「あ、そうだ、鳥刺しといえばさ、きょうちゃん、あの子からLINEがきたの」
ふじちゃんがカップ麺の中に白米だけの小さなおにぎりを入れながら言った。その名前は麻雀中に何度か聞いた。初心者教室で一緒だった人で、何度かこの家にも呼んだことがあるようだった。
「ひさしぶりにまた麻雀やりたいです、そろそろ呼んでください、だってさ。どうする?」
すると、桜子とすいちゃんは難しい顔をして黙り込んだ。見たことのない反応に、響は思わず、「その人、どんな人なんですか?」と聞いた。
「きょうちゃんはねえ……まずね、麻雀はすごく下手」ふじちゃんが言う。「勝つ気がないっていうのかしら。とにかく上がれればなんでもいいって人なの。無駄に押すし、役もないのに鳴くし、オーラスでラス目なのに千点であがったりさ。上手な人がいると怒られちゃったりするのよね」
「実際、ちかちゃんは怒ってたよね」と桜子。
「そうそう。ちかちゃんはもともと先生やってた人だから上手なの。待ちの選び方とか、リーチされたときの降り方とかいつも丁寧に教えてくれてたのに、あの子、ちーっとも聞かない。聞く気がないのよね。で、自分のやりたいようにしかやらない」
なるほど。さっき、おしゃべりもせず無言で打っていた三人の姿を思い浮かべる。この場では上達する意思や、真剣に勝ちに向かっていく姿勢が大事なのか。
「でも、それはまあいいの。わたしと桜子さんとすいちゃんは、厳しいこと言ったりしないし」
「下手下手と言いつつ、結構高い手上がったりもするしね」とすいちゃん。
「わたしなんて、きょうちゃんに一日に二回も役満振り込んだことあるよ!」桜子が口をとがらせて言った。
「そうなのよね」とふじちゃんはうなずく。「問題は麻雀じゃないのよねえ」
三人は再び黙り込む。響は「何が問題なんですか?」と聞いた。
「……なんだか、悪口になっちゃうから、言いたくないわね」
「そうね。欠席裁判みたいになっちゃうしね」
「まあ要するに、仁義の問題よ、仁義」
三人は口々に言った。響もこれ以上、追及する気はなかった。
ただ。
ここは、誰でも受け入れてくれる場所では決してないのだ。この場にはこの場なりのルール――それは、仁義にかかわるもの――があって、それを守れないものは、排除される。
昼休みはきっかり一時間で終わった。そのあと少しだけまたゆうだいと遊び、再びサイコロは回った。
「あーもうすっかり外は夜!」三缶目の愛媛ポンカンサワーを冷蔵庫から取り出しながら、ふじちゃんが言った。「もう六時か、そろそろお開きにしましょうか」
午後四時過ぎに一缶目のみかんチューハイが開けられるまでは、午前中同様ほとんど無言で打っていたが、ひとたびアルコールが入った途端、チョンボのオンパレードで、最後はほとんどゲームになっていなかった。それでも……。
「あー楽しかった!」響は背中をぐーっと伸ばした。「またすぐやりましょう!」
「そりゃあんだけ上がれば楽しいでしょうよ」と桜子が言う。「さっきの何? えーっとダブルリーチ、一発、えーっと」
「ダブリー、一発ツモ、タンヤオ、ドラ三、倍満です」
「なんでそんなときに限って、わたしが親なのよー」桜子は大げさに卓に突っ伏してみせる。「桜子、泣いちゃう」
「あらあら、あなただって、四暗刻、あれ、すごかったわ」すいちゃんがそう言って、道後ビールを瓶からぐいっとあおる。
「てんぱっただけで、上がってない! ふじちゃん、わたしもお酒飲む」
「何にする? チューハイでもビールでもポン酒でもなんでもござれよ」
桜子はよろよろ立ち上がると、冷蔵庫をあけて物色しだした。その間にふじちゃんがいくつかつまみをもってきて、あっという間に宴会がはじまった。
