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 純哉は個室に入り、鍵を掛けてからスマホを取り出した。通知は更に重なっており、母親が怒り心頭であることが窺えた。だが、それを開くより先に、いつも使っているSNSを開く。そして、日課になっている言葉を打ち込んだ。
 かなしまうみ。
 嘉奈島羽海。
 すぐさま沢山の投稿が引っかかる。何かのCMの為に髪を真っ赤に染めた彼女の画像がPR投稿に混じって出てくる。このCMは、早々に打ち切りが決まってしまい、この画像だけが幽霊のようにインターネットの海を漂っている。
『嘉奈島羽海、劣化ヤバいね。やっぱり子供出来ると変わるんかな。というか、こいつってツアー中に遊んでたんじゃなかったっけ』
『元々はNMC歌謡祭も出る予定だったんだろ。バレたせいで無理だったけど。その時点でお腹の子供に愛着とか無いだろ』
『嘉奈島羽海を叩いてる人間、全員認知歪んでるって分かんない? おかしいよ』
 嘉奈島羽海に対する様々な言及を見ていると、自分の呼吸が段々と落ち着いてくるのが分かった。批判だろうと擁護だろうと、どちらでもないただの語りでも、嘉奈島羽海に関わるものであれば何であろうと安らいだ。
 嘉奈島羽海。
 二十四歳。
 一世を風靡した人気絶頂の歌手──だった女だ。
 高校生の時にとある公開オーディション番組に参加、最多得票数を得て歌手として鮮烈なデビューを果たす。その後、新進気鋭のシンガーソングライターと組み、アニメのタイアップ曲を中心に作品を発表。二十歳の時にアリーナツアーを完遂するなど、華々しい活躍を続ける。同オーディション出身で大晦日の紅白に出場したのは嘉奈島羽海が最初だった為、大きな話題を攫う。
 しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いで活動していた彼女は、今や表舞台から姿を消した。所謂『産休』に入っているからだ。
 三ヶ月前、嘉奈島羽海は産婦人科に通っていることを週刊誌に暴露され、SNSで広く炎上した。彼女は結婚していないどころか、交際の事実を明らかにしたこともなかったから、尚更このことはセンセーショナルに報じられたのだ。
 嘉奈島羽海側でどんな話し合いが為されたのかは分からないが、彼女はそれまで秘密にしていた交際相手と共に大々的な会見を行った。彼女の交際相手は、彼女が主題歌を務めていた朝ドラの主人公俳優、すえれんだった。嘉奈島羽海と末野蓮司は仲睦まじく結婚会見を行い、そして大きな非難を受けた。週刊誌で報道が出た時よりも、更に苛烈な炎上だった。
 元より、嘉奈島羽海はそのアイドル的なルックスと甘やかな歌声を買われて人気を伸ばしていった歌手でもあった。メディアへの露出も多かったし、実際に嘉奈島羽海に会えるイベント──『接触イベント』も、積極的に行っていた歌手である。
 当然、彼女をアイドルのように思って疑似恋愛を楽しむファンも多かった。そんな彼女が交際と妊娠をギリギリまで隠していたというのは、やはりあまり印象がよくなかった。会見での嘉奈島羽海が、必要以上に末野蓮司との仲の良さを強調したのも、ファンの感情を逆撫でしたのだろう。嘉奈島羽海にも当然ファンは多かったが、末野蓮司もまた、同じように異性のファンを多く抱えていたからだ。
 けれど、嘉奈島羽海が最も非難された理由は、別にあった。
 彼女は──インタビューなどで事あるごとに、恋愛感情という概念が分からないことを公言していたからである。
『誰かと恋愛をするっていうこと自体が想像出来ない。子供を産みたいとか、そういうのも全く無くて。自分が母親になるってことが考えられないから、そういったものとは一生線を引いていく』
『家族は作れないよ。そもそも、家族っていうものが人と人との本当の繋がりであるとは思えない。あんまり、そういうことを信じられないでいたから』
『血は水よりも濃い、だっけ。けれど、本当にそんなに大切かな。私はどちらかというと、家族との繋がりよりもこうして応援してくれる人との方に絆を感じる。水は流れてもっと広いところに、海に至る』
 交際と妊娠が発覚する前の、最後のインタビューがこれだ。
 勿論、生きていれば考えが変わることなんていくらでもあるだろう。けれど、彼女が何度もそれを強調していたせいか、余計に反発を覚える人間が多く出た。
 彼らは半ば、信頼を裏切られたような気分になった。
 結果、嘉奈島羽海のファンの中には彼女に対する過激な誹謗中傷を行うものもいた。多くは見るに堪えない罵詈雑言を並べ立てているだけだったが、唯一、多少の共感を得ていた投稿もあった。

