学校へは、本当に徹夜のまま行くことになった。嘉奈島羽海の家から帰った後も目が冴えて眠れず、遂には一分の仮眠すら取れないまま学校に来ることになった。
誰かが指摘してくるかと思ったが、純哉の変化に気づく人間はいなかった。寝不足のぼんやりとした頭で、純哉はどうにか授業をこなした。早く帰って眠りたかった。けれど、やることをやらなければ来週頭の予定が崩れる。
ようやく一日を終えて、吐きそうになりながら帰宅の準備をしていると、学年主任から呼び出された。
「鶴見さんとの面談、これからだけど大丈夫?」
ああ、と純哉は心の内で舌打ちした。忘れていた。完全に忘れていた。鶴見瑠菜との面談の予定が入っていたんだった。
妊娠してしまった鶴見瑠菜の処遇は、学年どころか学校全体を巻き込んだ大騒ぎになっていた。自主的に退学を勧めても、堕胎を勧めても、鶴見瑠菜は頑として首を縦に振らず、自分を退学させることは出来ないはずだと、文科省通達まで持ち出して抵抗してきた。
こんなに鶴見瑠菜が弁舌巧みなタイプとも思えないから、どうせ彼氏か──彼氏の親が入れ知恵をしているのだろう。透けて見えるその構図も、学校側を悩ませる要因だった。
極めつけに、鶴見瑠菜が言い放った言葉はこうだ。
「瑞地先生に立ち会ってほしいです。私は瑞地先生と話がしたい」
こうなってしまうと、純哉はもう断ることが出来ない。直接の担任じゃないから、専門外の話だから、は通じない。生徒本人が助けを求めているのだから、教師は助けてやらなくちゃいけないのだ。
よりによって、この面談の日に羽海の家に行くことになるなんて。あまりのタイミングの悪さに純哉は更に苛立った。
久しぶりに会った鶴見瑠菜は元気そうだった。
一応は体調不良ということで休んでいたはずなのに、鶴見瑠菜は二週間前よりもずっと顔色が良く、多少なりと体重も増えているようだった。まだ腹は少しも膨らんでいない。
「お久しぶりです。瑞地先生」
面談には学年主任も参加しているというのに、鶴見瑠菜は純哉にだけ挨拶をした。純哉は「お久しぶりです」とだけ返した。元気そうですね、という言葉すら掛けてやりたくなかった。
「それで、鶴見さんは本当に産むつもりなの?」と、学年主任が困ったように尋ねた。対する鶴見はまるで臆することなく、目を輝かせながら言う。
「はい。絶対にそこは譲りたくありません。この高校には休学の制度がありませんけど、留年はしたことがある先輩がいるんですよね。だから、私も留年させてください」
「その先輩は病気療養でやむなく留年したんだ。病気でもない妊娠出産で、留年を前提にした欠席をし続けるのとは話が違う」
学年主任が声を尖らせる。
「でも、私を退学には出来ないですよね? 校則にそういう規定はありませんし、妊娠出産って、殆ど病気みたいなものじゃないですか。正直、最近全然元気な時が無くて」
「だからといって、他の生徒に対する悪影響や学校というものの社会的な役割を忘れるようなことは出来ない。第一、君のパートナーは本当に責任を全う出来るのかな」
「はい。私の恋人は籍を入れる覚悟でいます。大丈夫です。私、だからこそこの人の子供を産みたいって思ったんです」
学年主任と鶴見瑠菜の話を聞きながら、純哉は鼻白んでいた。始まる前は嫌で仕方がなかった面談だったが、こうして傍観の姿勢に入ってしまえばどうということもない。
鶴見瑠菜は決して折れないだろう。絶対に自分のやりたいようにするはずだ。その目はぎらぎらと燃えていて、他のものなんて見えていない。全部同じだ。末野蓮司のことを話す時の嘉奈島羽海と同じ。そして、宮村笙のことを話している時の姉と同じだ。
