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 この子を育てるのに、彼女は疲れているように見えた。子育てなんてそんなものだ、ありふれていると一度は納得したものの、そうではなかったんだとしたら。純哉が思っているよりもずっと、あの母親が限界だったのだとしたらどうなる? あの癇癪が最後の一押しで、この子を『諦める』という結論に達したのだとすれば。

 この子は意図的に捨てられたのだ。

 純哉は思わず子供の顔を見てしまった。捨てられたかもしれない子供を見る目で。

 途端に何かを察したのか、子供が当てつけるようにまた泣き始めた。不安なのか、純哉に駆け寄ってきてまた足をぶってくる。痛かった。この子を育てるのは、きっと苦労するだろう。この子が手元に戻れば、あの母親はこれからもずっと疲弊し続けるのだ。

 もし純哉があの母親の元にこの子を帰したとしよう。それが結果的に、あの母親を追い詰めることになったらどうすればいいだろうか。もしこの子を引き渡したことで、母親か子供のどちらかが死ぬことになったら。

 心臓がうるさいほど鳴っていた。

 自分は、この子を見捨てることになるんじゃないのか。

 嘉奈島羽海のことが頭を過った。正確に言うなら、これから生まれてくる子供のことが過った。

 自分が救わなくちゃいけないのは、この子なんじゃないかとすら思った。子供は不安からか、自らの頭すら殴りつけていた。癇癪が酷くなっている。

「大丈夫だから。お母さんはすぐ見つかるから」

 返事は無かった。子供はただ泣いているばかりだ。子供の泣き声は、相変わらずうるさかった。この子の生まれた時はどんな風に迎えられたのだろう。想像しようとしても、上手く出来ない。

「もしお母さんがいなくなっちゃったら、僕が育てるから」

 純哉は、自分がなんでそんなことを言ったのか分からなかった。

「行く場所はあるから、心配しなくていい。お母さんのところには帰らなくていいんだ」

 子供は最初ぽかんとしていたが、純哉が何を言っているのかを理解したのか、むしろ顔を歪めた。言われていることの恐ろしさに気づいた様子で、助けを求めるかのように辺りを見回す。それでも、母親はどこにも見えなかった。

「大丈夫。見つからなかったらの話だ。見つからなかったら、僕が責任を取る。だから安心してほしい。大丈夫だ……」

 純哉は殆ど独り言のような形で呟いて、また母親を探した。子供は少し悩んでいたが、恐怖に凍り付いた表情のまま後をついてくる。純哉がセンターを出ると、子供も続いた。もう子供は泣いていなかった。

 ウミガラスを探していた海辺に戻り、ぐるっと回っていると、背後から声がした。

「洋典!」

 子供が弾かれたように振り向き、そのまま駆け出していく。純哉が遅れて振り返った時にはもう、子供は母親の腕の中にいた。

「もう! 心配させないで! 何処行ってたの!」

 母親は変わらずに疲労困憊の様子で、さっきよりもずっと小さく見えた。その小さな身体が、崩れそうなくらい大きく震えている。純哉の耳にまで届くほどの大きな溜息が彼女から漏れた。

 それからしばらく母親はそうしていたが、突然正気に戻ったかのように純哉の方を見た。

「すいません! 洋典がお世話になったんでしょうに、お礼もしないで……ありがとうございます!」

「いや……僕は何もしてません。迷子のようだったので海鳥センターの職員さんにお任せしようと思ったんですが、職員さんが見当たらなくて。職員さんかお母さん、どちらかを探していたんです」

「そうだったんですか……すいません。ありがとうございます。その、この子が迷惑をかけたりはしていませんか? ……何かされていませんか? ぶたれたり、とか……」

「いえ、そんなことはありませんでした」

 純哉が言うと、母親はあからさまにホッとした表情になった。いつもそのことを気にして過ごしているのだろうな、ということは容易に察しが付いた。

 子供は安心したからか、出会ったばかりの時のように母親のことを殴っていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔が、笑っている。

「もう帰ろうね、洋典。もう……本当にありがとうございました」

「いえ、大丈夫です。お気を付けて」

「ありがとうございます。……ほら、行こうね」

 振りあげた拳を母親の手が受けて、そのまま繋ぐ格好になる。子供は疲れたのか、今度は抵抗することなく手を繋いだ。

 そうして別れ際に、母親が純哉の方をちらりと見た。

 それは、奇妙な表情だった。こちらを嘲笑っているかのような、憎んでいるかのような、全部を諦めているような、そういう顔だ。

 純哉は見ないふりをした。癇癪持ちの子供が迷子になった挙げ句、海辺でうっかり溺れてしまったり、再会出来ないくらい遠くへ行ってしまったりするよりはいいはずだ。

 純哉はそう思うしかなかった。祈っているといってもよかった。

 

 ウミガラスは見られないまま、純哉はセンターから宿に戻るバスに乗っていた。窓の外は暗く、ガラスには純哉の顔しか映らない。

 純哉はじっと夜に身を潜めながら、嘉奈島羽海について分かったことを一人で整理した。もし純哉の推測が正しければ、物事は全く違った結論に至るだろう。それと同時に、純哉の推測が正しければ羽海を説得することはもう出来ないかもしれない。

 そうしたら、純哉はいよいよ彼女の子供を殺してやるしかないのだ。

 それを想像しても、純哉はもう動揺しなかった。むしろ、純哉の心境は奇妙に凪いでいた。そうなるのかもしれない、という思いが、あまりにも自然なこととして純哉の心にあった。

 もし純哉の推測が正しければ、嘉奈島羽海を救えるのは純哉しかいなかった。他の誰にも出来ないことが、純哉には出来る。

 その時、純哉は初めて嘉奈島羽海の心に触れられるだろう。今の彼女の心に触れて、それで自分が満たされるかは分からないが。

 シミュレーションをする。大好きな歌手の結婚と出産に耐えきれず、彼女の家を特定して襲いにいく自分を。セキュリティがしっかりしている家に侵入出来たのは、出産後の嘉奈島羽海が酷く疲れ果てていたからだ。赤子の世話でまともに眠れていなかった羽海は、純哉の侵入を許してしまう。

 それで、あの可愛らしく完璧に整えられた部屋で、純哉はベビーベッドの中の子供を見下ろすだろう。そして──。

 バスが停まり、純哉のシミュレーションは子供を殺す直前で終わった。誂えられたようなタイミングに嫌気が差した。こんな幕切れが許されるはずがない。

 宿まで歩いている途中に、スマートフォンが鳴った。知らない番号だったが、少し悩んでから出る。

 ややあって、か細い声がした。

『ごめんなさい。先生はこういうの絶対嫌がると思ったのに、どうしても話したかったから』

 鶴見瑠菜だった。

 

 

(つづく)