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純礼は高校を退学してから、意外にも純哉によく話しかけてくるようになった。
だからと言って純哉からの純礼の印象が特別良くなったということはなく、むしろ純哉は戸惑いつつ彼女の話をその存在ごと流しているところがあった。それでも純礼は全くめげずに、純哉に話しかけてきた。
純礼を無視出来なかったのは、他ならぬ母親からのお願いがあったからだ。
「あの子、高校を辞めてからすごく情緒不安定になっているところがあるの。このままだと何をするか分からないし──身体によくないかもしれない。お願いだから、あなたが純礼の、お姉ちゃんの相手をしてあげて」
高校を辞めて四六時中一緒にいるようになってから、母親と純礼の蜜月は終わっていた。母親だけを友達とするような状況に、他ならぬ純礼が飽きているようでもあった。
だからこそ、純哉は代わりとして選ばれたような部分があった。彼女の倦んだ生活を刷新してくれる目新しい『友人』代わりだ。
「純礼とあなたは血が繋がっているんだから。一生助け合って生きていかないといけないんだからね」
母親が祈るようにそう繰り返して、純哉はとうとう折れた。その日から、純哉は純礼が話しかけてきた時に邪険に扱わなくなった。
それだけで、純礼は随分嬉しそうだった。
テスト終わりで早帰りした時とはまた違う姉がそこにいた。純礼はまるで元からそうだったかのように純哉に懐き、家の中で何をするにも純哉についてくるようになった。引きこもりでありながら食事の時間を純哉に合わせ、歯みがきなどの日常の細々とした些事の時間を合わせた。まるで親離れ出来ない子供みたいだった。
純哉がリビングでテレビを観ていると、純礼も決まって部屋から出てきて一緒に観るようになった。
隣で黙ってテレビを観ている姉のことを遠ざけるわけにもいかず、純哉は姉がそこにいないような顔をして、黙ってテレビを観続けた。純礼と一緒にいる時の純哉は、いつも微かに緊張していた。
どうせいつかは、こういった純礼の甘えも無くなるだろう、と純哉は思った。母親ばかりとくっついているのに飽きた純礼は、弟ばかりとくっついているのにもすぐ飽きるはずだ。
そうなったらどうなるのだろう、と純哉は少しだけ考える。そうなったら、純礼は次に『誰』に行くのか? また母親とべったりに戻るのか。父親は昔から一貫して子供達に興味が無く、純礼が引きこもりになってからは一層彼女を厄介者扱いしているようだった。
なら、純礼は次は何に行く?
その微かな危ぶみを全く知らずに、純礼はじっとテレビを観ていた。テレビに集中している純礼が、ソファーの上で体育座りの姿勢を取る。丸い背中が、虫のように丸まっていく。
体育座りをしている時の指の組み方が自分とよく似ていて、純哉はそこで初めて血の繋がりを意識した。
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翌日から、純哉は嘉奈島羽海について改めて調べ始めた。
──あそこまで極端な思考に走るからには、絶対に何かしらのきっかけがあるはずだ。
嘉奈島羽海がそれほどまでに母親になるのを厭う理由が。愛しているはずの夫が子供を望んでいるのに、それに応じない理由が。そうして子供を殺してでも自分の中の何かを守りたがっている理由が。
当然ながら、インターネットやメディア上にそんな嘉奈島羽海の情報の断片が転がっているはずはなかった。どれだけ表面上に出ている嘉奈島羽海の情報を掻き集めても、ああして話していた嘉奈島羽海とはまるで繋がらない。
そもそも、純哉は嘉奈島羽海個人に対してここまで真面目に向き合い、考えたことはなかった。同級生だったことすら、既に印象から薄れてしまっている。
本当の嘉奈島羽海は一体どういう人間なのか?
