娘からは、いつも微かに海の音がした。
 全身に血が巡る音が、波の音を連想させるからだろうか。彼女が抱きついてくる度に、まるで小さな海に纏わりつかれているような気分になった。屈託無く、何の心配もせずにこちらに体重を預けてくるのを見ると、あまりの哀しさに胸が詰まった。子供が親を疑うことが出来ないというのは、恐ろしいことだと思う。
「お父さんは、どうしてのことがそんなに好きなの?」
 娘が、自分が愛されていることをまるで疑わずに尋ねる。僕は少し悩んでから言った。
「──血が」
「ち?」
「血が繋がっているから。血は水よりも濃い、って分かる?」
 分かるはずのないことを質問すると、案の定つまらなそうに唇を尖らせた。
「血の繋がりが、何より大事だということだよ。それはたとえ羽海が大きくなっても、別の家族を作ったとしても、決して消えることのない繋がりなんだ」
 僕は敢えて娘に伝わらない言葉を使う。この言葉を出来れば早く忘れてほしいから。
 人の形を取った小さな海が僕にじゃれつく。軽いけれど確かな重みがそこにある。動けなくなる。力を込めたら、すぐに潰れてしまいそうなのが、僕にはただただ恐ろしい。



『次の帰宅はいつになりますか』
 通知欄に現れたその一文を見た瞬間、じゆんの呼吸が浅くなった。
 スマホを取り落とさないよう握り直している内に、どんどん次のメッセージが届いていく。
『こんなに帰宅が空いたのは半年ぶりじゃないでしょうか』
『何か不満があるのなら口で言いなさい。何の為に口がついているの』
すみがいなくなってしまった以上、貴方には責任が』
 そこまで読んで、純哉は通知を削除した。すぐに既読を付けると、そこからまた会話が続いてしまう。次はいつ実家に帰ってくるのか、次に責任を果たすのはいつなのか、と詰問されることになるのだ。そこで上手く宥められれば、少しだけ猶予がもらえる。だが、もし上手くいかなかったら──。
 ──可愛い純礼を殺しておいて、どうして代わりを務められないのかと責められる。
「あなたが罪に問われなかったのは、私達が庇ってあげたから。本来なら、貴方は日の光の当たるところにいることすら出来なかったのに。ちゃんと出来ないなら、純礼を返して。お姉ちゃんを返して。責任を果たしなさい。さもなければ死んで。死んで。早く死んで。全部お前のせいだ」
 いつか言われたことを思い出すだけで足が竦んだ。動けなくなる。息が出来なくなる。けれど、ここで蹲っているわけにもいかない。出勤しなければ。早く、ちゃんと、社会人をやっているところを見せなければ。
 純哉はどうにか息を整えて、再び歩き始めた。職場の近くに家を借りたのはこれが理由だ。こうして母親から連絡が来ても、なんとか仕事場まで辿り着けるように。

 みず純哉の職場は、古くから都内に構えられている由緒正しい私立高校だ。大学を卒業してすぐ、純哉はこの光陽高校に勤め始めた。
 光陽高校はこの辺りでは珍しい少人数制の学校で、それなりに偏差値が高い。いわば、扱いやすい子供が多いのが特徴とも言える。
 ここに職を得られたのは、純哉の人生において数少ない幸運だった。給料はそれほど高くないが、純哉にとって大切なことは、働きやすいこと、そしてこの高校の歴史が古く、母親が認める程度に由緒が正しいという点だ。
 純哉はまだ担任を持っていないので、今のところは自分の担当科目である社会科の授業だけをこなせば済む。日に平均四コマをこなして、平凡な日常を送る。
 それが純哉を辛うじて生かす、代わり映えしない日々だった。