「あ、じゃあわたし、卓掃しますね。このふきん、お借りします」
「タクソウって何?」と桜子。結局、すいちゃんと同じ道後ビールにするようだ。
「卓を掃除することよ」とふじちゃん。「これ、まめにやらないとさ、牌が手の脂とかでよごれちゃって、機械がうまく動かなくなるのよ。前はちかちゃんがよくやってくれてたの。助かるわー、ありがとう」
雀荘でバイトしていたのは十年以上前だが、やり方は忘れていなかった。接客が苦手だったのもあり、わりと好きな作業でもあった。
三人はまた飽きもせずわいわいとおしゃべりに花を咲かせている。酒が入ったせいか、すいちゃんが珍しく、家族の話をしていた。
「この間ね、うちのお母さんの三回忌があって、それで小田原に帰ってたの」そう言って、すいちゃんは鮭とばを豪快にかじりとる。「そしたらね、姪っ子がようやく結婚するって。兄の娘なんだけどさ、なかなか相手に恵まれなくって、必死にお見合い繰り返してたのね。それがようやく、ようやくよ。相手もいい人そうで、うれしくてうれしくて。わたしは子供がいないから、まるで娘を嫁にだす気分」
そこから、すいちゃんのお母さんの晩年の話に移っていく。認知症だったお母さんはすいちゃんのことをお父さんの愛人だと思い込んでいて、施設に会いにいくたびに怒鳴られて拒絶されていたこと。それでもときどきはすいちゃんだと認識してくれることがあって、そんなときのお母さんはいつも「ごめんね、ごめんね」と謝ってばかりだったこと。最期の三カ月は人形みたいにうごかなくなってしまったこと。
桜子とふじちゃんの様子から察するに、これらのエピソードは何度も聞いたことがあるようだった。それでも、二人して黙って耳をかたむけている。
「わたしはこう見えて、若い頃はやりたい放題やってたの」すいちゃんはなぜか急に、響のほうに向き直って言った。「うちのお母さんは地元に残って、役所とかに勤めて、近くの人と結婚してっていうのを望んでいたけど、わたしはそんなの嫌でね。十八歳で家を出て、それから映画会社で働いたり、雑誌の記者やったり、自由に生きてきたわけ」
それは意外だった。もっと保守的なタイプかと思っていた。
「結婚は、そりゃいつかしたいと思ってたけど、あくせく働いてるうちにどんどん時間がたっちゃって。見合いの話とかもきたけど断ってたら、気づいたら四十前よ。そんなときにね、けんちゃんとようやく出会ったの」
けんちゃんとは結婚しておらず、内縁関係であることはなんとなく察しがついていた。すいちゃんはしょっちゅう「わたし、こう見えて嫁入り前ですから」と冗談を言っているのだ。
「けんちゃんのほうにいろいろ事情があって……まあ詳しくは言わないでおくわ。でも、この人についていくって決心したときにね、結婚とか子供のことは、自分の人生にはないものだって腹をくくった。後悔なんてなかったわ。毎日、けんちゃんといられて幸せだしね。だけど……」
そこで言葉をとめて、すいちゃんは洟をすすった。目も真っ赤だ。
「姪っ子はきちんとした子だから、きっと結婚式の朝、わたしに『おばちゃん、今までありがとう』って言ってくれると思うの。それを想像したらさ……わたしはお母さんに、一度も、お世話になりましたってお礼できなかったなあって。何歳になっても、たとえ五十を過ぎても、三つ指ついてね、そう言いたかったなあって。今になって、なんだかもやもや考えてしまうのよねえ」
しーんと静まり返る。すいちゃんはティッシュを数枚抜いて、びーっと盛大に鼻をかんでから「なんだかしめっぽくなっちゃって、やあね」と言った。「ビール、もう一杯飲もうかしら」