不思議な関係だ、と純哉は思う。
一方的にその声を聞き、言葉を聞き、行動を観察し続ける。それなのに、本当のことには誰も辿り着けない。
考え続けて、ある程度の結論をそこに据えるだけ。
嘉奈島羽海とは、連絡先も交換しなかった。彼女自身から情報を得られることは少ないだろう。そもそも、本当に彼女は子供が産まれるまで、もう純哉に会うつもりはないかもしれない。次にあの車が純哉の前に現れた時──その時は、純哉が嘉奈島羽海の子供を殺す時なのかもしれない。
子供を殺すに至る、動機。
純哉は嘉奈島羽海にもう一度会う前に、それを探し出さなければならなかった。
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芸能人や配信者などの『ファン』がいる人間は、生身の人間でありながら『考察』の対象になる。メディアに出した一言から、現れた一挙手一投足から、誰かがその内面に迫ろうとする。
もしかすると緊張から現れたかもしれない顔の強張りをトラウマと結びつけ、共演者との不仲にこじつけていく。
歪んだ趣味だな、と純哉は他人事のように思った。自分だって分かっていない内面なんて代物を、ただ表に出ただけの瞬間瞬間で以て解剖し、勝手な結論を出そうとするなんて。あまつさえ、一部の人間はそれをSNSに文章の形で流したりもする。それを読んだ『他人』が、何故かその勝手な言葉にお墨付きを与えてしまう。
純哉が会う約束を取り付けた『嘉奈島観測所』というサイトを作っている『しらせ』も、そんな考察記事を書いている一人だった。
「白瀬知夜です」
待ち合わせのカフェに現れた『しらせ』は、席に着くなり丁寧な口調でそう名乗った。『しらせ』は、そのまま名字をひらがなにしただけのHN──ハンドルネーム、だったらしい。
歳の頃は三十代半ばか、四十代に差し掛かりそうなところのようだった。小綺麗な身なりにショートカットに整えた髪は、古い言葉で言えば仕事の出来る女といった風情である。反面、その表情にはあからさまな焦りが見え、じっとこちらを窺うような目をしていた。
「急にDMを差し上げたのに、会って頂けることになって嬉しいです。急にお呼び立てしてしまってすいません」
「いえ……その、私……大丈夫です。『M』さんとは長い付き合いですし」
M、というのは純哉がSNSで使っているHNのことだ。考えてみれば、純哉のHNも名字から取ったイニシャルで、何のひねりもない。嘉奈島羽海のファンは、何故だかそういうシンプルな名前を名乗っている印象があった。
「僕は瑞地純哉といいます。よろしくお願いします」
「あっ……その、よろしくお願いします。すいません」
白瀬知夜は更に恐縮した態度で頭を下げると、怯えた目で純哉に言った。
「先に──先に、これだけ聞きたいんですが──嘉奈島羽海の代理人から誹謗中傷で訴訟を起こされたというのは本当ですか?」
白瀬知夜はまんまと純哉の撒いた餌に引っかかっていた。
『嘉奈島羽海観測所』は、嘉奈島羽海のファンブログの中でも、有名かつ古くからあるサイトだった。サイトの名前は嘉奈島羽海の『島』と『海』に掛けているのだという。
活動初期から嘉奈島羽海について熱心に書き連ね、彼女の『内面』を考察した記事を発表していたことから、何かと嘉奈島羽海のファンからは有名だったサイトである。純哉も昔からよく目を通していた。管理人である『しらせ』はSNSでの交流も盛んで、よくも悪くも影響力があった。
この『嘉奈島羽海観測所』は、SNSでよく議論の的になっていた。理由は、あまりにもずけずけと彼女の内面を『考察』しているからである。たとえば、そこに載っていた考察記事のタイトルはこんなものだった。
『嘉奈島羽海新アルバム「Thisトラクト」考察。歌詞に滲み出る芸能界不信の影』
『嘉奈島羽海と某アイドルの不仲説について。事務所運営SNSから見る確執』
『嘉奈島羽海はどうして人からこれほど受け入れられる存在になったのか? あるいは彼女はどうして危ういのか』
記事の一覧を見ただけで、受け付けない人間は心底受け付けられないタイトルばかりだ。一応『しらせ』はこうやって記事を書く程度には嘉奈島羽海の長年のファンであるし、彼女の膨大なインタビューやSNSの投稿にも目を通し、番組出演があれば軒並全てチェックするほど『研究』に余念が無い。
けれど、それであたかも嘉奈島羽海の隠された秘密を見抜いていると言わんばかりの態度で書かれた記事は、一定数のファンの反発を呼んだ。
実際、どれだけインタビューが『それ』らしかろうが、嘉奈島羽海が誰と不仲で、何に不信感を抱いているかなんて本当は知りようもない。考察はただのこじつけの妄想でしかないのだ。
けれど『しらせ』の記事には、妄想と共に掲載された嘉奈島羽海に関するありとあらゆる裏付け用のデータがあったし、『しらせ』の妄想自体はスキャンダラスで面白かった。
そして何より『嘉奈島羽海観測所』の文章は、一人のスターに対する執着と熱意が感じられ、それがファンを引きつけた。『嘉奈島羽海観測所』が賛否両論ありながらも多くの嘉奈島羽海ファンに読まれているのが、その証拠だろう。
ただ、『しらせ』の文章が行きすぎた事実誤認を呼び起こすのも、また事実ではあった。
「私、悪気は無かったんです。Mさんも──いや、あの、瑞地さんも、私の文章を読んでくださっていたら、分かるはずです。私は本当に羽海ちゃんのことが好きで、羽海ちゃんのことを考え続けて──少しでも羽海ちゃんのことが理解出来ればって気持ちで書いていただけなんです。誹謗中傷をしようとしたわけじゃないんです。本当に、そんなつもりじゃ」
白瀬知夜は畳みかけるようにそう言って、赦しを乞うように純哉のことを見た。許す権利も何も純哉には無いというのに。
純哉はどうしてもこの『しらせ』に──長年、嘉奈島羽海のことを考え続け、膨大な情報を溜め込んでいる人間──もしかすると、この世で一番、外側から見た『嘉奈島羽海』に詳しい人間と、会って話をしたかった。
純哉が改めて調べ直すよりも、そっちの方がずっと嘉奈島羽海の外面について詳しく知ることが出来ると思ったからだ。
だが、ただSNSで繋がっているだけのファンの一人に、わざわざ『しらせ』が時間を割いてくれる気はしなかった。ただでさえ『しらせ』はアンチも多い。下手にオフで会ったら、アンチに何をされるか分からない、と考えるのも当然だろう。
だから、そんな『しらせ』でも絶対に食いつくような話を餌に、会う約束を取り付けなくてはならなかった。
それが『嘉奈島羽海に誹謗中傷で開示請求をされた』というものだ。
(つづく)