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お父さんは私を外に出そうとしない。私だってそこまで外で遊ぶのが好きなわけじゃないからいいけれど、時々つまらないなと思う。
今日は町に人が多く出ていて、窓からでもがやがやと大人達がいっぱい見えた。私はそれだけでもう胸がいっぱいになってしまう。
どうやら、この島で何かの撮影をするらしい。撮影、という言葉に私はドキドキが止まらなくなる。お父さんは私を家にいさせる分、テレビなんかは観たいだけ観せてくれる。おかげで私は結構なテレビっ子だ。ドラマなんかはお父さんが寝なさいと言う十時ギリギリまで頑張って観ている。
もし撮影があるんだとしたら、それはどんな感じなんだろう。何のドラマ? 映画だったりするのかな。私はもうたまらなくなって、眠れなかった。それで、クラスの子達が言うように、天売島の方まで撮影を見に行こうとお父さんに言った。きっと連れて行ってくれるだろうと思った。だって、こんなことはもう二度と無いかもしれないから。
でも、お父さんは聞いてくれなかった。
「駄目だ。撮影は絶対に見に行かせない」
「なんで? お父さんも一緒に行こうよ。こんなこともう無いかもしれないよ。こんなところに、撮影の人なんか来ないもん。もう見れないよ」
「何が面白いんだ。わざわざ見に行って撮影の邪魔をしたら叱られるぞ。ろくな思い出にならない」
お父さんは全くうんと言ってくれずに、私の目の前で首を横に振り続けた。私はお父さんに駄目だと言われれば言われるほど、焦った。もう見られることなんてないかもしれないのに。一生に一度のことかもしれないのに、どうしてお父さんは駄目だって言うんだろう。
私はなんだかすごく悲しくなってしまって、お父さんにお願いをしながら泣いてしまった。本当はもっとちゃんとお願いをしなくちゃいけないのに、喉に詰まって声が出ない。もしかしたら、私はもう見られないかもしれないんだよ。どうしてちゃんとお願いを聞いてくれないの。なんで。
けれど、私が泣けばいつも抱きしめてくれるはずのお父さんは、硬い顔つきのまま私のことを見つめていた。そして、大きな溜息を吐いて、きょろきょろと辺りを見回す。それがなんだか本当に怖くて、私はお願いの声がとうとう出なくなる。
「駄目だ。今日は外には出さない。絶対にだ。いや、しばらく出るな。俺がいいと言うまで絶対に。いいな」
お父さんは私のお願いをまるで聞いてくれなかった。ただ、私が危ないことをした時に叱るような声で、私にそう言うだけ。お父さんはそれから急いで買い物に行って、キャンプにでも行く時のような沢山の荷物を抱えてきた。よく見ると、それは全部食べ物だった。私の好きなお菓子も何個も何個も入っていた。
それを見て、私はなんにも言う気が無くなってしまった。だって、お父さんが私にいじわるをしたくてお願いを聞いてくれなかったんじゃないんだなって思ってしまったから。お父さんを悲しませたくなかった。私はお父さんの言うことを聞いて、部屋から出ないまま、カーテンを開けて撮影の人達が来るのを待っていた。
私の憧れる芸能界の人達が通るのを待っていた。
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羽田から新千歳空港まで約一時間半。そこから電車で札幌まで行き、札幌から更に約三時間半バスに乗る。すると、小さな町に着いた。とても綺麗で閑静な場所だ。純哉がかつて住んでいたベッドタウンに、雰囲気がとてもよく似ている。
嘉奈島羽海は小さい頃に、父親と一緒にウミガラスを見たことがあるらしい──。加えて、羽海の家で得たちょっとした情報から、彼女の出身地が恐らく北海道であることも分かった。北海道でウミガラスが生息しているのは、天売島という小さな島である。その島に渡る船が出ているのが、ここ、羽幌町だ。
嘉奈島羽海は羽幌町の出身なのではないか──それを確かめるために、純哉はわざわざこの遠く離れた小さな町にやってきた。純哉は自分のことながら、その執念に慄く。
だが、嘉奈島羽海の内側に触れることを許されるのは、その執念深さを宿している人間だけなのではないかとも思う。
