そして、今彼女は好きな相手の子供を妊娠している。
そんな彼女が、一体何を選べなかったというのだろうか。純哉にはまるで分からなかった。嘉奈島羽海は、瑞地純哉とはあまりにも違っていた。前に座っているだけで、蹲ってしまいそうなほどに。
そんな純哉のことを見つめながら、羽海は優しく自分の腹を撫でていた。その手つきはあまりに優しく、純哉は一瞬、全てを忘れてそれに見入った。彼女の顔は、もうすっかり母親のようになっている──と、純哉は思った。
「こんなに小さな状態なのに、もうお腹蹴るんだよ。凄いよね。生きてるって感じがする」
彼女はそう言って笑い、改めて純哉のことを見つめた。
「『お腹の子供ごと殺してやりたい』そう思ってくれてるんだよね」
純哉は逃げ出すことが出来なかった。車は既に走り出しており、逃げ出す場所など何処にも無かった。
「半年後、産まれてきた私の子供を殺してほしい」
果たして、嘉奈島羽海はそう言った。
想像もしていなかった言葉だった。純哉は何も言えず、言葉にしようと思っても、そこからは浅い息が漏れるばかりだ。
「……なん、で、」
「なんでって言われても困るな。単純に、子供が欲しくないからだよ。産みたくない。要らない。私の人生には必要無い。あれ、これもちゃんとインタビューで言ったんだけどな。そこの辺り、読んでない?」
「読んだ、だから、……だから僕は、僕のような人間は、」
「だからだよ。要らないって言ったじゃん」
そこで、純哉はようやく気がついた。あのインタビューは全くの嘘を言っていたわけじゃない。あれにもちゃんと、嘉奈島羽海の本音が含まれていたのだ。子供は欲しくない。母親になれる気がしない。けれど、結婚する気にはなった。恋愛は出来た。
ただ、子供が要らないという部分だけは、変わらなかった。
嘉奈島羽海の目は真剣だった。これが悪趣味な冗談ではないことを、他ならぬ純哉に教え込んでいる。
「私はね、蓮司のことを本当に好きなの」
ともすれば嘘臭くなってしまいそうな言葉を、嘉奈島羽海は躊躇うことなく口にした。
「私は今まで、誰かを愛することなんて無いんだと思ってた。けれど、末野蓮司という人間に出会って、自分でも誰かと生きる人生を選べるんじゃないかと思えるようになった。私は蓮司と生き、それで死にたい。でも一つ、問題があった」
問題の詳細なんて、もうとっくに分かっていた。なのに敢えて、純哉は言う。
「問題って……何?」
「蓮司が私との子供を望み、そこだけは決して譲らなかったこと」
羽海の言葉は先にも増して平坦で、それこそ他愛ない工事の困難でも語るかのような口調だった。けれど、切実なことだけはちゃんと伝わってきた。彼女は本気で困っていて、救いを求めていた。
「随分喧嘩はしたんだ。でも、私達はお互いに全く譲らなかった。最終的に、蓮司は私と別れるとまで言ったんだよ。仕方ないと思う。蓮司の幸福には、子供がどうしても必要だったから。私も最初は蓮司のことを諦めようとしたんだ。なのに、どうしても諦めきれなかった」
この期に及んでもなお、純哉は嘉奈島羽海の奇妙な説得力に感心してしまっていた。異常なことを言っているはずなのに、純哉にとってまるで理解出来ない言葉のはずなのに、嘉奈島羽海が語るだけで、それはどうにも納得出来るものに感じられてしまう。
嘉奈島羽海にとっては、全てが自分中心に回っているのだ。だから、末野蓮司とのおよそ埋まらないはずの溝でさえ、乗り越えられる困難に数えようとする。
「それで──結局、子供を作るようになった。嫌で嫌でたまらなかったけれど誤魔化すことは案外難しかった。蓮司は嬉しそうにしていたし、あれこれ協力してくれた。そうなると、早かったよ。ツアーが終わると同時に、妊娠が発覚した」
「……そんなの間違ってる。君は……話し合いをするべきだった。そこだけは絶対に譲っちゃいけなかった。どうして、そんな……」
「妊娠してみるまで、本当に自分が適応出来ないのか分からなかったのもある」
嘉奈島羽海がぽつりと言う。
「案外、魔法のように母性が湧いてきて、お腹の中の子供が好きになれるんじゃないかと思ったけれど、そうはならなかった。そうなれば、全てが上手くいったのに」
嘉奈島羽海の言葉は安直で、しかも酷く子供っぽかった。お伽噺染みてすらいる。純哉はもう、何を言えばいいのかとも思えなかった。どんな言葉を口にしたところで、嘉奈島羽海には全く届かないだろう。
「だから、子供には死んでもらわなくちゃならなくなった。私は、母親にはなれない」
きっぱりと嘉奈島羽海が言う。全く関係が無いはずの純哉が、何故だか突き放されたような気分になった。
「……けど、死んでほしいとか……殺す理由は無いはずだ。何も殺さなくても……」
「いいや、真面目に聞いていたら分かるはず。子供を望む夫、望まない妻。表向きに妻は、子育てに前向きになって子供を産むことに承諾したことになってる。でも、本心はそうじゃない。望まれている子供だということになっているから、中絶は出来ない。そうなったらつまり、子供の死は私の意思が介在しない死でなくちゃならないわけだ」
確かに、理屈は通っていた。──嘉奈島羽海が何を求めているかが、痛いほど分かる。全てにおいて、嘉奈島羽海に全く責任のない死。もたらされた不幸。
