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 言葉を覚えると、羽海はよく歌うようになった。音程も外れ、舌も回っていない歌だったが、羽海が楽しそうなので嬉しかった。羽幌町に引っ越してきた朝も、羽海はご機嫌に歌っていた。その歌を聴くことが、純哉にとっての幸福だった。

 前に暮らしていた町は過ごしやすかった。生活にも馴染んでいたし、地域にも溶け込んでいたようにも思う。けれど、近所に羽海の存在が認知されている状態で、このまま羽海を育て続けるわけにはいかなかった。いずれ羽海が小学校に行く年齢になったら、学校に通わない羽海を訝しむ者も出てくるだろう。

 その前に、誰も自分達を知らない場所に行く必要があった。

 本当はもっと目立たない、周りが適度に無関心な場所に移り住むべきだっただろう。それなのに、純哉は何故かこの町に戻ってきてしまった。母親である嘉奈島羽海が暮らした羽幌町。彼女がただ普通に過ごしたこの場所が、自分と羽海の流れ着く場所として正しいように思えた。ただの妄執かもしれない。ただ、それ以外に純哉を繋ぎ止めるものがない。

 引っ越してきてすぐに、純哉は羽海を連れてウミガラスを見に行った。とはいえウミガラスはそう都合良く現れてくれず、海鳥センターを見せて海岸で遊ばせることくらいしか出来なかったが。

 それでも羽海は楽しそうだった。初めて見る海に、小さな娘はきゃあきゃあとはしゃぐ。お父さん、と羽海が純哉を呼んだ。

 変に訂正をすれば、周りから怪しまれる恐れがあった。純哉はその呼び名を羽海に許し、返事をした。羽海が駆け寄ってくる。純哉のことを、この世で一番大切な存在であるかのように抱きしめてくる。

 小さなサンダルを濡らしてはしゃぐ羽海を、すぐに抱きしめ返せなかった。純哉は羽海を殺そうとしたことがある。あの時の包丁が、羽海の腹を抉る可能性がいくらでもあった。そのことが、頭を過る。

 純哉は一瞬の躊躇いの後に、羽海を抱きしめた。小さな子供は腕の中で柔らかく動き、温かい一つの波のようになった。

「羽海、お父さんは──お父さんは、羽海のことが、とても大事なんだ」

 羽海が顔を上げて、純哉のことを見つめる。その目が水面の輝きを宿す。

「羽海は、たった一人の娘だから。血の繋がった──娘だから」

 何一つ正しくないことを言った。羽海は、純哉を更に強い力で抱きしめる。幸せそうだった。何も正しくないのに。

 純哉が羽幌町に移り住んだ頃、嘉奈島羽海が新しいアルバムを出すと発表した。復帰後の彼女は精力的に活動し、どんどん新曲を発表していた。夫も彼女の活動をバックアップし、夫婦手を取り合って過ごしているらしい。アルバム発売に伴ってのライブツアーも決定していた。

 嘉奈島羽海はすっかり元の輝きを取り戻していた。妊娠が発覚した頃とも違う、本物の嘉奈島羽海になっていた。純哉が眩しく思っていた、嘉奈島羽海だ。

 

 羽海の歌声が聞こえる。純哉はそれで目を覚ます。

 ウミガラスを見に行って以降、純哉と羽海は殆ど一緒に出掛けなくなった。

 四歳になった羽海は、目鼻立ちもはっきりし、どことなく嘉奈島羽海に似るようになった。産まれたての時とは違い、はっきりと彼女との血の繋がりを感じさせる顔だ。父親の末野蓮司の血を一滴も感じさせない。

 それを見て、恐ろしくなった。いずれ、羽海が嘉奈島羽海の娘だと気づく人間が出るかもしれない。もしこのまま成長すれば、純哉と羽海の生活は終わる。

 羽海は快活な性格で、よく外に出たがった。純哉は近くの公園に行くことも躊躇われたが、時折彼女を海に連れ出した。羽海は浜辺で歌っている時が、一番楽しそうだった。

 羽海の生活には歌が溢れていた。羽海はテレビから流れてくる嘉奈島羽海の歌声に合わせて歌った。二人の歌声があまりにも綺麗に合っていて、純哉は涙が出た。

 純哉が泣くと、決まって羽海は歌うのをやめて純哉のところに来た。不安げに純哉のことを見上げ、昔のように抱きついてくる。

「歌ってくれ、羽海。何でもいいから」

 歌うのをやめてしまった羽海に対し、純哉は懇願する。羽海は戸惑いながらも、歌い始めた。たどたどしく弱く、それでも芯のある、華のある声だった。

 嘉奈島羽海の血を感じさせる声だ。

 この声が、全てを終わらせてしまう。海よりも深く、底に届く。どれだけ逃げても羽海を純哉から離す声が。

 