「飲んで飲んで」とふじちゃん。「お腹もすいたでしょ? 何か食べる?」
それから、カップ麺でいいだのいやせっかくだから寿司をとろうなどと喧々諤々の議論がはじまり、気づいたら夜の八時を回っていた。これから作るのも出前を頼むのもまどろこっしいとなって、結局、三軒隣のローソンで適当に買ってくることになった。もちろん、その役目は響が買って出た。
桜子も一緒についてきてくれることになった。が、千鳥足の酔っ払い状態の桜子は、からあげクンを買い占めたいだのやっぱりケンタッキーが食べたいだのとやいやいうるさく、邪魔でしかなかった。ようやく買い物をすませて麻雀ルームへ戻ると、妙に深刻そうな表情をしたふじちゃんに出迎えられた。
「警察からの電話みたい」
壁にぴったり体の正面をくっつけるようにして、すいちゃんが電話で誰かと話している。「はい……はい……」と答える声が聞いたことのないほどシリアスで、にわかに緊張が走る。
やがて、電話が終わった。すいちゃんがこちらに向き直る。
「けんちゃんが……」
「死んだ!?」と桜子。
「死んでない! なんだかね、道端で酔って寝ちゃってるらしいの。迎えにいかなきゃ。わたし、帰るわ」
「どうやって?」とふじちゃん。「まさか電車で?」
「えーっと、わかんない。えーっとえーっと」とすいちゃんはその場をいったりきたりした挙句、なぜか響のコートを羽織ろうとした。「わかんない、とにかくいかなきゃ。あれ、着られない……腕が通らない……どうしよう」
響はふじちゃんと顔を見合わせた。「一人ではいかせられないわね」「そうですね」と心の中だけで、言葉を交わせた気がした。
「すいちゃん、タクシー呼ぶわ。みんなで行きましょう。ちょっと待ってて」
ふじちゃんもずいぶん飲んでいたはずだが、三人の中で一番しゃっきりしている。手間取ることなくスマホのタクシーアプリを操作しながら、まだ響のコートと格闘しているすいちゃんに本人のカーディガンを着せ、さらになぜか床にすわりこんでしまっている桜子に水を飲ませた。それからふじちゃんがすいちゃんを支え、響が桜子の腕をとりながら階段を降り(重すぎて二人もろとも転げ落ちる寸前だった)、やがてやってきたタクシーに乗りこんだ。
けんちゃんは二人が住んでいる家の近くの、小さな公園の前にいた。警官二人に挟まれて、痩せた初老の男性が植え込みのふちに座り込んでいる。眠ってはいないが完全に正体をなくしているのは、数メートル手前のタクシーの車窓越しからでも、はっきり見て取れた。
「あ、お金はわたしが払うわ」
タクシーが止まると、すいちゃんがすかさず言った。
「お金のことはあとでいい。とにかく、はやくいきなさい!」ふじちゃんは小学校の先生みたいにぴしゃりと言った。今は「わたしが払う」「いやわたしが」をやってる場合じゃないということだ。
「ごめんねえ」とすいちゃんはタクシーを降りる。何度も何度も「ごめんねえ」と繰りかえす。それから頭をぺこぺこさげながら、警官たちに駆け寄っていく。そのすいちゃんのまるっこい姿が、フロントガラス越しに見える。
「けんちゃんって、ああいうの一度や二度じゃないのよ」
桜子が助手席から言った。なぜかすいちゃんの焼きぼこを食べているが、酔いは少し覚めたようだ。「お酒がとにかく大好きだけど、一人で飲むとすぐつぶれちゃってね。すいちゃんがしょっちゅう迎えにいってるの。警察沙汰になったのは、聞いたことがないけど」
そのときだった。すいちゃんが持っていたバッグでけんちゃんを殴りだしたのだ。警官たちが慌てて止めに入る。響もふじちゃんと桜子とともに急いでタクシーを降り、駆け寄った。
