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「家族の話をしなかったのは、ブランディングの為じゃない。それだけじゃないんだ。家族の話をするような人間は、どうしたって自分の今後の家族の話を聞かれるから。家族を持ちたいと思うか。子供を産みたいと思うか、とか直接的な言葉で聞かれることは今のご時世無いだろうけど、どうしたって言葉を変えて、その質問が私を試す」

 納得した。ただのブランディングだと言われるより、よほど嘉奈島羽海に相応しい理由だ。

「そうしたら、私は答えなくちゃいけなくなる。パートナーと二人で暮らす、理想の生活の話を。子供について考える余地を与えたくない私には、それは耐え難いことだった」

 海の底にいるかのような嘉奈島羽海が、純哉を見上げていた。光の差さない暗い場所で、嘉奈島羽海がじっと問う。

「子供って、どうして無条件にいいものとされてるんだろう。母親は、子供に愛情を持つものだとされているんだろう。私は自分のお腹にいる子供が、死んでほしくてたまらないよ。こんなことを言ったら、酷い人間だと思われるって分かっている。私の歌なんか誰も聞かなくなる」

「そんなこと──」

 ない、とは絶対に言えなかった。当然だ。嘉奈島羽海のそんな発言を聞いて、真正面から擁護出来る人間は少ない。

 彼女はアーティストだが、事務所と契約して働いている勤め人でもある。嘉奈島羽海のその発言を聞いて、スポンサーがつくだろうか? つくはずがない! だから、嘉奈島羽海は絶対に言えない。

 押し黙った純哉を、嘉奈島羽海は許さなかった。

「ねえ瑞地くん、正論を言ってよ」

 彼女が求めているので、純哉は忌憚なく言った。

「産みたくないなら抵抗するべきだった。パートナーと話し合うべきだった。それが出来なかったのは君の責任だ。勝手な言い分で子供の命を奪うなんて信じられない。全く理解出来ない。どうしてそんなに自分勝手でいられるんだ」

 言葉にはまるで身が伴わず、純哉は自分の後ろから声が響いているかのような感覚に襲われた。ただ、この声は的外れなんかじゃなかった。もし嘉奈島羽海が世間に同じ事を言ったら、この声と同じようなことを投げかけられるだろう。

「何かトラウマがあるなら理解出来る。何がそんなことを言わせるんだ? 何か親子関係に問題があったに違いない。子供を苦手になる何かが」

 そこまで言うと、嘉奈島羽海は満足そうに頷いた。

「それがあったら、私の人生は完璧だった」

 嘉奈島羽海はけらけらと楽しそうに笑った。

「免罪符が無いんだ。世間を納得させられるちゃんとした理由が無い。あればよかったのに、捏造なんか出来ないよ。父親にも旦那にも濡れ衣を着せたくないから、変な嘘は吐けなかった。だから、逃げるしかなかった。旦那と別れるのも嫌で、今の生活を手放したくないからって理由で、完全に間違った選択を取ってしまった。後悔してる。もし戻れたら、こんなことしない。別れてでもいい。子供のことだけは絶対に拒絶する」

 身重な嘉奈島羽海の中で、舌だけは以前と変わらずに自由だった。ぐるぐる回る舌が、純哉に必死で助けを求めている。

「それでも嫌なんだ。産みたくない。私は私の血を引いた子供なんてほしくない。ずっと旦那と二人でいたいし、これからずっと、子供のことを考える人生なんて送りたくない。どうしてこんなに嫌なのか理由は分からない。正しい答えが見つからないんだ。他の人を納得させる理由をどこかに見つけなきゃ」

「そんなものなかった。僕だって探そうとしたんだ」

「じゃあ私、今どうしたらいいの!」

 嘉奈島羽海が叫び声を上げた。もし近くに赤ん坊が寝ていたら、確実に起きて泣き出すだろう声だ。だが、嘉奈島羽海の腹に宿る赤ん坊は、泣き出しもせず沈黙している。

 嘉奈島羽海の目は暗闇の中でも分かるくらい充血しているのに、涙は一滴も零れていなかった。本当は泣き出したいのだろうに、多分彼女はそれが出来るほど器用じゃない。パートナーの前でさえ、嘉奈島羽海はきっと泣いたりしないだろう。

