いを浮かべた。
「もう、いきなりのおばさんトークでごめんね」と桜子が言った。「ところで、この間は遅くに帰って大丈夫だった?」
「まっっったく大丈夫でした」
あの日、帰宅したあとの黒木の様子を思い返しながらそう答えた。本当に、拍子抜けするぐらいに何も起こらなかったのだ。家についたのは午後三時すぎだった。ドアはすんなり開いた。黒木はいつも通り、リビングで英語の勉強していた。顔をわしづかみにされることもなければ、小言一つ言われもしなかった。それどころか響の顔を見るなり、こう聞いたのだ。
「お腹減ってない? 何か作ろうか?」
そこまで話したところで、桜子がぷっとふきだした。
「彼、ビビっちゃったんじゃない? あなたがクーデターを起こしたんだと思って」
「そうなんですかね。本当にびっくりしました。だって、ご飯なんて作ってくれたことないんですよ」
「あら、彼氏の話?」とすいちゃん。「そうなのよね。男ってさ、普段はえらそうにしてたって、こっちがちょっと強気に出たらすぐに怖気づいておとなしくなるんだから。飼い犬ぐらいに思っておけばいいのよ。そういえばうちのロッキーがね……」
すいちゃん家のロッキー(保護犬・八歳)のいたずら話に耳を傾けつつ、響は割り箸を割って、まずはからあげを一つ頬張った。うん、なるほど、と心の中でつぶやく。衣にしっかり味がついていて、そして肉がやわらかい。さめてもおいしいのは偶然じゃなく、きっとひと工夫されているのだ。ふと、桜子と目が合う。そのやさしい目つきが「おいしいでしょう」と問いかけてくる。
三人のトークはすいちゃんのロッキー話から、競馬の話に移り変わり、それからおいしい馬刺し専門店の話題を経て、やがて年末ジャンボを買うか買わないかにいきついた。とくに熱心なのはリカちゃんだった。「銀座のチャンスセンター」という単語を連呼している。ほかの二人はさほど興味がなさそうだったが、リカちゃんは全く気にもとめる様子がない。
やっぱりこの人のことはちょっと苦手かもしれない。そして、こういう空気が読めないタイプ、場合によってはグループから排除されがちだよな、と響はからあげの最後の一個をつまみながら思う。そのとき、この間の桜子の言葉が脳裏をよぎった。
――おしゃべりの時間ぐらい、楽しくしたいから、しんどい話になりそうなことは、みんな自然と避けていくのかな。
当たり障りはないけれど、誰でも楽しめる話題を選ぶことで、いろいろな人を広く受け入れるシステムになっているのかも。リカちゃんのわけのわからない宝くじ当選理論(『あなた何月生まれ? 十月生まれが一番当選確率が高いって言われてるの』『十月生まれじゃない人は、十月生まれの人のそばにいると当選確率があがるの。すいちゃんのところのけんちゃんが、十月生まれなんだよね』)を聞きながら、響は一人で納得する。
「あー、今年は気合入れて1番売り場に並ぼうかなあ。でも、8番もいいって話、聞いたことがあるんだよね。知り合いの知り合いがさ、去年8番に並んで、二等当てたんだって。やっぱり8番が狙い目かもしれない」
「リカちゃん、その話するの今日で何億回目?」桜子が呆れたように言った。
「違うの、聞いて。今回は新情報。5番。5番で当てたって人がいるんだって。しかも前後賞」
「響さんは、宝くじで当選したことある?」
ずっと黙っている響を気遣ってくれたのか、すいちゃんが聞いた。
「えっ。えーっとそうですね。今気づいたけど、そもそも一度も買ったことない……というか、宝くじそのものを手に取ったことがない……かも」
「ええ! 一度も?」とリカちゃん。「家族が買ってきたりしたこともないの?」
「ない……ですね」
「当たり前よ」と桜子。「ねえ、リカちゃん。わたし、テレビか何かで見たけど、宝くじを買ってる人のほとんどが、貯金がない人なんだって。裕福な人たちは、そんな信用ならないものに頼らず、株とかでお金を増やすらしいわよ」
「違うのよ、宝くじはロマンなのよ」とリカちゃん。「競馬も宝くじも、単にお金を増やすのが目的じゃないの。わたしは夢を買ってるの。ねえ響ちゃんは、ギャンブルは一切やらないの? 興味もない?」
「ない……」と答えかけて、思い直す。「そういえば、お金かけてたわけじゃないけど、大学生のときに友達の紹介で雀荘でバイトしてました。あれは楽しかったですね」
するとすいちゃんと桜子の二人が、「え?」と目の色を変えてテーブルに身を乗り出した。
「打てるの?」とすいちゃん。「麻雀」
「一応……お正月に家族麻雀もやるので」
それからすいちゃんと桜子は顔を見合わせ、「見つけたわ」「ついに」「ようやくね」などとこそこそ言い合いはじめた。響はまるで自分がドラゴンボールにでもなったような気分だった。
「ねえ、今度麻雀やりましょう」桜子が言った。「ふじちゃんっていう大きなおうちに住んでいるお金持ちの友達の家にね、麻雀卓があるんだけど、最近メンツが集まらなくて、困ってたのよ」
「そうなのそうなの」とすいちゃんも勢い込んで言う。「もちろんね、アレよ、アレ。びーって全部やってくれるやつ。全自動の。あ、でも一番最新のやつじゃないの。今ってさ、サイコロ回さずに全部自動でやってくれるやつあるのよね? それじゃなくて、サイコロ回して、自分でとるやつ。でも、手で積むやつじゃないからね」
「ふじちゃん、日曜はゴルフだから、土曜日になると思う。だいたい朝から夕方までやるの」と桜子。「食べ物とか飲み物は自分で持ってきてね。佐藤さんのところのおにぎりでもいいわね」
「麻雀かあ」とリカちゃんが腕を組んで天を仰いだ。「昔やったことあるんだけど、役が覚えられないんだよねえ」
「一回教えてあげるって何度言ってもやってくれないんだもん、リカちゃんは。本当に頑固よね」桜子が言う。
「だから。役が覚えられないのよ」
「そんなのやる気よ、やる気次第」すいちゃんがそう言いながら、腕時計を確かめる。「あ、そろそろ戻らなきゃ」
「あ、待ってください」と響はあわてて言った。「あの、この間、お世話になったお礼にもってきたんです。よかったらお二人もどうぞ」
響は持参した紙袋から紙箱を取り出し、開けた。同時に三人の「わあ!」という歓声があがる。
「銀座ウエストのリーフパイじゃない」
「わたし、これ大好き」
「こんないいお菓子、もらっちゃっていいの?」
「ありがとう」
「うれしいわ、三時のおやつに食べよ」
三人は口々に言いつつ、十二枚あるパイをちょうど四つずつ分け合った。
響はほっと息をつく。さっきから、いつ出そういつ出そうとじりじりしていたのだ。なかなか三人の話が途切れず、出すタイミングがつかめなかった。
そのとき、桜子がまたこちらを見て、ほほえんでいることに気づく。目が合うと、桜子はふふふと笑った。
「こんな高価なものいいのに。でも、ありがとう」そう言って、いつも持っている刺繍のバッグから、ホワイトロリータを二つ取り出した。「はい、あげる。また今度、泊まりに来てね」
おすそわけ検定不合格。二つのホワイトロリータを見ながら、響は内心でつぶやく。デパートの菓子折りなんて、やっぱりちょっと大げさだった。