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(承前)

 嘉奈島羽海がやって来たのは、白瀬知夜と会ったすぐ後だった。

 まだ子供が産まれるには早く、他に用があるとも思えない。だとしたら、羽海が純哉に声を掛けてくる理由なんてないはずだ。

 午前一時に鳴ったインターホンに、最初は出るのを躊躇った。単純に眠かったのもあるし、こんな時間にインターホンを鳴らすような相手は、大抵家を間違えた酔っ払いだ。

 とはいえ、何度か鳴らされたそれは、ただの電子音のはずなのに何故か切実で訴えかけてくるようで、なおかつこちらを脅しつけているような響きもあって、純哉はとうとうモニターを確認した。

『眠り深いタイプ? お父さんになったら大変だね』

 そこには、嘉奈島羽海が立っていた。

 画質も音質も悪いインターホン越しでも、嘉奈島羽海は特別だった。帽子を目深に被り、マスクをしていてもそうと分かるのだから途方もない。純哉は思わず、何度も何度もオートロックを開くボタンを押した。

『別に開けてくれなくていいよ。上がる気無いから』

 暗闇の中で、嘉奈島羽海がさらりと告げる。

『純哉くんが下りてくるんだよ。車はもう回してあるから』

 

 着替えだけして、純哉は外へと飛び出した。こんな夜中に出たら、今日はきっと徹夜で出勤することになるだろう。仕方のないことだし、構わないとも思った。仕事なんか、嘉奈島羽海に比べてどれだけくだらないことだろう。

 待っていた車は前とは違う車種だったけれど、黒い衝立で運転席と後ろの座席が隔てられているところや、スモークガラスで外の景色がまるで見えないところは同じだった。きっと、羽海はこのタイプの車両にしか乗らないのだろう。

「寝起きって良いタイプ?」

「……仕事柄早く出なくちゃいけない時も多いから、悪くはないと思う」

「私は全然駄目なんだ。寝起き凄く悪くて、なるべく朝の仕事は入れないように頼んでたくらい。まあ、それでも入れないといけないのがこの仕事なんだけどさ」

 心底忌々しそうな言葉を受けて、純哉は思わず頭の中で情報を検索する。確か、バラエティか何かで自分の弱点として上げていたのが『寝起きの悪さ』だっただろうか。

『私、本当に朝弱いんですよー。朝だと全然頭回ってなくて、ロケバスに何度頭ぶつけたのか分かんなくて。マネージャーさんも、危なっかしいから私になるべく朝働かせないようにしてるみたいなんです。本当にこれ、結構致命的な弱点なんですよねー』

 クールで他人を簡単に寄せつけない印象を受ける嘉奈島羽海の、ちょっと人間味のある仕草。共感しやすい悩み。人前で晒しても構わないような、他愛のない弱点。

 以前聞いた時と今では、まるで印象が違った。同じことを言っているはずなのに、意図がまるで違うように思えてくる。

 メディアを通して知っている外側の嘉奈島羽海と、今自分が見ている嘉奈島羽海との乖離が純哉を酷く酔わせている。

 しかも、その根本に全く違いが無いことが、余計にそうさせた。嘉奈島羽海が芸能界で生きていく為に作られた単なるキャラクターではなく、ちゃんと今ここにいる人間であると知らされることが恐ろしい。

 こうして顔を合わせて会話をしていると、純哉が一方的に羽海のことを知っている状況を見透かされそうなのも、怖かった。まるで白瀬知夜と純哉が会ったことを、知っているようでもあるからだ。

 自分の知らないところで、純哉が嗅ぎ回っていると知ったら、羽海からの信頼は損なわれるだろうか。それとも、芸能人である彼女はそれを日常と受け入れ、どうとも思わないのだろうか。

 純哉は自分が他人からそうされた時のことを想像してみたが──ぞっとした。自分だけじゃなく、瑞地純礼のことまで暴き立てられるのではないか?

 嗅ぎ回られる側は、暴かれる情報を選べない。

 白瀬知夜と会ったことで、純哉は羽海があんなにまで家族というものを忌避する理由の一端を知ってしまった。彼女の父親の話──ウミガラス、の話。

 国内で野生のウミガラスを見られるのは、北海道の天売島くらいらしい。インターネットで調べると、そんな情報が出てきた。あるいは、福島のとある水族館で展示されているとか。

 公式プロフィール上の嘉奈島羽海は、東京都出身とされている。実際に、純哉と羽海は都内の中学に一緒に通っていたのだ。だが、あくまで純哉が知っているのはそれ以降のことになる。あの学校に来る前、羽海が都内ではなく全く別の場所に住んでいたのだとしたら。

 北海道にしろ福島にしろ、ウミガラスのお陰で、本来の彼女の出身地にぐっと近づく。

 純哉の直感は、彼女は北海道の天売島出身だと告げていた。単に水族館で見たというより、ごく身近にいたウミガラスを好きになるという話の方が納得がいく。

 けれど、これだとまた別の疑問も浮かんでくる。

 天売島の人口は決して多くない。

 彼女が天売島出身だと、今まで明かされていなかったのは何故なのか。

 幼少期の嘉奈島羽海を知っている人間が、誰も彼も秘密を守る口の堅い人々だったのか。それとも、他の理由があるのか。

 他の理由は──彼女の父親に、関係しているのだろうか?

「これってどこに向かってるのかな」

 自分の内心を誤魔化すように、純哉はそれとなく羽海に尋ねた。事実、外が見えず行き先も分からないので不安ではあったのだ。

 果たして、羽海は楽しそうに笑って、言った。

「そちらのやる気を引き出せるような場所に」

 

 車が止まったのは、中目黒にある住宅地だった。

 夜中にもかかわらず、辺りを見回してすぐに、そこが特別な場所だと分かる。何しろ、立ち並ぶ家は一軒一軒が大きく、なおかつ高い塀に囲まれている。庭の様子どころか玄関の様子すら殆ど見えない。

「ここって……」

「いわゆる日本のビバリーヒルズって感じ? いや、さすがにおこがましいか。でも、静かでそこそこ良い場所ではあるよ」

 言いながら、嘉奈島羽海は立ち並ぶ家の一つの前で止まり、純哉をゆっくりと手招きした。その意味に気づいた瞬間、何故だか背筋がぞっとする。

「大丈夫。今日は旦那いないから。いるところに呼んだら、流石にヤバいしね。瑞地くんが侵入して、子供を殺す場所のルームツアーしてあげる」

 羽海が門についたカードリーダーにキーを翳す。ゆっくりと静かに、扉が開いた。

 

(つづく)