 二年一組の教室に入ると、一番前の席が空いていた。目立つ席のお陰で、誰がいないのかすぐに分かった。真面目だがあまり勉強が得意ではなく、目立たない少女──つるだ。
「鶴見さんは休み?」
 教卓の前の男子生徒に尋ねると、彼は妙な薄ら笑いを浮かべたまま言った。
「いや、休みじゃないです」
 となるとサボりだろうか。いや、光陽高校では殆ど授業をサボる生徒がいない。元々真面目な生徒が多いからだろう。それに、鶴見瑠菜はそんな生徒の中でも特に真面目な──普通の子だった。こうして授業をサボるタイプとは思えない。
「どこに行ったか分かる?」
「ちょっと……分かんないです」
「保健室かな」
 純哉が言うと、抑えられた笑い声が漣のようにざあっと教室を流れていった。一部の生徒達だけが了解している笑いだ。あまり気分の良いものじゃない。保健室、という単語に反応しているらしいが、純哉には当然意味が分からなかった。更に尋ねようとした瞬間、教室の扉が開いた。
「すいません、遅れました」
 鶴見瑠菜の顔は、絵の具でも塗ったかのように白かった。口の端が切れていたり、目の端が充血していたりと、明らかに体調が悪そうだ。成長期の身体がどこもかしこも痛ましいほどに乾いていて、まるで枯れ木のようだと思う。何かに取り憑かれている、という形容がぴったりと当てはまるような有様だった。一体、いつからこうなっていたんだろうか? と、純哉は密かに怯えた。
 彼女が入ってくるなり、今度は教室の空気がぴり、と張りつめたようだった。さっきまでの忍び笑いと違い、今度は警戒の雰囲気も纏っている。
「大丈夫ですか? 体調が悪いなら無理せず──」
「いえ、大丈夫です。授業、受けさせてください」
 鶴見瑠菜が血色の悪い顔に精一杯の笑顔を浮かべて言う。
「……それでは、八十二ページから」
 純哉がそう言うと、また教室から密やかな笑い声が聞こえた。

 何か嫌な予感はしていた。こういう時の純哉の勘は大抵の場合当たるものだ。内臓の奥から吐き気がこみ上げてくる。純哉は必死に耐え、教科書の内容に集中をした。

 純哉の嫌な予感は、当然のように当たった。
「瑞地先生、ちょっと待ってください」
 教室を出るなり、鶴見瑠菜がそう言って追いかけてきた。手を掴まれそうになり、すんでのところで避ける。彼女の顔も蒼白だったが、純哉の顔も負けず劣らず蒼白だった。けれど、鶴見瑠菜はまるで遠慮などせずに言う。
「お話ししたいことがあるんです。少しだけお時間頂けませんか」
「授業の質問? だったら──」
「そうじゃありません」
 鶴見瑠菜が辺りを見回す。廊下は短い休み時間を謳歌する生徒達でいっぱいだった。その内の何人かは、純哉達を遠巻きに観察している。鶴見瑠菜も気まずそうにしている辺り、この状況には自覚的なのだろう。
「お願いします、話を聞いてください」
「わかった、少しだけなら」
 なるべく廊下の端の、人目につきづらいところへと鶴見を誘導する。けれど、まるで羽虫のように、二人を監視する周囲の視線は追い続けていた。
 カーテンの影が顔に掛かった瞬間、鶴見瑠菜は短く言った。
「実は私、妊娠してるんです」
 やっぱりか、と純哉は思った。
 あの笑い声、あの警戒、何かに命を吸われているかのような鶴見瑠菜の身体付き。全部がそうじゃないかと思っていた。だが、信じたくなかった。まさか、光陽高校でもこんなことが起こるなんて。
 純哉の内心の動揺を余所に、鶴見瑠菜は堰を切ったように話し始めた。
「私は産みたいんです。けれど、みんな産むなって言うんです。両親も、産むなら今まで掛けてきたお金を返せって感じで、あ、でもなんかあっちも迷ってるみたいで、命のことだからとか相手のあることだからとか、押したらいけなくはない感じで、」
 最後の辺りは、まともに聞けていたような気がしなかった。純哉が彼女の話を遮ると、鶴見瑠菜は不服そうに顔を歪めた。
「ごめん。そういうことは、誰か他の先生──それこそ保健の先生とかいるだろ? そういう相手に相談してほしい。僕がアドバイス出来ることじゃない」
「瑞地先生なら、ちゃんとお話を聞いてくれるんじゃないかと思ったんです」
「僕は担任じゃないし、鶴見さんのことは授業でのこと以外では知らない。的確なアドバイスが出来るとは思えない」
「でも……男の人の中で、瑞地先生が一番信用出来ると思ったんです。お願いします。私の味方になってください」
 そこで、純哉を救うかのように予鈴が鳴った。縋るような目で見る鶴見瑠菜に「とりあえず、次の授業があるから」と言って足早に廊下を進む。純哉の次のコマは空きだが、果たして鶴見瑠菜がそこまで把握しているだろうか、と思った。
 殆ど逃げ帰るような気分で職員室に向かっている最中、一組の生徒がトイレから出てくるのが見えた。楽しそうに笑いながら囁く声は、純哉の耳によく届いた。
「やっぱりあれ、子供出来てるよね。マジでヤバいじゃん、よりによってウチのクラスでさ」
「子供出来ると変わるよね。だってほら、あの──」
 次いで、かなしま、という名前が聞こえた。子供、うみ、──。
 耐えられず、近くにあった職員用トイレに駆け込む。少しくらい職員室に戻るのが遅れたところで、誰も何も言わないだろう。職員室で嘔吐してしまうよりずっと良いはずだ。

 

(つづく)