 羽幌町に取材が入った日、純哉は職場である学習塾にいた。

 急な呼び出しだったが、三十分もあれば片付く内容だった。純哉は迷った末、羽海を置いて家を出た。決して危険なことはしないこと、外には出ないこと。

 九歳になった羽海は聡明で、年の割に大人びたことを言う子供だった。学校に行っていない分、テレビに釘付けだったからか、芸能関連のことには特に強い興味を示した。

 その横顔は、恐ろしいほど嘉奈島羽海に似ていた。マスクで顔を隠させないと、誰かが指摘してしまいそうなほどに。

 先週の回覧板で、映画の撮影があると知った時は、聞き分けのいい羽海が珍しくわがままを言った。天売島まで撮影を見に行きたいと言ったのだ。純哉は戦慄した。

「何が面白いんだ。わざわざ見に行って撮影の邪魔をしたら叱られるぞ。ろくな思い出にならない」

 もし羽海が撮影隊に見つかって、嘉奈島羽海に似ていると気づかれたら。今はSNSがある。誰かがきっと、羽海のことに気がつく。絶対に、人が集まるところには行かせられなかった。

 けれど、この先は? この後は? 一体いつまで純哉と羽海は逃げ続けなくちゃいけないのか。あの時と同じ映画が、純哉と羽海を逃がすまいと追ってくる。過去に足を取られるんだよ、と言った嘉奈島羽海の言葉を思い出した。寄せては返す波のように、二人の生活が揺れる。

「駄目だ。今日は外には出さない。絶対にだ。いや、しばらく出るな。俺がいいと言うまで絶対に。いいな」

 純哉がきつくそう言うと、羽海は泣きそうになりながらも頷いた。

 ごめん。本当にごめん、羽海。こんなことになるはずじゃなかった。羽海が、嘉奈島羽海にここまで似ていなかったら。あそこで純哉が羽海をさらわなければ、こんなことにはならなかった。

 全部自分のせいだ。

 だから、罰が下ったのだろう。

 映画のクランクインに合わせて、羽幌町それ自体にもテレビの撮影が入った。

 内容は、かつて羽幌町を舞台に撮られた映画『雪の虫』のロケ地を巡るというものだった。あの映画のリブートが撮られることになったらしい。かつて主演を務めた俳優達が、思い出を語りながら羽幌町を歩く。

 町はお祭り騒ぎになっていた。それこそ、かつて映画が撮られた時と同じ賑わいだった。まるで何かしらの行脚であるかのように、ロケ隊は羽幌町を練り歩いた。

 羽海が映ったのは、そのロケの方にだった。

 ベランダに続く大きな窓のカーテンを開け、羽海は食い入るように道を歩く撮影隊を見ていた。もしかすると、かつての嘉奈島羽海と同じ表情を浮かべていたかもしれない。

 憧れに頬を染め、目を輝かせた羽海は、たった数秒の映り込みでも拡散された。最初は『この子めちゃくちゃ可愛いね』という他愛ない文言と、テレビの画面を切り取ったスクリーンショットだけだった。

 それに嘉奈島羽海に似ている、というリプライがつくのにはそう時間がかからなかった。

 

 羽海が歌っている。今はもう、はっきりと上手いと言える、歌声が聞こえる。

 純哉の下に、取材の申し入れがあった。嘉奈島羽海に似ている可愛い子供のことを、みんなが知りたがっているのだそうだ。断ったものの、崩壊が近いことはわかっていた。

 いずれ、学校にも行かずここにいる羽海の存在を、誰かが訝しむだろう。そうなれば、純哉の下を訪れるのは記者だけじゃなくなる。誰かが気づいて、警察が話を聞きに来る。ありえそうにないことでも、確かめなければならないから。

 部屋にいる羽海は、歌っている。

 この歌声を、誰かが見つける。深い海の底からも届く、この声を辿る。

 その時、テレビのニュースに嘉奈島羽海が映った。純哉は久しぶりに彼女の顔を見た。

 テレビの中の彼女は笑っている。羽海とそっくりな顔をして笑っている。羽海は嬉しそうに嘉奈島羽海を指さした。羽海は嘉奈島羽海のことが好きなのだ。

 アナウンサーが嘉奈島羽海の新曲がチャートを席巻したことを告げ、その曲を実際に流す。高らかに歌う嘉奈島羽海の声は、他の何にもまして美しかった。羽海は一層目を輝かせ、一緒に新曲を口ずさむ。もう覚えているんだな、と純哉は思った。

 重なる二人の声を遮るように、玄関のインターホンが鳴った。

 

 

(了)