「結婚しよう! なあ、すいちゃん、俺たち、いい加減、籍入れよう、な!」
「今更! 今更遅いのよ! このくそ酔っ払いが!」
すいちゃんは涙をぼろぼろこぼして、子供みたいに腕を振り回している。警官に体を押さえられると、わーっと声をあげて手に顔を伏せた。そのすいちゃんに、なぜか全身どろだらけのけんちゃんがしがみつく。
修羅場。それ以外の何物でもない。
「籍入れよう! 俺の嫁さんになってくれ!」
「やめてよ! あんたなんかと結婚するもんか!」
茫然としている場合じゃない、動きなさい! と響は自分に発破をかけた。警官と一緒に二人を引き離した。それからふじちゃんが話をつけ、警官たちは少しの小言を残して去っていった。
その頃になると、すいちゃんはずいぶんと落ち着いた様子だった。お気に入りのバッドばつ丸のタオルハンカチで顔を拭いている。一方けんちゃんは、ぼろキレのようにその場に横たわって寝てしまっていた。
すいちゃんの半分ぐらいのやせぎすの体と、白い頭。この人のために、すいちゃんはどれだけの数、他人に頭を下げてきたのだろう。
「ほんと、みんな、ごめんねえ」すいちゃんが言った。「いい年してみんなに迷惑かけて。はずかしいったらありゃしない」
みんなで寝ているけんちゃんを取り囲んでぼんやりと見下ろす。響は、昔友達といった屋久島で、産卵中のウミガメをこんなふうに大勢で取り囲んで眺めたことを、なぜか思い出した。
「ずーっとね、この人、籍入れることしぶってたの、ただめんどうくさいって理由だけで。うちの親にも会わないし。なのに、よっぱらって結婚しようだって、バカみたい。わたし、どうしたらいいのよ」
すいちゃんは天をあおいだ。それから気持ちを切り替えるように、はあっと大きく息を吐いた。
「けんちゃん、いくよ」
そしてとんとんと、彼のうす汚れた肩をたたく。すると、今晩のばか騒ぎはなんだったのかと思うぐらいに、けんちゃんはすっくと起き上がった。
「すいちゃん、帰ろう」けんちゃんがふにゃふにゃの声で言った。
「うん、帰ろうね」とすいちゃんは優しいお母さんみたいに答える。
そして五人で、なんとなく一緒に歩き出す。そのときになってようやく、響は空気がとても冷たいことに気づく。空には光り輝くオリオン座。もうすぐクリスマス。そして、一年が終わる。今年の冬は、妙な冬だ。
何にも言えない、誰も。無言で、夜の住宅街を歩き続ける。けんちゃんが歩きながらまた眠りそうになっているので、すいちゃんとは反対側の隣に桜子が並んで腕をとる。聞こえるのはときおり吹くぴゅーぴゅーいう北風の音と、五人の靴音と、けんちゃんが洟をすする音。それだけ。
「ねえ、そういえばさ」ふいにすいちゃんが、口を開いた。明るい声だった。「桜子さんに言われて、見たわよ。あれ、明菜の難破船」
「え! どうだった?」
「素っ晴らしい! 何がいいって、スタイリングとヘアメイクがいい。色味を極限まで排除したメイクと、一本一本コントロールされたおくれ毛と、今風でいう、くすみカラーっていうのかしら、絶妙な色味のドレス。そしてあの歌詞。あの表情、声、歌。すべてが完璧に調和してる。昭和エンタメの最高傑作よ!」
それから、すいちゃんとふじちゃんと桜子は、やれ金屏風がどうのやれ所属事務所がどうのといつもの昭和スキャンダル話で盛り上がりはじめた――つらいときこそ、遠くの誰かのスキャンダル。そんなフレーズが頭に浮かんで、響は一人、ほくそ笑む。
また、空を見上げる。冬の澄んだ夜に、ぴっかぴかのオリオン座。今年の冬は、妙な冬だ。