姉の純礼はずっと引きこもっていた。人間関係やコミュニケーションを、全て母親と弟だけでまかない、狭い世界だけで生きていた。母親とべったりの蜜月が終わり、親子水入らずに飽きると、純礼は自分と仲良くしようとした。
こうして自らの狭い世界の中で回していった場合、姉の依存対象は最終的にどうなるのだろう──と純哉は危ぶんだけれど、その答えは、予想外のものだった。
母親に飽き、純哉にも飽きると、純礼はインターネットで次の依存相手を探すようになった。いわゆる、ネット恋愛というものだった。毎日毎日スマホに齧り付き、自分の狭い世界を広げてくれる人間を探していた。
そして、宮村笙と出会った。
宮村は純礼より一回り上の男で、自分に優しくしてくれる宮村に夢中になった。まともに外に出ていなかった姉が外に出ることに前向きになり、急に身なりを気にするようになった。
母親はこの変化を露骨に喜んだ。彼女が日常生活を取り戻そうとしていること自体も嬉しかったのだろうし、ずっと娘の相手をし続ける生活から解放されることも嬉しかったはずだ。純哉から見た母親は、とても安心しているように見えた。
純哉だって、くだらないと思いながらもある程度肯定的だった。今までの純礼の状況よりは間違いなく良くなっていると思ったからだ。
姉の目は嘉奈島羽海を見ていた時とは別種の熱によって輝いていた。純哉はその横顔を見て、少しぞっとしたのを覚えている。あの時の純礼はようやく見つけた蜘蛛の糸に縋ることに必死で、他のものなんて全く見えていなかった。見ようともしていなかった。
恐ろしいことになる予感はしていた。
それでも純哉は見て見ぬ振りをした。もし姉が家族の他に寄りかかれる場所を見つけたのだとしたら、助かるから。
純礼は宮村と現実の世界で会う日までに必死で容姿を整え、引きこもる前の彼女にまで戻っていた。長い間引きこもっていたからなのか、純礼は奇妙に幼げに見えた。通販で買ったという年相応の服はその幼さと合っておらず、ちぐはぐな印象を与えていた。
それでも純礼は幸せそうで、意気揚々とデートに出掛けていった。
純礼の世界において、宮村だけが全てになった。
あの時の純礼と同じ目をした人間に、純哉が掛けられる言葉なんて何一つない。真っ当で正しい言葉なんて、何一つ。だから、純哉は薄く笑みを浮かべて、口を開いた。
「もし鶴見さんが本気で考えているのなら、その意思を最大限尊重したいと思う」
学年主任も、当の鶴見瑠菜本人も純哉の言葉が信じられないようで、まじまじと純哉を見つめていた。その反応にも怯まず、純哉は続ける。
「このまま話し合いを続けても、鶴見さんは意見を変えないでしょう。それなら、こちらが出来ることは鶴見さんをサポートすることしかない。話し合いを続けても意味がない」
鶴見瑠菜の表情がわかりやすく明るくなる。
「もしかしたら──瑞地先生ならそうやって背中を押してくれるんじゃないかと思っていました」
感激したように鶴見が言う。隣に座っている学年主任はあからさまに訝しげな顔をしていた。きっと彼の中での自分の評価は酷く下がってしまったことだろう。けれど、それでも構わなかった。
それにしても、と純哉は思う。
瑞地先生ならそうやって背中を押してくれるんじゃないかと思っていました――それは純哉にとっては酷く屈辱的な言葉だった。大方、純哉が他の教師よりも大人しくて言うことを聞かせやすいとでも思ったのだろう──お前に、僕が本当はどう思っているかなんて分からないはずだ。
純哉は鶴見のことなんて全く考えていない。お腹の子供のことだってどうでもいい。憎んでいると言ってしまってもいい。それなのに、勝手に『理解者』を押しつけるな。
分かってくれたと言わんばかりに笑う鶴見の笑顔に、昨夜の嘉奈島羽海の笑顔が重なった。羽海もまた、純哉は簡単に言うことを聞かせられると思っているのだろうか。
