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人の心の中なんてわからない。そんな当たり前のことが、純哉の心を蝕んでいた。純哉がどういう気持ちでここに立っているのかを察せられる人間だって、きっとどこにもいない。
純哉は縋るような思いで海の方へと目を向けた。なんでもいいから早く、ウミガラスが出てきてほしい。そうすればあの子供は泣き止むだろう。けれど、どれだけ待ってもウミガラスの影すら見当たらない。
母親が泣き叫ぶ子供を引っ張るようにして、バス停の方へ向かう。一瞬、彼女が純哉を振り返ったような気がした。彼女の顔は純哉の観光を邪魔したことを、心底申し訳なく思っているようだった。そんなことをいちいち申し訳無く思わなくて良いのに。
ウミガラスを見るのは、難しいようだった。
嘉奈島羽海が父親とウミガラスを見たのだとしたら、二人は何度もここに足を運んだのだろう。ここらで繁殖に取り組んでいる──つまりはウミガラスの個体数がそう多くないことを考えたら、相当長い年数をかけて二人はウミガラスと触れ合ったのかもしれない。
そこで純哉は、とあることに気がついた。
外に出ることもままならないくらい、羽海の自由を制限していた過保護な父親は、何度もここまでウミガラスを見に連れてきたのだろうか。いつ来てもまばらに観光客がいる、ウミガラスの観測スポットは父親の許容範囲だったのか?
それに、嘉奈島羽海は父親と仲が悪かったはずだ。仲が悪い親子が、ウミガラスを観測出来るほど一緒に出掛けるだろうか?
ウミガラスを見学するツアーに参加すれば、専門家のガイドがある分見られる可能性は高くなるだろう。でも、そのツアーでさえ、ウミガラスの観測を約束するものじゃない。もしかすると、センターにあったウミガラスの模型か何かを見て、嘉奈島羽海は「好きだ」と言ったのだろうか? 父親が展示を見ながら自分の好きな鳥だと紹介したから、何も考えずに好きだと言った? そちらの方が考えにくい。
だとすれば、稗田の言っていた、父親は普通の人間で、嘉奈島羽海の方が変わった──異常な子供だったとしたらどうだ? そちらの方がまだ、納得がいかなくもない。癇癪持ちの羽海をなだめる為に、彼女の好きなウミガラスを何度も見に連れていったんじゃないか?
それだったら、一応の理屈は通る。だが、そこまで何度も見に行くほどウミガラスが好きであるなら、山根か稗田のどちらかだけでも、羽海がウミガラスを気に入っていたと言及しそうなものだ。二人はどちらもウミガラスには触れていなかった。稗田が言っていた羽海の好きなものはテレビだ。ウミガラスなんて出てこなかった。だから、ウミガラスの観測は父親側の趣味なんだと思っていた。
記憶が朧気になっている可能性は当然ある。人間なんて印象深かったことしか覚えていないものだ。
だが、純哉はふと疑念を抱いた。
あの二人のどちらが正しいのか、父親と娘のどちらが歪んでいるのかだけを考えていたが、もしかすると、本当は──。
考えがまとまらず、純哉は再びセンターの中に戻り、館内をうろうろと歩き回った。
すると、あるものに目が留まった。
ウミガラスの繁殖を支援する募金についての展示だった。
『大切なウミガラスを守る為に、ご支援をお願いします』という文言が書かれており、純哉はつい足を止めた。
本来ならこういったものに募金をするような性質ではなかった。純哉のこれからの人生で、またここにウミガラスを見にくることがあるとも思えない。この先、ウミガラスは永遠に、純哉の人生とは交わらないだろう。
なのに、一口一万円の寄付という文字を、純哉は食い入るように見つめていた。寄付をすれば、名簿に名前が載る他、ウミガラスに関する記念品がもらえるらしい。
名簿は分厚いファイルとして無造作に置かれていた。表紙が一番劣化しているものをめくると、中身は三十年ほど前のものだった。名簿自体は傍に置いてあるパソコンからでも検索出来るようになっているらしく、わざわざこの分厚いファイルの中から自分の名前を探さなくてもいいようになっていた。
純哉は、弾かれたようにパソコンに飛びついた。震える指で『嘉奈島』と検索する。
果たして、嘉奈島〝鴻一〟の名前はすぐに検索に上がってきた。