「……だから子供を殺してほしいって、そんなの馬鹿げてる」
「でも、逆に男のパターンだったら案外こういうことよくあるでしょ? 結婚はしたかったけど子供は要らないとか、子育てに全く興味無いとか。男女差によらないってことだよ」
「だからって、産まれてきた子供をそんな理由で殺すなんて間違ってるはずだ」
「確かに間違ってるだろうけど、わざわざ『お腹の子供ごと殺してやりたい』って書いてくるような人間に言われたくはないな」
嘉奈島羽海の口調は冗談めかしていたが、はっきりとした非難の色があった。
純哉は何も反論が出来なかった。
「……私はもう世間に知られてしまった。妊娠していることも、蓮司のことも、隠しておきたいことは全て晒された。これから私は、子供を産まなくちゃならない。これはもう決まっていることだから。施設に預けることも、中絶をすることも、もう選択肢には無い。あとは自然流産を装うというのもあるかな。ただ、それは私の身体に負担がある。なら、産まれた後に、瑞地くんが殺しに来てくれればいい」
自分が書いた『殺す』という言葉が、血と肉を持って受胎したような感覚がした。ぐらりと頭の奥が揺れ、何も考えられなくなる。嘉奈島羽海の、子供を殺す? あの仲睦まじく、幸せそうな会見がフラッシュバックする。あれを見た時、純哉は正確には何を考えたのだったか。
「妊娠と出産が赦せなかった過激なファンが、自宅に侵入して子供を攫って殺してしまう。私はそのトラウマで、二度と子供を産もうとは思えなくなる。蓮司だって、これで納得すると思うよ。『理由』が好きな人だから」
「世間を納得させる為に……誘拐殺人事件をでっちあげるつもりなのか」
嘉奈島羽海が頷く。
純哉は、羽海には分からないように深く静かに息を吐いた。シートが汚れてしまうんじゃないかと心配してしまうほどに、純哉の全身はじっとりと汗で濡れていた。
最初から最後まで、純哉には理解出来なかった。この話をされた十人に十人が、嘉奈島羽海は精神に異常をきたしていると見做すだろう。嘉奈島羽海は重度のマタニティブルーを患っていて、彼女に必要なのは殺人の委託ではなくカウンセリングだと判断するに違いない。
だが、それで片付けるにしては、あまりにも羽海の目が静かだった。これが一瞬の嵐では無く、彼女の中で何度も検討した──替わりの利かない選択肢であると納得させる凪いだ目。言っていることは異常なのに、口調は淀みなく自信に満ちていた。
嘉奈島羽海という人間が、純哉はまるで分からず、それが故に呑み込まれてしまう。
一体──自分はどうするべきなのか。
「それで、瑞地くんは協力してくれる?」
「……そんな話に乗ると思うのか」
「ああ、やっぱり乗らないか。仕方ない。断られる可能性も考えてたしね」
純哉が躊躇いを見せると、羽海は案外あっさりと引いた。つまらなそうに窓に頭を預け、また値踏みするような目を純哉に向ける。
「まあ、無理だっていうなら仕方ない。ああ、大丈夫。別に断ったところで裁判を起こしたりしないよ。ちゃんと取り下げる。ここで話を聞いてくれたことで示談成立ってことで」
「それは……いや、ありがたいけど、僕は、」
「もう連絡することは無いよ。会いにも来ないから安心して。あ、この縁でライブのチケット融通するってこともないから、そこはあんまり期待しないで」
冗談めかして羽海が笑う。その言葉に、今までの会話で一番純哉の血の気が引いた。どうしてだか分からない。延長線上にそういった日常の些事が置かれていることが、あまりにも。
「それじゃあ、適当なところで降ろすから、最寄り駅教えてくれる? ああでも、開示請求した時に住所も載ってたんだけどな。案外覚えてられなくて──」
「待ってくれ」
「何を待つの?」
思わず言ってしまった言葉に、羽海はどこまでも冷たい声を投げかけた。
この車を降りたくなかった。
この状態の嘉奈島羽海を放っておくのが恐ろしいから? 嘉奈島羽海が同じことをまた誰かに依頼すると思っていて、それを止めたいから? 嘉奈島羽海ともっと話していたいから? もう二度と嘉奈島羽海とこうして会えないのが嫌だから?
それとも──本当に、嘉奈島羽海の子供を殺したいと思っているからなのか。
全ての気持ちが綯い交ぜになり、純哉自身にもどれが真実なのか見当も付かなかった。純哉は、ここで初めてスマートフォンのことを思い出した。ポケットに仕舞い込まれ、今もなお純哉を呼んでいる声が頭の中で響く。
純哉にはもう人を殺した経験があった。
純哉はきっと、他の誰より上手くやれるだろう。
「さっきさ、なんで瑞地くんの投稿を開示したのかって聞いてきたよね」
純哉の内心を見透かすように、嘉奈島羽海が言った。
「子供を殺すって書き込みは他にも沢山あって、もっと最悪なことを言っている人も沢山いた。私がお願いしたら、何でも言うことを聞いてくれそうな人もいた。それでも瑞地くんの投稿を選んだのは──」
嘉奈島羽海が笑った。
「あの投稿には、本物の殺意が宿っているような気がしたから」
その言葉が、最後の一押しになった。
「分かった」
自分から出た言葉なのに、その声はまるで他人のもののように響いた。
「君の子供は、僕が殺す」
(つづく)