「本当はタワマンに住むのに憧れてたの。でも、蓮司はどうしても持ち家が良いって言ってさ。この近くって結構芸能人多いし安心だからって押し切られたんだよね。そういうところ、私の意見は全然通らないの」
一般家庭には長すぎる廊下を歩きながら、羽海は困ったように溜息を吐く。真っ暗だった家の中は、羽海が歩く度に自動でパッパッと電気が点いた。まるで、彼女の行く先をスポットライトが照らすかのように。
「子供は庭で遊べた方が絶対良いからっていうのがあっちの意見なんだよね。芸能人の子供って公園とかなかなか行けないから、ってさ。だったら家の中で遊べばいいじゃんと思わない? 日焼けするのも嫌だしさ」
彼女の口ぶりは、それこそ夫である末野蓮司に対する他愛ない愚痴そのものだ。不満があるのは本当なんだろうが、決して致命的なものじゃない。そのことが、分かるような口調。
「見せたいものがあったんだよね、ずっと前から」
とある部屋の前で、羽海は足を止めて言った。
「本当は瑞地くんに初めて話を持ちかけた時に見せたかったんだけど、蓮司が家にいたから出来なかったんだよ。それで、今になっちゃったんだけど」
嘉奈島羽海が扉を開ける。部屋の照明がパッと点いた。
足下にはカラフルなジョイントマットが敷いてある。天井からは飛行機や星や宇宙船や月の飾りが吊り下げられており、奥の方には象の形をした滑り台に、室内用のジャングルジムまであった。クローゼットの前にはキッチン台を模した玩具にぬいぐるみ。積み木や戦隊もののソフトフィギュアも並んでいる。純哉が小さい頃に大好きだったミニカーもあった。
そして、中央には全てを纏め上げるような大きなベビーベッドがどんと置かれている。真っ白でいかにも高級そうなそのベッドを見て、何故か純哉は怯んだ。
そこにあったのは理想的な『子供部屋』だった。それも、一般的な家庭にあるようなものではない。商業施設なんかに作られた託児所以上のものが揃っている。
「まだ産まれてもないし、立ち上がってもない。遊ぶってことも知らない子に、これだけ揃えてるんだよね。まだ男の子か女の子かも分からない子にさ」
羽海が嘲るように笑った。純哉はどう反応していいか分からず、どうにか頬を引きつらせるようにして羽海に合わせる。
「……子供が出来たことがよっぽど嬉しいなら、これだけはしゃぐ父親もいそうだけど」
「まあ、いるだろうね。身近にいたのはそういうタイプばっかりだったし」
父親という単語が出たことで、純哉は密かに期待する。このまま家族のことについて話が広がるだろうか。いや、そう簡単にいくはずがない。今ここで話してもきっと話を逸らされるだろう。それで、妙な警戒心を抱かれてしまうだけだ。
それに、あまりにも冷めた目で部屋の中を見ている羽海を見て、その話を持ち出すこと自体が恐ろしくなってしまった。
どちらかと言えば、純哉もこの部屋を薄気味悪く思う方ではあった。
いくら嬉しいとはいえ、出産に前向きじゃなかった妻の気持ちを忘れてこんな風に男女の別なく玩具を揃えるほどに準備をしている夫。そこにある得体の知れない情熱が、羽海の首を緩やかに絞めているのではないか、とまだ何も知らない純哉ですら思う。
幼児の年齢なら、男児向けでも女児向けでも、どちらの玩具であってもそれなりに遊ぶだろう。純哉と純礼がそうだった。純礼はプラレールが大好きで、小さなレールの上を走り回る電車を二人でずっと眺めていたことがあった。あの頃は、純哉達も何も気にせずに、幸せに暮らしていた。
部屋の壁には微笑む嘉奈島羽海のポスターが貼られていた。最新ライブのメインビジュアルを使用したポスターだ。嘉奈島羽海は翳りなど全く無く、幸せそうにこちらに向かって微笑んでいる。その他には余計な装飾もない、綺麗で透明感のあるポスターだった。
「それも旦那が貼ったんだよ。子供がいつも私のことを見てられるようにって」
そう言う羽海は、ポスターと同じ顔をしているのに、まるで別人のようだった。ポスターの中の嘉奈島羽海と、自分を抱く羽海が同一人物だと子供自身が判別出来ると思えないくらいだった。
「剥がしたかったけど、そうしたらもっと最悪なポスター貼られそうだったから、やめた。最初は写真集のポスターだったんだよね」
「写真集って……ああ」
「あ、やっぱりファンだね。思い当たる? あのちょっときわどいワンピースのやつね。背中開いててさ。子供にそれ見られてるの気まずいって言っても、旦那はきょとんとしててさ」
「あれは流石に……」
「あの男はさ、本当に私と感性が合わないんだよ」
羽海がゆっくりと目を細め、噛み締めるように言う。