結局、純哉の「尊重する」の一言でその場は収まってしまった。鶴見瑠菜は純哉に味方してもらったことですっかり満足し、これからどうするかについては話し合いの末に決めると言い始めた。学年主任は、この好機を逃さんとばかりに上手く丸め込んで鶴見瑠菜を帰すことに成功した。
「瑞地先生、さっきの尊重だとか、サポートだとかいうのは本気ですか」
「まさか。ああいう生徒は自分の思い通りになるまで喚き続けるだけですから。一旦落ち着かせるべきだと思ったんです」
純哉がわざと笑みを浮かべながら言うと、学年主任は安心したように頷いた。こっちもこっちで、この対応が正解だったらしい。
「休みの前に申し訳ないね。お姉さんにもよろしく」
「はい。ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」
純哉が言うと、学年主任は満足そうに頷いて去って行った。
北海道にいる姉が病気で倒れたから、来週頭に有休を取って姉のところに行きたい。
今朝方、純哉が彼に言ったことだった。
「そういう意味で私のこと好き?」
その言葉を聞いた瞬間、純哉は吐き気に襲われた。堪えきれないえずきが喉の奥から這い上がってきて、思わず身体を折る。この部屋で吐いたら色々と面倒なことになる。分かっていても、止められない。
「ちょっと来て、お願いだからトイレまで我慢して!」
羽海に手を引かれ、なんとかトイレまで辿り着くと、純哉はそのまま吐いてしまった。戻したのは寝る前に飲んだ酒ばかりで、アルコール特有の嫌な臭いが便器から立ち上ってくる。
「結構飲む方なの?」
顔をあげると、羽海は酒の臭いが嫌いなのか、眉を顰めて尋ねてくる。ややあって、純哉は途切れ途切れに答えた。
「……居酒屋とかで飲むことはない、けど、飲まないと眠れない時がある」
「そういうのって本当に良くないらしいでしょ。眠りも浅くなるし。だったら普通に病院行ったら?」
他ならぬ嘉奈島羽海に言われてしまったことに、純哉は思わず笑ってしまった。病んでいるのはお互い様だ。
「さっきの話だけど……僕は、別に嘉奈島さんのことを性的に好きなわけじゃない。願いを聞くことで嘉奈島さんとどうこうなりたいとも思わない。だから、あんなことは二度と言わないでほしい」
何か言われるかとも思ったが、嘉奈島羽海は「分かった」と一言言っただけだった。思えば、性的に好きだと思われる方が自然なのかもしれない。嘉奈島羽海からすれば、自分は得体の知れない『協力者』なのだ。
トイレから出て口をゆすぐと、羽海が「送っていく」と言い出した。純哉からすればどういう道順で帰ればいいかも分からない町だ。おまけに、時間からして電車は走っていない。
玄関へと辿り着いた時、純哉はとあるものに気がついた。
玄関の端に積んである、お菓子の箱だ。箱の側面には福島銘菓と書いてある。その文字を見ていると、羽海は事もなげに言った。
「旦那が福島出身なんだけど、一度このお菓子食べさせたいってうるさくて。もしかして瑞地くんも知ってる?」
羽海からすれば、この空気をなごませる為の世間話の一環だったのだろう。だが、純哉にとっては、何よりも重い意味を持っていた。
この口振り。何の警戒もしていない口振り。自分が福島とはまるで縁遠かったことを白状する台詞を口にしているのに、失言だとも思っていない。
嘉奈島羽海は、ウミガラスを福島で見たんじゃない。北海道の、天売島で見たのだ。
「知らない。見たことない。美味しいのかな」
「一袋だけあげようか。美味しいらしいよ。福島以外で売ってないのが惜しいと思うくらい」
「いや、いいよ。ありがとう」
純哉は落ち着いて言って、羽海に微笑みかけた。
純哉は初めて、羽海の前でこんな風に笑うことが出来た。
(つづく)