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その夜、お父さんは私の髪を乾かし終わった後に、言った。
「お父さんは、羽海が生まれてきた時、すごく嬉しかったんだ」
お父さんはよくこうやって言ってくれる。何度も何度も、ちょっと照れちゃうくらい同じことを言う。私はそれが嬉しいから、やめてほしいとは絶対に言わない。
「羽海が生まれてきたことに感謝して、神様にありがとうって言ったんだ。羽海をこの世に連れてきてくれてありがとう。羽海を守る為だったら、僕は何でもしますって……」
「羽海も生まれてきてよかったよー」
私は何の気無しにそう言ったけれど、お父さんはそれを聞くと、また泣き出してしまった。お父さんは、すごく泣き虫になってしまった。私はもうお父さんを泣かせたくなかったのに。なんだか、不安な気持ちになるから。もう、お父さんとこうやってのんびりすごすことが出来ないような、変な気持ちになるから。
「でも、僕じゃ無理なのかもしれないとも思うんだ。羽海、君は特別な子だよ。きっと君は沢山の人を幸せにする。君は望まれて生まれてきた、特別な子なんだ……」
「羽海は特別? なら、歌手になれる?」
「なれるよ。だって、君より特別な声をした子は他にいないから」
歌って、とお父さんが言う。普段だったら、恥ずかしいから逃げちゃうだろう。でも、私はその通りにした。最近テレビでよく見る歌手の歌を、歌ってみる。私にはまだ上手く歌えない歌だ。なのに、お父さんはこんな私の歌でも、びっくりするくらい沢山褒めてくれる。
そのうちお父さんは泣き出してしまって、何も言わなくなってしまった。どうしたの? って聞いても、お父さんは答えない。歌って、とお父さんが言う。私は歌うしかないから、歌う。
歌っても歌っても、お父さんは全然泣き止まない。私はお父さんを笑顔にしようと思って歌ってるのに、全然上手くいかない。私は海で溺れてるみたいな気持ちで、歌った。
私がお父さんの前で歌うのは、これが最後になった。
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「ウミガラス目当てなら、海鳥センターの方が見れるぞ」
天売島に向かうフェリーの時刻表を見ていると、純哉は新聞を読んでいる男にそうアドバイスされた。
「家族連れなんかも天売島自体に興味が無いんなら、センターに行くからな。展示もあるし、面白いぞ」
「あ……そうなんですか」
「ウミガラスの写真見てたから、ウミガラス目当てなんだと思ったんだが、違うのか」
「その通りなんですけど……」
本来ならこんなお節介は適当に流すところだが、純哉はお礼を言って、素直に北海道海鳥センターへ向かうことにした。家族連れの言葉に嘉奈島親子のことを連想したのもあるし、自然のウミガラスが見られないならせめてウミガラスの展示だけでも見るべきなのではないかと思ったからだ。
あとは、鶴見瑠菜に関する電話がまた来る可能性も考えてのことだった。
一度電話を受けてしまった以上、もう意識しないことは難しかった。そういう意味でも水を差されたな、と純哉は思う。こういうことを気にしてしまうからこそ、深く関わらないようにしていたというのに。スマートフォンに視線を向け、通知が来ていないことを確認してから海鳥センター行きのバスに乗る。
羽幌町の海鳥センターは、純哉が想像しているよりも大きかった。入館料は無料で、中には海鳥に関する数多くの展示があり、ウミガラスの卵やそのものの模型、生息している崖のジオラマなんかもあった。
ジオラマで再現されているのは、この近くに実際に存在する繁殖地のようだ。センターでは、ウミガラスの声を流して誘引しているらしい。ウミガラスはその声を頼りに集まり、仲間を見つけて家族を作る。そうしてここには、数少ないウミガラスが集まっている。
羽幌町は天然のウミガラスが見られる数少ない場所であるが、そうであっても本物のウミガラスを見るのは難しいということだった。実際に見つけるには、海鳥センターのツアーに参加するなどして何度か足を運ばなければいけないらしい。
模型を見るに、ウミガラスは純哉の想像を超えてペンギンに似ていた。ネットで調べた時もカラスとは似ても似つかない容貌に驚いたものだが、現地で撮影されたと思しき写真を見ると、それは更に奇妙な生物に見えた。
船で海に出るツアーに参加すれば、ウミガラスが見られる可能性も高まるということだったが、生憎海が荒れているとのことで船は欠航だった。仕方無く、センターを出て、近くの海辺で目に見える範囲のウミガラスを探す。けれど、そう簡単に見つかるようなものでもなかった。
「ええーっ、ウミガラスいないの、なんでなんでーっ」
近くで小さい男の子が泣いていた。羽幌町に観光に来るのは映画の聖地巡りか、そうでなければ嘉奈島羽海の為だろうと思っていたのだが、あの子はそのどちらでもない、ウミガラスが目的のようだった。珍しいな、と純哉はまさしく他人事のように思う。
「ウミガラスなんかそうそう見られないって言われたじゃん。それなのに来たいって言ったのはあんたでしょ!」
母親らしき人物の叱る声が聞こえる。子供は更に泣きじゃくる。耳障りな泣き声が、純哉の耳に届いた。
子供はよっぽどウミガラスに執心しているのか、どれだけ母親がなだめてもまったく聞き入れようとしない。終いには、地面を踏みつけ始めて、純哉は野次馬目的でその様子を見に行った。
純哉が想像しているよりも、泣いている子供は大きかった。歳の頃は五歳、六歳くらいだろうか。着ている服にも鳥の絵が描いてあるから、きっと普段から鳥が好きなのだろう。
傍で困り果てている母親は、綺麗な顔をしていた。だが、生活に疲れているのか、全体的な印象はやつれており、くすんでいる。昔は美人だったのに、とからかい混じりに言われるような、そんなあからさまな疲れが彼女からは見て取れた。少し周りを見回したが、父親らしき存在はない。
「ちょっと、痛い、お母さん痛いよ。痛いってばー……」
子供は泣いて暴れた挙げ句、母親の足を殴っている。子供の力ながら相当強く殴っているように見えるが、母親は大した抵抗もしていない。「ぶっちゃ駄目」と子供の腕を掴むものの、そうすると今度は火のついたように泣き出し、無茶苦茶に暴れるので諦めたように手を離してしまう。すると、子供はまた母親のことを殴りつけた。
昔から、純哉は子供があまり好きじゃなかった。子供はうるさいし、どう接していいか分からず扱いに困るからだ。
今ではそういった印象に加え、なんだか恐ろしかった。子供がわがままを言うことも、それを親が必死でなだめることも、母親が一人で子供を見なければならないことも、別に珍しいことじゃない。疲弊している母親だって、ありふれているだろう。なのに、今の純哉にはそれが見ていられない。
嘉奈島羽海はこんな子供に振り回される母親にはならないだろう。彼女なら、こんな状況になる前に何かしらの手を打つ。こんな風に子供に関わらない。彼女は輝きを失って、同じようにやつれたりしない。子供を持ったからって、不幸にはならない。──本当にそう言えるだろうか?
自分の思考が嘉奈島羽海に引きずられているような気がして、慌てて振り払う。それに、不幸とはなんだ? あの母親だって、純哉が邪推するほど辛くはないだろう。この状況にうんざりしていようとも、子供のことはやはり可愛くて、癇癪を起こしている時だけ、疲れ果てた顔で子供を見るんだろう。幸せなはずだ、子供がいて。
本当に、そうなのだろうか?
(つづく)