嘉奈島という名字はそう多いものではない。ましてや羽幌町の海鳥センターで寄付を行った『嘉奈島』だ。これを嘉奈島羽海と結びつけないことは難しかった。
名簿には寄付の金額と、寄付をした年が書かれていた。それを見るに、嘉奈島鴻一は三回もウミガラスの繁殖に募金をしていた。
十六年前に一回、十年前に一回、七年前に一回。
嘉奈島羽海の年齢を計算する。彼女は純哉と同じ二十四歳だ。七年前は、高校二年生の年齢である。
嘉奈島羽海は中学生に上がった頃、父親が事業に失敗して、本州に行った。稗田の推測によれば、嘉奈島羽海を親戚に押しつけるために連れて行った頃──。
計算が合わなかった。父親は寄付を行っているこの時点ではもう事業に失敗し、本州へ渡っているはずである。そうなると、金銭的にはかなり厳しかったはずだ。ウミガラスの保護に金を払っている場合じゃない。
ということは、嘉奈島親子が本州に渡ったのは金銭面が理由ではなかったことになる。事業に失敗したという話も本当かどうか怪しい。というより、嘘の可能性が高いだろう。
この町にいるかつての顔見知りが、嘉奈島親子のその後を知らずに憶測で適当なことを言ったのだ。一体どうして? 理由は、簡単に察せられた。
誰も、嘉奈島親子がそれでどう思われようがどうでもいいからだ。
だから、自分が知っている情報を適当に組み合わせて、憶測で物を言ったのだろう。目の前の純哉を納得させられれば、それでいいだけのものだったから。
山根と稗田がどちらも正しい部分と間違っている部分を併せ持ったものなのであれば、自分は何をどうやって信じればいいのだろうか。一体何が、嘉奈島羽海に家族を諦めさせる原因になったのか、どうすれば判別出来る?
何が嘉奈島親子の亀裂になった? 今度はどこに行けば、嘉奈島羽海のことを知ることが出来る? 誰に聞けば──。
近くで泣き声が聞こえた。純哉はそれを幻聴だと思った。
だが、足に鈍い痛みが走って、幻聴ではないと知った。純哉の足を、センターの外で見た子供がひたすらにぶっている。想像より容赦の無い強さに、純哉は母親の苦労を思った。
子供は何かを訴えかけるように泣き続けている。辺りを見たが、母親の姿は無かった。どうも迷子になってしまったらしい。
「お母さんとはぐれたの? 最後にお母さんと一緒だったのはどこ?」
純哉はしゃがんで子供に目を合わせたが、返事は無かった。子供は泣きながら、今度は純哉の腕を殴ってきた。
いくら幼いとはいえ、知らない人間のことを無遠慮に殴ってくるのはあまり褒められた行いじゃない。母親も止めていたが、恐らくは一度習慣づいてしまってなかなかやめられないのだろう。この悪癖で、この子も母親も相当に困っていることが察せられた。
「ほら、ぶたないで……。お母さんも駄目って言っていたでしょう? 人のことをぶったらいけないよ」
純哉は優しく語りかけたが、子供はまるで聞く耳を持たなかった。むしろそうして諭してくる純哉を憎しみのこもった目で見つめ、不満を露わにしている。到底助けを求めているようには思えなかった。それでも、この子供は確かに困っているのだろうと、理解出来てしまうのが悔しい。
「迷子になっちゃったんでしょう。僕がセンターの人のところへ……いや、お母さんのところに連れて行ってあげるから──」
望んでいることがようやく分かったのか、と言わんばかりに、子供が一つ大きく頷いた。要求が通ったおかげか、純哉を殴る手も止まっている。
「それじゃあ、僕はお母さんを探すね。センターの人にまずは聞いてもいいかな?」
頼られたとはいえ、何の関係も無い大人が子供を連れ歩いていたら流石に怪しまれるだろう。すぐにセンターの人に引き渡した方がいい。純哉は子供のことを手招きするような形で、とりあえず歩かせる。不服そうではあったが、子供は素直についてきた。
しかし、センターの職員はなかなか見つからなかった。団体客向けに、センターの外で説明でもしているのかもしれない。仕方無く、近くにいるであろう母親の方を探す。母親も子供を探しているだろうから、すぐに鉢合わせるだろう。
だが、センター内をいくら歩き回っても、母親の姿は見つからなかった。子供を呼ぶ声すらしない。こんな小さい子が迷子になっていたら、母親はきっと半狂乱になって探しているだろう。
普通だったら。
血が冷えた。
もしかしたら、あの母親はこの子を置いて逃げたのかもしれない。
(つづく)