『どうして、寄り添ってくれるような振りをしたんですか。そうじゃなかったのなら、振りすらしないでほしかった』

 ──どうして、自分達のような人間の受け皿となってくれるような顔をしたんだ。本当は、普通に誰かと生きていける人間だったくせに。
 こういった人間の本当の絶望とは、嘉奈島羽海が伴侶を得たということではなく『家族』を作ろうとしたことなのだろう。
 けれど、このような感覚は所詮少数派だ、ちゃんと全てを公表して会見を行った嘉奈島羽海のことを、これ以上正面から叩くことは出来ない。おまけに、彼女の中には新しい命が宿っているのだ。妊婦に対してストレスを与えるようなことは何より避けられるべきだ。
 純哉だって、どれだけ裏切られたような気になったとしても、誹謗中傷なんかする側が完全に悪いと思っている。それに、どれだけ彼女を叩いたとしても、元の彼女は戻ってこない。そんな行為に意味は無いと理解はしている。
 すっかり状況が変わってしまった嘉奈島羽海についてのSNS上の言葉を読むと、ようやく息がつけるようになった。次に純哉は、イヤホンを取り出して嘉奈島羽海の曲を再生する。
 アップテンポの曲に、嘉奈島羽海の明るい歌声が乗る。エモーショナルで抑揚が強く、派手であるのに、どこか乾いている。街中で聴く時には気にならない無機質さが、こうして一人で聴いていると強調されるような気がする。
 純哉は嘉奈島羽海のファンだった。この歌声も、彼女の言葉も、全てが純哉のよすがとなっていた時期があった。週刊誌の報道を見た時、ショックを受けたのは純哉も同じだった。
 どうして嘉奈島羽海が。
 家族を作れないと言っていたのは嘘だったのか。
 何か理由があるのか。どういう心境の変化があったのか。
 疑問は尽きなかったが、それを直接尋ねる術は無かった。
 純哉の好きだった嘉奈島羽海は戻ってこない。
 そのことを、純哉ははっきりと理解していた。

 その夜純哉は、テストの採点が終わらずに二十一時を回っても学校に残っていた。時折、昼間に鶴見瑠菜から言われたことを思い出したりもしたが、結局彼には何をしていいかも、何をするべきなのかもまるで分からなかった。教師じゃなければ関わり合いにもなりたくない話だ。
 もし鶴見瑠菜が子供を産むことになったら、まず間違いなく退学になるだろう。
 文部科学省の通達では、高校生が妊娠しても退学をさせず、生徒に学業継続の意思がある場合は、出来る限りのサポートをするようにということになっている。
 だが、出来る限りのサポートといっても限界がある。そもそも、中絶をせずに産むのであれば、まず出席日数が足りなくなってくるだろう。今の時点でかなり体調が悪そうな鶴見瑠菜を見るに、この先元気に登校出来るとは思えない。
 そうなれば、学校側が鶴見瑠菜に便宜を図ることになるだろうが──。果たして、光陽高校のような保守的な学校が、そこまで妊娠した生徒のバックアップを行うだろうか。そうは思えない。
 となれば、鶴見瑠菜の留年は必至となり、今とは比べものにならないくらいの好奇の目に晒されるだろう。ある程度言い含めていたところで、生徒達が鶴見瑠菜を受け入れると信じるのは、少し性善説が過ぎるはずだ。
 彼女がこれからも学校に通い続けたいと思うなら、子供のことは諦めるしかない。けれど、あの様子の鶴見が、果たして子供を諦めたりするだろうか? そうは思えなかった。彼女はただ、純哉に後押しして欲しかっただけなのだ。
 お腹の子供を産み育てるという決断を後押ししてくれそうな、優しそうな男の先生。それが、純哉に求められた役割だった。
 ようやく採点を終えて学校を出ると、辺りはもうすっかり人通りが少なくなっていた。
 ──とりあえず、どれだけ嫌がられても鶴見のことは女の先生に任せることにしよう。誰か、適度に話が分かり、鶴見を上手く説得できるような──。
 そんなことを考えながら、帰り道を急いでいた、その時だった。
「久しぶり。って言っても、殆ど話したことなかったよね」
 涼やかな女の声がした。
 車道の方に目を向けると、そこにはテレビでVIPが乗っているような、大型のバンが停まっていた。声の主は、後部座席の窓を開けて、そこから純哉に話しかけてきている。夜道でも華やかに映るその顔を見た瞬間、息が止まった。

 

(つづく)