もしこれがもっと面白い話であれば、嗅ぎつけた記者は必ず記事にしただろう。だが、実際は全く面白味が無かった。劣悪な施設に縁切り同然で入所させたのではない。認知症のケアに最適な施設で、父親が最大限に良い生活を出来るように計らっている。こんなものは面白くもなんともない。それなのに、このつまらない記事を出した暁には父親の話をしたがらない嘉奈島羽海から、プライバシーの侵害だとして損害請求を受けるリスクがあるだろう。つまりが、割に合わないのだ。
嘉奈島羽海は父親に何にもしていない、ただの孝行娘だから。
だからこそ逆説的に嘉奈島羽海に、ゴシップめいた酷い話は無いのだと思った。純哉は自分の情報収集能力をそんなに優れたものだとは思っていない。彼女の近くで言葉を交わせることだけが、ただ一つのアドバンテージだ。それ以外の能力は、自分に期待すべきじゃない。
「面白いね。週刊誌の性質を看破する名探偵って。でも確かにその通り、割に合わないことなんてしないもんね、商売ってさ。私が家族に弱みを抱えてたら、絶対突かれてたはずだよね」
「僕は嘉奈島羽海という人間を知りたくて、色んな人に会ったんだ。そうしたら、人の語ることっていうのは、その人にとってメリットがあるかどうかが一番重要なんだと気がついた。君のファンサイトを運営してる管理人に会った。彼女がどうして嘉奈島羽海を語ろうとするのか。それは彼女が嘉奈島羽海の最高の理解者でありたいと思っていたからだ。僕に自分の考察を話して自分の正しさを証明することが、彼女のメリットだった」
「もしかしてなんとか観測所? とかいうやつ? あれ、一回読んだけど、気持ち悪かったなあ……私のインタビューとか読んでてあれだけ的外れなこと言えるんだって思ったな」
最悪なことに、純哉はそれを聞いて薄気味悪い愉悦を抱いた。白瀬知夜の言っていたことが的外れだと本人が断言する愉悦で目の前がくらくらする。この話を嘉奈島羽海からされていることで、純哉は羽海の本心を自分だけが知っているという優越感を覚えている。誰かに話をするということは、現実をその語りで、少しだけ動かす。
「でも愛だったんだと思う。彼女は本物の嘉奈島羽海に会えないから、どうにかして近づこうとした。僕のやっていたことと同じだ」
嘉奈島羽海は否定も肯定もしなかった。つまらなそうに成り行きを聞いているだけ。純哉は続きを語り始めた。
「君の父親が生きていることに思い至る前に、僕は羽幌町にも行った。どんな町だったか覚えてる?」
「悪くない町だったよ。多分旦那なら、子育てには悪くないって言うような町だった」
「映画のロケにも使われて、綺麗な町だと思う」
「二回も使われてるもんね。一本目と二本目は、三十年以上間が空いてるはずなのに、雰囲気がまるでおんなじで面白いよ」
嘉奈島羽海が言ったことを、純哉は知らなかった。二回の映画化。そんなことがあったのか、と今更ながら思う。純哉が知っているのは一本だけだ。もう一本のことは、新しい映画が撮られた時点で忘れ去られたのだろう。
純哉は嘉奈島羽海の反応を窺いながら続ける。
「そこで君達親子のことを知っているという人達に会ったよ。覚えてる? 稗田さんや山根さんのことを」
嘉奈島羽海は厭わしそうに表情を歪め、軽く首を傾げた。この反応も予想通りだった。
「君は分からないと思った。どちらも近所の人だよ。小さい頃に、嘉奈島羽海と関わりがあったって言っている人達だ。山根さんは君と一緒に映画の撮影を見に行ったって言ってたけど」
「映画の撮影があったことは覚えてる。町がざわついてて、学校もその話で持ちきりだったから……。見に行きたかったけど、お父さんに連れていってもらえなくて、数人の子達と一緒に見に行ったんだけど。誰かの親もいたかな……」
「山根さんは君の同級生の親御さんではなかった」
「本当に近所の人? まあ、撮影現場には沢山の人が居たから、その人だっていたんだろうけど」
嘉奈島羽海がつまらなそうに言う。わざと山根のことを隠そうとしているようには見えなかった。この嘘塗れの供述の中で、彼女だけは正しい。予想通りだった。
