「次の相手って、探さなきゃいけないですかね」
響は言った。蒸し暑い八月の宵闇の中、オレンジ色の街灯をうつして夢のように揺れる沼の湖面をながめながら。
一人暮らしをはじめて、あっという間に二カ月が過ぎた。あれから、リカちゃんのところに世話になりつつ、浦和駅近辺で部屋を探した。会社の同期や大学時代の仲間たちから「結婚する気がないならマンション買えば?」「独身の先輩たちはみんな買ってるよ」「賃貸だと年取ったときに入れてもらえないよ」などと毎日のようにLINEのメッセージがとんできて、正直かなり心が揺れたが、最終的には桜子の忠告――誰かの口車に乗せられて、不動産を手に入れようとしないこと――を信じることにした。駅から徒歩六分の1LDK。四十五平米ほどとそこそこ広いが、築二十年とやや古く、家賃はちょうど十万円。今の収入なら、 貯金しながら十分やっていける。
当面の目標は、五十歳までに老後資金の二千万をためること。今は現金で二百万円少々しかない。二十代の頃、多忙によるストレス発散を理由に海外旅行や買い物で浪費していたことも大きいが、何より黒木と同棲するときに高級家具や家電購入に費やしてしまったのが痛かった。しかも折半で購入したのに、「減価償却している」というよくわからない理由で、購入費の五分の一ほどの金額しか返してもらえなかった。
しかしそれでも、今の仕事を続ければなんとなかなる。マイホームは金を貯めたあとに考えればいい。そのために大事なのは、やはり桜子のアドバイス通り、無駄な消費を控えること、貯蓄と投資に励むこと。
新居は、桜子とリカちゃんの家のちょうど中間にある。引っ越してから、桜子とはよく夜の散歩をするようになった。土曜か日曜の夜、暑さも和らいだ夜十時過ぎ、どちらからともなく「歩く?」と声をかけあう。冷たいお茶を入れた水筒を持参して、近所をひたすらぐるぐる歩いたり、ときには今夜のように、この大きな沼の公園におのおの自転車で集合したり。
十分ほどぶらぶら歩いたあと、いつものメタセコイアの並木道のところのベンチに落ち着いた。
「次の相手って、何が?」
首元の汗を手ぬぐいでふきながら、桜子が聞き返す。
「何カ月か前、佐藤さんのところで彼と別れた話をしたときに、すいちゃんが言ってたこと、覚えてます? ひーちゃんはまだ三十代前半だし、次の相手なんかすぐ見つかるよ、なんだったら結婚も出産も間に合うよって」
「そんな話したっけ?」
そう桜子は言いつつ、一・五リットルの巨大な水筒に口をつけ、ごくごくと喉をならして飲む。今日はアイスプーアル茶らしい。
「多分、わたしがもっと前に、彼と別れて一人になるのが不安だって話をしてたから、すいちゃんはああ言ったと思うんです。彼と別れたら、もう次の相手は見つからないんじゃないかと思うって、前に話したことあったじゃないですか」
「へえ、そうなの。あ、彩果の宝石あるんだけど、食べる?」
「あ、ありがとうございます。ていうか、そのときも桜子さんいましたよ。確か、ぶっちーのダンス体験会のあとです」
「そうだっけ?」
「そうですよ。あのときは本心からああ言ったんです。でもいざ別れてみると、次の人を見つけたいなんて、これっぽっちも思わなくて」
「ねえ、べにあかくんもあるけど、食べる?」
響は小さくため息をついた。「なんで埼玉銘菓ばっかり持ってるんです? それはともかく、夜のお菓子は控えめにするって前に約束しましたよね? この間の健康し……」
「言わないで! はい、もうしまいました! あ、そうだ、ひーちゃんこそ体調、大丈夫なの?」
「へ?」と響はすっとんきょうな声を出した。「なんでです?」
「だって、ずっと残業続きだったし、昨日も佐藤さんのところにこなかったじゃない」
「ああ、そうなんですよ。金曜日は結局、十時過ぎまで会社にいました。で、今日は昼過ぎまで寝てて……」そこまで言って、響は思い出してふふふっと笑う。
「何がおかしいの」
「いや、とにかく、今日は昼過ぎまで寝てたんです。で、目が覚めたらお腹がすいてるんだけど、今日もすっごく暑かったじゃないですか。何にも作る気がしないし、まだ寝たりない気もするし、だから冷凍庫からコンビニで買っておいたソフトクリーム二つ出してきて、ベッドに座っていっぺんに食べて、また寝たんですよ。で、ついさっきまた起きて、カップ麺食べてからここにきました」
そう言って、響はまたふふふっと笑った。桜子はぽかんとしている。
「……だから、何?」
「いや、だから、最高じゃないですか?」
「わからないわ、何もかも」
「だからね、桜子さん」と響は桜子の膝に手を置いた。「土曜日の昼に、どこにも出かけずにだらだら寝て、ご飯はソフトクリーム二個とカップラ! なんか、わたしって最高に自由だなって思って、ものすごい幸福感を覚えたんですよ!」
響の力説ぶりに、桜子は面食らっているようだった。共感してもらえると思っていたので、響はなんだか肩透かしをくらったような気持ちだった。