バス停留所のある羽幌ターミナルには、純哉でもタイトルを知っている有名な少女漫画のイラストが飾られていた。どうやらこの羽幌町は、この漫画の舞台になった場所らしい。
その横に、更に控えめに嘉奈島羽海の写真が飾られている。けれど、大仰に『嘉奈島羽海生誕の町』や地元であることを示す文章が添えられているわけではなく、額に入った写真だけがひっそりと掛かっているだけだ。あまり良い想像ではないが、まるでそれは遺影のようにも見えた。
写真の中の嘉奈島羽海は既に人気歌手として名を馳せていた頃だ。金のかかった衣装に、堂に入った笑顔。中学時代の嘉奈島羽海とは全然違う、もう芸能人として完成された顔だった。純哉が知っている中学生時代の面影は全くない。
額の下の方には『写真撮影禁止・SNSに上げないでください』という時代錯誤な張り紙までされている。これじゃあ何の為に飾られているのかも分からない。
「あんた、嘉奈島羽海のファン?」
じっと羽海の写真を眺めていたからか、地元の住民らしき老人が興味深げに尋ねてくる。歳の頃はもう六十くらいだろうか。目尻に刻まれた皺や口元の皺は深いが、同時に人当たりの良さを感じさせた。
「はい。そんなようなものです」
少し悩んでから、曖昧な返事をする。男は何も気にせずにうんうんと頷いて「たまーに来るんだわ。私はな、このターミナルをね、ちょいちょい綺麗にしてるもんなんだけども。ボランティアで」と、言った。
「人気の歌手なのに、あんまりファンは来ないんですか?」
「ま、何も無いからな。ああいうのが凱旋で歌いに来たら違うんだろうけどな。その子、ぜーんぜんここまで帰ってこないでしょ。薄情っていうか、冷たいっていうんかなあ。だから、全然盛り上がらんの。それでもせめてこんなとこまで来るファンの為に写真とか、グッズとか飾ってたんだけど、事務所からあんまり派手にやるなーみたいなね、こと言われて。やっぱり金払わないで観光地にすんなってことなんかね、世知辛いね」
男がまくし立てるように言うのを聞きながら、純哉は確信していた。羽幌ターミナルに嘉奈島羽海のコーナーを作らないようにと望んだのは、事務所ではなく嘉奈島羽海だ。羽海は、この町で自分が暮らしていたことを、あまり喧伝してほしくなかったんじゃないだろうか。だからこそ、羽海は事務所を通して止めさせた。こんな小さなターミナルの掲示だというのに。
「でもね、一応写真はあるのよ。ネットに載せるの禁止って言われたから、じゃ注意書きしたらいいだろうってね」
「写真を飾ること自体は止められなかったんですか」
「まあ、大々的にやるなって言われただけだから」
そこで本来なら止められるはずだったのが、ずさんな認識でこうして晒されたままになっているということなのだろう。こうしたアナログ的な痕跡の取りこぼしはどうにも出来ないというのが何とも言えない。加えて、インターネット上の痕跡だって一体どのくらい消せるだろうか。
そういった取りこぼしの最たるものが、嘉奈島羽海本人を知っていた人間達だろう。彼女の出身地は表向き明かされていないというのに、純哉は今、それを当たろうとしている。
「今じゃ、その子より隣のアニメの方が人気でね。いっぱいファンが来るの。それ繋がりで来た子達が、写真見てここ出身なんだってびっくりするくらいでね、全然観光には繋がってないかな」
男は酷く残念そうに溜息を吐き、嘉奈島羽海の写真をちらりと一瞥した。
「本当にたまーにあんたみたいにマニアックなのが来るけどね。でも、ここにはその子関連のことはなーんもないよ」
純哉は曖昧に笑いながら、男の言葉を聞き流す。インターネットに上げられることを禁止されただけで、こんなにも話題にならないというのも不思議な気分だ。
「すいません、この住所にはどうやって行ったらいいですか」
純哉がメモに書いた文字を見せると、男は急に表情を曇らせた。
「これ、どこか知ってるんか」
「この近くにある食堂を薦められたんです。折角羽幌に行くんならって言われて」
純哉がしれっと嘘を吐くと、男は渋々路線バスの停留所を教えてくれた。彼が顔を顰めたのは、この住所の近くには比較的大きな小学校があるからだろう。純哉が何か妙なことをしないか不安なのだ。
純哉だって、自分で何をしているのか分からない。子供を殺したいと願う女の動機が、隠された内心が、捨てられた生まれ故郷なんかにあるものだろうか。
(つづく)