「山根さんが君を撮影現場に連れて行ったって言ってたよ」
「はあ? いくら近所の人だからって、そんなことする? 私が覚えていないだけかもしれないけど」
「覚えてなくて当然だ。多分、本当に君の方が正しいんだ。君は友達と一緒に撮影現場の見学に行き、途中で山根さんに会って、もしかしたら山根さんと一緒に帰ったのかもしれないが、厳しい父親のところから山根さんの手によって連れ出されたわけじゃない」
山根の語りによって、彼は『嘉奈島羽海という将来のスターの才能を認め、それが正しい方向に向かう手助けをした』という自らが捏造した記憶を純哉に植えつけることが出来た。その記憶は山根にとってとても誇らしいものだったに違いない。
山根が嘉奈島羽海を連れて帰った時、嘉奈島鴻一はしっかりとお礼を言っただろう。その途中で、彼は自分の娘が友達と勝手に撮影現場に行ったことについて叱ったかもしれない。
その当然の叱責が、山根の中では信じられないほど強いものに映った。あるいは、そう改竄された。それによって山根は、嘉奈島鴻一が娘を過剰に束縛しているのだと思い込む。そちらの方が、撮影現場から連れ帰ったことが特別な記憶になるからだ。
山根は後から嘉奈島羽海が歌手となったことを知った。改竄された記憶が、過保護な父親への反発と芸能界への強い憧れを持つ少女の姿を作り出した。
そうして、山根はありとあらゆる相手にその物語を語るようになっていく。嘉奈島羽海の知らない『嘉奈島羽海』のことを作り出す。
さっきまで戸惑っていた嘉奈島羽海は、ようやく全てに合点がいったのか、うんざりしたように溜息を吐いた。その通りだ。よくある話だ。嘉奈島羽海について勝手に語る人間が、地元にもいた。それだけだ。
「稗田さんは、君達親子に家を貸していた家主さんだ。覚えてる?」
「家主のおばさんがいたことは覚えてる。でも、私はあんまり知らない。お父さんが応対してただろうし」
純哉は頷く。それも正しかった。あまりに予想通りで、背筋が寒くなる。家主が借主のところに行くことは、どのくらいの頻度で起こるだろうか。家族ぐるみの付き合いでもなければ、親子の生活を見ることすら殆ど無いだろう。
それでも、稗田は親子のことをあれこれ語り、あまつさえ嘉奈島羽海に問題があったと言った。そんな根拠の無い語りで、純哉から報酬まで得た。
稗田は家主として、知られざる親子の姿を目撃する立場と思い込むようになった。そうして嘉奈島親子の、親子ならあって当たり前の言い合いを、嘉奈島羽海の異常性にすり替えた。
何故そんなことをしたのか? 恐らく彼女は、嘉奈島羽海のことが嫌いだったからだ。嫌いな人間を悪し様に言うことは、何も珍しいことじゃない。
稗田はあの町に縛られているような人間だ。何故彼女があまり好きではなさそうなあの町と家に留まり続けているのかは知らないが、どこか投げやりで困窮した生活の様は、到底幸せには見えなかった。
だからこそ、稗田は羽幌町を出ようとする嘉奈島親子のことがあまり好きではなかったのではないか。そうして、羽幌町を出た親子の間に勝手に不仲を捏造した。彼女がどれだけ好き勝手に話そうが、町を出た嘉奈島親子が知る由は無い。彼らは実際に地元を離れた。その事実だけあれば、稗田は思い通りの話をでっち上げることが出来た。
稗田は彼女の鬱屈に根ざした話を語るだけで、ある程度の報酬も得ることが出来た。それは、山根のものよりもずっと直接的なメリットだ。他の人間が語れないような、元家主でなければ語れないようなことを語っていると思い込めば、それを利用して報酬を得ることに対する罪悪感をかなり軽減してくれたはずだ。
「ちょっとだけ思い出したけど、私はあの人苦手だったな。かなり不安定っていうか、世界で一番不幸、みたいな顔して暗かったから。だからあんまり関わらなかった」
「あの人はずっと羽幌町にいたみたいだよ」
「なんでだろ。さっさと出て行けばよかったのに」
その言葉を誰かが稗田に言えば良かったのではないか、と純哉は思った。
だが、稗田のことを気にしている場合ではなかった。純哉にとって大切なことは、嘉奈島羽海だ。
(つづく)