「私のこと覚えてる?」
覚えていないはずがない。茶色がかった目立つ髪の色。やや細く横に大きい、色素の薄い目。独特の存在感を放つ顔立ちは、テレビで観るのと、あるいは──学生時代とまるで変わらなかった。
「ま、覚えてなきゃあんなことしないか」
その言葉に、純哉の顔色がさっと青くなった。いっそこのまま逃げ出してしまえば、と思うのに、動けない。何も出来ずにただ羽海を見つめる純哉の前で、地獄行きの扉が開いた。
「乗りなよ。その為にこんなところまで来たんだ。私も今色々と動きづらいからさ、誰にも見られないうちに済ませたい」
果たして、純哉はその車に乗った。
車内は純哉が想像しているよりずっと広かった。電車のように長椅子が向かい合う形になっていて、純哉は容赦なく嘉奈島羽海と向き合わされた。運転席と後部座席は黒い衝立で隔てられており、余程大声を出さない限り運転席には聞こえないだろう。そのことが、酷く恐ろしかった。
車が走り出し、いよいよ純哉は逃げ出せなかった。どこに連れて行かれるのかという不安もあったが、何より羽海と密室内で二人きりなのが怖かった。
「そんなに緊張しなくていいよ。とって喰おうってわけじゃないんだから」
羽海は純哉の内心を知らずに、けらけらと笑った。彼女の腹はもう既に大きく膨らみ始めており、純哉は思わず妊娠からの日数を数えそうになってしまった。
連想したのは鶴見瑠菜のことだった。彼女の腹も、すぐにこうなるのだろうか。
「六ヶ月になるかな」
純哉の視線に気がついたのか、羽海が言った。
「半年しか経ってないのに、もうこんなに大きいんだよね。気持ち悪い」
純哉は何も言えなかった。羽海の言葉をただじっと待つことしか出来ない。
ややあって、羽海が言った。
「『お腹の子供ごと殺してやりたい』」
その言葉に、純哉はびくりと身体を震わせる。彼女が純哉のところに来るとしたら、理由はそれでしかあり得なかった。けれど本当に──そうだったとは。純哉は息を呑んだ。
「とんでもないこと書くな、と思ったよ。まあ、私のアカウントにそういうこと書く人間は大勢いたんだけどさ。にしても、もう少しオブラートに包むとか、遠回しに言うとか、そういうのってあるでしょ」
まるで採点でも行っているかのようだった。純哉が生徒の答えに対して口を出している時とまるで口調が同じである。嘉奈島羽海は傷ついた様子も無く、純哉の過去の投稿を添削している。
「そのくらい傷ついたのかな。ショック受けた? いやあ、ごめんね。私だって、瑞地くんのこと傷つけたいわけじゃなかったよ。あ、瑞地くんでいい?」
「そんな──それは、」
「それとも、M0432Jiって呼んだ方がいい? このアカウント名、何? 暗号?」
もう駄目だ、と純哉は思った。羽海には全てがバレてしまっている。純哉が匿名アカウントで彼女への誹謗中傷を行っていたことが──あまつさえその中で『子供ごと殺してやりたい』と、犯行予告のようなことを書いていたということが。
誹謗中傷はする人間の方が悪い。そんなことをやったところで何の意味も無い。好きだった嘉奈島羽海は戻ってこない。──そのことを理解して、理解しているにも拘わらず、純哉はやめられなかった。
そして今、純哉は彼女の前に最悪の形で引き出されることになったのだ。
「開示請求って知ってる? 誹謗中傷をしてきた人間のアカウントが誰のものか明らかにしてもらうことなんだけど。多少お金は掛かるけど、弁護士に任せるだけだから結構楽に出来ちゃうんだよね。それで、例の書き込みを開示請求してみたわけ。当然、酷い投稿だからすぐに開示が通ったんだよ。それで、名前を見てびっくりした。あれ、これ瑞地くんじゃん、って。そこから興信所使って、今どこにいるかを調べて──」
使っているプロバイダから開示請求に関する手紙が届いた時から、こうなることは分かっていた。純哉はどうにか代理人の弁護士と示談交渉をして相応の金額を払うのだろうと覚悟していた。
でもまさか、自分の名前を覚えていた嘉奈島羽海が、自分に会いにくるだなんて思いもしなかった。そもそも、羽海が純哉の名前を覚えていることすら、純哉は想像もしていなかった。
「覚えてたんだ」
「名前だけね。記憶力がいいだけだよ」
羽海の言い方は、純哉に釘を刺しているようだった。実際にそうしているのだろう。純哉の方も、羽海の記憶の中に取り立てて残っているとは思っていない。
「何年ぶり? 今お互いに二十四だから……十年前? うわ、懐かしいね」
懐かしさなんか少しも感じられなかった。純哉にとっては、地獄でしかなかった中学校時代だ。
その中学校時代に、純哉は嘉奈島羽海と同じクラスに所属していた。神田南中学校二年四組。尤も、話したことは殆ど無かった。その内容も事務的なものしかなく、印象に残っている会話はまるで無い。
あの頃の純哉は嘉奈島羽海のことを全く意識したことが無かった。純哉は自分のことであまりにも必死だったし、クラスメイトの誰をも気にしている余裕が無かった。