「そんな男のことを、なんで好きになったの?」
そんな言葉を口に出すつもりじゃなかった。
純哉は反射的に弁解しようとした。こんなことを言うつもりじゃなかった。いや、疑問ではあったのだ。住むところに対する価値観が違い、子供に対する価値観が違い、身につけていた常識や持ち合わせていた感性が違う。そんな相手と、どうして羽海は離れないのか。
「なんでかは分からないけど、過ごしてて楽しいよ」
羽海は全く気にした様子も無く、あっさりと答えた。
「最初は合わないと思ってたんだよ。撮影現場でぺらぺら喋ったり、大声でスタッフにお礼言うのも苦手。空気も微妙に読めないから、険悪な雰囲気になってるところに芝居掛かった調子で突っ込んでいくのも嫌だった。顔だって、そりゃあ芸能人なら格好良いに決まってるじゃん? 私はあんまりタイプじゃなかったの。でも──」
羽海が、そこでぱたりと言葉を切った。大きな目が部屋の照明に照らされながら、ぐるりと回る。何かを、思い出すかのように。
「……話してたら、顔なんて気にならなくなるから」
違う、と純哉は思った。本来、羽海が言おうとしたことは顔なんかじゃない。だが、一度別の言葉で蓋をしてしまった言葉は、純哉なんかには絶対に引き出せないだろう。自然に出てくることはない──暴いたりしない限り。
「私が蓮司の良いところとして一番思うのは、とにかく前向きなところだよ。やるとなったら絶対に諦めないし。下積み時代からうるさい挨拶も周りと仲良くやろうとするのも変わってなくて、一貫してるのが好き。だから、段々認めるようになっていった」
「それで、好きになった?」
「そうだね。私には無いところだし。いや、頑固なのは同じか。納得がいくまで話し合えば全ての争いは解決できると本気で思ってそうなところが、気に入ったのかもしれない」
羽海がまたも目を細める。そこには、やはり心の底からの愛おしさ、というか、人間の魂が愛によって溶ける瞬間の恐ろしさ、が見え隠れしている。羽海は、嘘を吐いていない。純哉には分かる。だって、その目を、純哉は知っているから。
「……もし蓮司と別れることになったら、私は多分すごく寂しくなるし、立ち直れるか分からない。本当は、こんなに好きになるはずじゃなかったんだよ。でも、あいつは私の心の奥底に触れてくれたから。……私には、あいつしかいないんだよ」
羽海の手が自然と腹に添えられていることを、純哉は指摘しなかった。その事実は、いよいよ羽海のことを傷つけるだろうと思った。
「だから、子供は産むんだ。そのくらい好き?」
「この気持ちの悪い部屋に耐えて子供を産んで、その子を犠牲にして生活を続けようと思うくらいには好き」
悪趣味でグロテスクな愛の宣誓だった。母親になったことで、嘉奈島羽海に子供への愛情が芽生えることは無いのだろうか。病院で我が子を抱いた瞬間に嘉奈島羽海に掛けられた呪いが解けて、憎しみが全部マタニティブルーで押し流されてくれたら。
動悸が急に激しくなった。半年後、この家に侵入して子供を殺す自分の姿がまざまざと思い描けてしまった。この豪華すぎて歪な子供部屋の中で、純哉はベビーベッドに刃物を突き立てさせられる。目の前にいる一人の母親のせいで。
「あ、そうだ。変な話させたんだから、そっちも惚気話してよ」
「惚気話? ……僕は誰とも付き合ってないし、当然結婚もしてない」
「私がそんなこと聞きたいと思う?」
不快感を隠そうともしないで、羽海が言った。
「私が聞きたいのは、どうして瑞地純哉が嘉奈島羽海のファンになったのかってことだよ」
「は?」
「音楽の趣味が女性ボーカルのポップスだからとか、単純にクラスが同じで身近な芸能人だったからとか考えたんだけど、どっちもなんだか瑞地純哉感は無いからさ」
純哉は、お前に僕の何が分かるんだよという気持ちと、他ならぬ嘉奈島羽海に本心を言い当てられたことへの陶酔感で後頭部がじんじんと熱くなった。白瀬知夜から同じ内容を尋ねられた時とは全然違う、脳味噌を直接撫でられたような感覚。
純哉の脳内で、蕩けたような姉の瞳が蘇る。愛というものに脳味噌を焼かれ、他のものの価値が暴落した時のあの目。純礼と羽海は同じ目をしていた。恐らくはこの世の多くの人間が同じように宿している熱。
「……姉が、」
純哉は白瀬知夜に答えた時となるべく同じ声色を出そうと努める。きっとその通りにはなっていなくても、諦めてしまうわけにはいかなかった。
「姉がファンだったから、嘉奈島羽海を知った。そうでなくても、有名人だったし、テレビで顔も見たことあったから。……ファンと言えるかは分からない。でも、それが理由でずっと見てた」
(つづく)