 ややあって、純哉はゆっくりと口を開いた。

「昔、姉が死んだんだ」

 かつて嘉奈島羽海に言い当てられたことを、純哉は自分から口にした。

「酷い男と付き合っていて、その男の子供が出来れば責任を取って結婚してもらえるだろうと思っていたのに、その為にそいつとは違う男の子供まで作ったんだろうに、そうならなくて死んだんだ。僕は、……僕は、子供の命をなんだと思ってるんだよ、と思った。そんな風にするんなら、命を宿すべきじゃなかった。一人で勝手に死んでくれたら」

「子供を、博打に使ったんだね。求めるものが手に入るかどうかの」

 純哉は頷いた。

 純礼が死んだ後のことに、純哉は一切関わらなかった。墓参りすら一度も行ったことがない。純礼の子供は、供養されたのだろうか。あの哀れな子供を存在しなかったことにすることくらい、両親だったらやりそうだと思った。

「君のやろうとしていることは、純礼がかつてやろうとしてたことと同じだ。一つの命を自分の為に勝手に使った。到底許されることじゃない」

「それでも瑞地くんは私のことを救ってくれるの」

 嘉奈島羽海が言った。

 純哉は、少し間を置いてから、頷いた。

 何故なら、純哉はどうしようもない姉に、理解したくもなかった純礼に、それでも生きていてほしかったからだ。

 純礼の代わりに嘉奈島羽海のことを救いたいと思ったからだ。

 

 

 嘉奈島羽海は、純哉が思っているような人間ではなかった。けれど、純哉は彼女に会えて心から良かったと思った。

 決別するなら、純哉は連絡先を消すだけで良かった。使っているスマートフォンを投げ捨てて、全部を忘れて嘉奈島羽海からの連絡が届かないようにすればよかった。

 けれど、純哉はそうしなかった。

 純哉はただ彼女からの連絡を待った。

 嘉奈島羽海の出産は酷く難産だったようだ。十五時間以上続く陣痛の末に、嘉奈島羽海はようやく女の子を出産した。それら一連のことを、純哉はSNSで知った。

 

『大変でしたが、無事に女の子を出産しました! 産まれてきてくれてありがとう』

 

 およそ彼女が投稿するはずのない文面で、純哉は少しだけ笑ってしまった。これを代筆したのはマネージャーなのか、それとも子供のことを心待ちにしている夫の蓮司だろうか。お腹の中の子供に生活を乗っ取られていた彼女が、今はSNSのアカウントを乗っ取られているところを想像し、純哉の気分が悪くなる。

 その投稿には既に沢山のお祝いコメントが寄せられていた。

『おめでとうございます! 自分のことのように嬉しいです!』『女の子ですか、いいですね。きっと羽海さんに似るでしょうね』『まだ気が早いかもしれませんが、親子共演なんかも見られたら嬉しいですね。おめでとうございます!』『嘉奈島羽海が母親になるところなんて想像出来なかった。でも本当におめでとう』『お母さんになって、更に表現の幅が広がった嘉奈島羽海の姿を楽しみにしています』『復帰ライブも楽しみです。母子共に健康であることに感謝!』

 

 近頃のSNSでは、攻撃的な投稿は初めから表示されないようになっている。純哉のような悪趣味で攻撃的な投稿をしているアカウントは、パッと見ただけだと見つけられなかった。ざっと眺めているうちに『嘉奈島羽海観測所』を運営している白瀬知夜が『子育てが辛くなったら周りの人に頼ってね』と、本当に何にもならない投稿を寄せていた。

 報告の投稿には嘉奈島羽海の娘の写真も載っていた。産まれたての赤ん坊に、彼女の面影なんてあるはずもないと思った。それなのに、純哉はその赤い肉の塊が、確かに嘉奈島羽海と血の繋がった人間であることが分かった。他の子供と紛れていても、純哉は彼女のことを正確に判別出来るだろう。

 純哉はかつて嘉奈島羽海を誹謗中傷していたアカウントで「おめでとう」と送った。彼女を少しだけ傷つけてやりたかった。けれど、あまりにも膨大なリプライは、きっと純哉の悪意を覆い隠してしまうだろうし、嘉奈島羽海にはもうSNSを見る余裕もない。

 

 苦しみを超えて出産したことで、嘉奈島羽海に母親としての愛情が芽生えるところも想像しなくはなかった。そうしたら、嘉奈島羽海は一生純哉に連絡をせず、そのまま娘と共に幸せに暮らすだろう。それならそれで、構わなかった。

 

 だが、子供が生まれてから二週間ほど経った頃、純哉は嘉奈島羽海から連絡を受けた。

 

『今日は旦那がいないから』

 

 メッセージはそれだけだった。純哉は家を出る支度を始めた。

 

 

(つづく)