それでも、嘉奈島羽海の輝きは記憶の端へとこびりつき、今もなお純哉の心に居座り続けていた。テレビで初めて嘉奈島羽海のことを見た時、純哉は酷く納得したものだった。つまり彼女は、ここに至る為に生きてきた人間だったのか、と。
「瑞地くんさ、南中の人とは他に誰か会ってる?」
「……会ってない」
「瑞地くんってあんまり人気者ってタイプでもないもんね。いやまあ、私も会ってないけど」
「でも、嘉奈島さんを知ってる人は大勢いる」
「その通り。瑞地くんもその一人」
はっきりと言われ、純哉は気まずさに口を噤んだ。その通りだ。在学時代にはろくに話をしたこともないくせに、有名人になった同級生を一方的に意識して、挙げ句の果てには誹謗中傷をした。最早おぞましくもあった。たとえ道路に叩きつけられて死ぬことになっても、今すぐ純哉は車から飛び出してしまいたかった。
「なんであんなこと書いたの? 私のこと昔から嫌いだった?」
「……そんなことは……」
「じゃあずっと好きだったとか? そういう人の方が今回のことでキレて悪口送ってきてるもんね」
純哉の顔がさっと赤くなった。それと同時に、全身が嫌な汗でじっとりと濡れる。恥ずかしかったわけじゃない。ただただ悲しくて、消えたくなる。
「……そうじゃないのか。じゃあ一体……どういうこと? 普通こういうのって、私に何か感じてなきゃ出てこない気持ちじゃないの? 単に妊娠してる女が嫌い?」
羽海は明らかに理由を知りたがっていた。誹謗中傷の多くは、単なる短絡的な憂さ晴らしだ。理由なんて、むしゃくしゃするところにたまたま的があったから、というものであることも多い。
それなのに敢えて問い質すのは、これを尋ねることが効果的な罰になると思っているからなのだろうか。それとも単なる好奇心なのか。
どちらにせよ、答えたくはなかった。純哉は顔を逸らしながら、どうにか尋ねる。
「どうして……わざわざ僕の書き込みを……」
数多の誹謗中傷犯が言うような情けない言葉に対し、嘉奈島羽海はあっさりと返した。
「何? まさか私がわざわざ瑞地くんの書き込みを狙って開示請求したんだろうって? そんなこと出来るわけないし、自意識過剰でしょ」
「違う……けど、こんなことがあるとは思えなくて」
「偶然だよ。いや、偶然だけど、私はそういうことに対してすごく運が良いんだ。自分の望むものを引き当てる力がある──そのくらいじゃないとやっていけない業界にいたしね」
「望むもの?」
純哉が乾いた声で尋ねると、羽海はじっと値踏みするような目で純哉のことを見た。その目には覚えがあった。
中学の頃も、嘉奈島羽海は同じような目で人を見ていた。彼女にとって、他人は自分にとって価値があるか、そうでないかの二択だった。純哉のような価値の無い人間は、羽海の世界には存在しないも同然だったはずである。
結局、羽海は純哉の疑問には答えなかった。代わりに、いかにも楽しそうな声で続ける。
「こんな形で再会するなんて、本当に人生ってわからないものだよね。瑞地くん、将来の夢なんだった? 望むものになれたかな」
話が全く見えなかった。誹謗中傷。将来の夢。人生。望むもの。全てが純哉にとって耐え難い話題だった。一体、嘉奈島羽海は何がしたくて純哉に会いに来たのか。どうして話を聞こうなんて思ったのか。
純哉の精神は限界だった。どうしてこうも全てが上手くいかないのか。
「一体、何が目的なんですか。なんでこんなことを言いに来たんですか。おかしいじゃないですか。裁判なら──ちゃんと弁護士を通して」
「今見てもこの投稿酷いなあ。先生やってるんでしょ? なのに、こんな酷いこと……普通の会社ならいざ知らず、先生ならクビになっちゃうんじゃないの?」
「わざわざそんなことを言う意味が……分からないです。あの書き込みは、本当に申し訳ないと思っています。あの時期、精神的に追い込まれていて、自分でもどうしてあんなことをしたのかと後悔してるんです」
「折角立派な先生になれたのに、職を失うのは自業自得だけど可哀想だね」
「教師なんか、好きでやってると思うのか」
思わず、その言葉が口を衝いて出た。しまった、と思った時にはもう遅く、羽海が呆気に取られたように純哉のことを見つめている。
失敗ばかりの人生の中で、恐らくはこれが最大のものだった。こんなことを言うつもりじゃなかった。あんなことを書くつもりじゃなかった。けれど、もう全てが遅い。
けれど、意外にも羽海は純哉の言葉を徒に突くようなことはしてこなかった。ただ驚きに目を丸くし、じっと純哉のことを見つめているだけだ。
ややあって、羽海は言った。
「好きで選んでやっていることなんて、人生には殆ど無いしね、悲しいことに」
その声は低く平坦で、およそ嘉奈島羽海らしいものではなかった。
羽海のキャリアは、他の人間が羨むような華々しいものだったはずだ。高校在学中にオーディションを受け、審査員からの満場一致で受賞を果たし、歴代最高の才能と称されたのが彼女である。それから、一躍スターダムにのし上がり、街には羽海の歌声が溢れた。
(つづく)