「わからないかなー? あのですね、彼と住んでたときは、せっかくの休みなのに、とか、せっかくのいい天気なのに、とか、ヨガいかないの、とか、何か君も勉強したら、とかもうとにかくいつも横からいろいろ言われて、なんだかわたしも、充実した休日を過ごさなきゃって常に焦っているような感じだったわけですよ。でも、好きな時間に起きて好きなもの食べて、一日中寝巻みたいなだらしない格好で過ごせるだけで、こんなにも楽しいんだって思い出したというか。もう感動すらしたんですよ」
「ああ」とようやく桜子は合点がいった顔になる。「そういうことね、まあ、わかるわ」
「わたし、思えば子供のときから、一人が好きだったし、家族といるのが少し苦痛だった気がします。仲が悪いわけじゃないんですよ。ただ、一人になりたいなって、いつもずっと、うっすらと思っていたというか」
「それもまあ、わかるわ、わたしも同じよ」
「だから、社会人になって実家を出たときは、うれしかったんです。うれしかったんですけど……この一人暮らしは仮のものってずっと思ってた気がします。いつか誰かと暮らすまでの、仮の生活というか。はやく一人を脱しなきゃって、焦ってすらいました」
「まあ、そうね。わかるわ」
「それと……多分ですけど、わたし、男の人のことが、好きじゃないんです」
これには桜子は、わかる、とは言わなかった。ただ黙っている。
「別に女性が好きだとか、そういうことが言いたいんじゃないです。性的指向っていうのかな、そういうのも、正直よくわからない。ただわたし、男の人がそんなに好きじゃない……気がします。嫌いなわけじゃないけど、なんていうか、男の人と一対一の深い関係でいることに、あんまり幸せを見いだせないんですよ。彼と付き合って、同棲までしたのは、なんていうか、人生のスタンプラリーをやってるような気分でした。ゴールがどこかもわからないし、スタンプおすことに興味もなかったのに。ごめんなさい、意味わかんないたとえですよね。なんだかまだはっきりと、自分の中で答えは出ないんです。それなのに……」
なんとなく言葉がもう続かなかった。沼の向こう側の並木道が街灯に照らされて、摩天楼のように輝いている。八月も終わりになって、暑さはほんの少しだけやわらいだ。どこか遠くのほうで、秋の虫が鳴いている。
「……それなのに?」と桜子が聞いた。
「それなのに……なんでか思っちゃうんです。まだ間に合うなら、探すべきなんじゃないかって。楽しいのは今だけ、一人で気楽なのは最初の数年だけで、このまま一人きりで年をとるのはよくないことなんじゃないかって。ときどき、夜眠る前とかに、無性に思うんです。このままで本当にいいのかな、わたしは不幸への道を進んでいるのかなって。桜子さんは思わないんですか?」
「思わないわ」あっけらかんと桜子は言う。
「一度も? 今だけじゃなく、昔も?」
「思ったことないわ」
「なんで?」
「なんでって……わたしは自分を不幸だと思ったことはないから、この先も不幸になるかもしれないとは思わない。それだけよ」
政治に無関心であることは、政治に無関心のままでいられると思います――というどこかの政治家の言葉を思い出した。他人をけむに巻くだけの構文。響はしばし考える。
「あのね、ひーちゃん」と言いながら、今度は桜子が、響の膝に手をおいた。
「わたしね、年寄りが若者に説教するって、嫌いなのよ」
「なんですか、唐突に。それにわたし、若くもないです」
「確かに、もう若くはないわね」と桜子は顎に手を当てて考える顔を作る。「昔は四十で初老扱いだったって話もあるしね。まあ、それはともかく、我々初老を迎えた老人勢がさ、人生の先輩ぶって、あれやこれや初老以下の人たちの人生に口出しするのってね、結局、そうすることで、自分は正しかったって確かめたいだけなの」
「はあ」
「結婚したら幸せになれるわよ、って他人に言う人は、結婚した自分の人生は正しかったんだって確認してるだけ。独身でも幸せよってわざわざ言う人は、結婚しなかったわたし大丈夫って安心したいだけ。わたしはそういうのはイヤな性質なのよ」
「なるほど」
「でもまあ、どうしてもわたしの説教を聞きたいならね、一言だけ、ひーちゃんに授けます。人間の死はね、みんな犬死よ」
「へっ」と響はさっきよりもすっとんきょうな声をあげた。「どういうことです?」
「家族にみとられた死だろうと、ゴミだらけの家ですっころんで頭うって死んだ孤独死だろうと、みんな死は犬死。死んだ時点て意味はないの」
「はあ」
「もう遅いわ、帰りましょうね」
響が引き留める間もなく、桜子はさっさと立ち上がって、自転車をとめたほうにむかってしまう。そのまま、もうなんとなく話の続きはできなかった。途中の交差点で二人は別れた。
一人になってから、桜子の言葉を何度も思い返したが、やっぱりよくわからない。ただ、さっきの自分は、桜子に失礼なことを言ったのだとようやく気づいた――このまま一人きりで年をとるのはよくないことなんじゃないかって。
赤信号で止まると、こぶしをつくって額をこつこつたたいた。
そのとき、ふと思う。一人で年をとることは不幸なことだと、いつどこで、誰に刷り込まれたのだろう。