それから三ヶ月も経たない内に、純礼は妊娠した。
早期の内に純礼の妊娠が発覚したこと、純礼のスマホが相変わらずろくな時間に鳴らないこと、純礼の目が相変わらず暗く澱んでいることから、父親が宮村笙ではないことは察せられた。
つまり、純礼はあの日純哉に求めた行為を、知らない男に求めたということになる。
その時の純礼のことを想像すると不快な気分になった。行為そのものと、あの日の夜を思い出すからだ。そして何より、純礼のお腹にいる子供が、純礼にとって宮村笙の心を繋ぎ止めて『責任』を取らせる為だけであるということが、純哉に吐き気を催させた。
子供はそんなことの為に生まれてくるのか。
ただの自己満足の為に。取るに足らない男を引き留める為だけに。それじゃあまるで、道具みたいじゃないか。
もう何も言えなかった。純礼と関わることを避け、あの日の夜のことは一生思い出さずに生きていこうと純哉は思った。これから産まれてくる純礼の子供とも、絶対に関わり合いにならない。たとえどんなに不幸で望まれない子供であっても。
だが……その子供にもし救いを求められたら、自分は果たして払いのけることが出来るだろうか。
結論から言うと、そんな心配は杞憂でしかなかった。
臨月に入った純礼は、そのまま首を吊って死んでしまったからだ。当然ながら、お腹の中にいた子供も助かることはなかった。
子供が出来れば責任を取ってくれると思っていた相手は、子供が出来たところで責任を取ってはくれなかった。ある意味分かりきっていた結果だった。宮村笙とは、最後の方はまともに連絡すら取れていなかったという。
子供を作ってまで繋ぎ止めようとしたのに、そんなに重いことにまで手を出したのに、結局そんなものは何の意味も無かったのだ。
胸糞の悪い話だ。どこをどう取っても救いようがない。じゃあ、純礼のお腹にいた子供は一体何の為に命を得たというのだろうか。
尊い血の繋がりが楔になるというなら、なれなかった繋がりには価値が無いのだろうか。純礼の葬式に出ながら、純哉はぼんやりとそんなことを考えていた。
母親は純哉を責めた。理屈の通らない話だったが、気持ちだけは理解出来た。そうしなければ、母親は心が保たなかっただろう。ヒステリックに叫ぶ母親を見ながら、純哉は甘んじてその罵倒を受け入れた。
だが、泣き叫ぶ母親が最後に言った言葉に、純哉は耳を疑った。
「弟なんだから、純礼の好きにさせてやればよかったのに。あの子が本当に、本当に可哀想。きっと話は変わっていたはずなのに」
それを聞いて、確信した。母親は、あの夜に何があったのかを知っている。
それでいて、あそこで純哉が我慢していれば──純礼の好きにさせていれば、と純哉を責めているのだ。
お腹の子供が純哉との子供だったら、純礼は死ななかったかもしれないのにと、母親はそう思っているのだった。
そんなことで宮村が心変わりをするはずもない。一体この母親は何を言っているんだ。本当に自分の母親がこれなのか。思うところは沢山あったのに、一つも言葉にならず、純哉の心にひっそりと積もっていった。
最早、この家の中に純哉の居場所は無かった。むしろ最初から、そんなものは一度も無かったのかもしれなかった。
それから純哉は、家を出る為だけに大学に通い、教員免許を取った。生徒達への愛情や教師という仕事への情熱は消え失せていた。そもそも、純哉が教育学部への進学を決めたのは、母親の勧めがあったからだ。人生とまともに向き合わず、流されるままに生きてきたつけが、ここで回ってきたかのようだった。
いろんなものが欠けてしまった人生の中で、最も深刻なのは、誰かと触れ合うことや、子供を作るということ自体への忌避感だった。家族とは、ただ温かい、それだけではない、利用される『場』であると思い知らされたからだ。
そんな中、逃れられない呪いのような血の繋がりを、嘉奈島羽海だけが否定してくれたような気がした。家族なんてものは、そこまでいいものじゃないんだと、そう言ってくれるだけで確かに救われたからだ。それで純哉は思わず「羽海の子供を殺したい」と書き込んだ。そうすれば、自分にもたらされた救いを戻せる気がした。血の繋がった子供さえいなければ。
嘉奈島羽海は子供を作り、家族を作ろうとしている。
嘉奈島羽海にとっての子供も、ある意味では夫を繋ぎ止める為のものでしかない。そして、同じように殺されようとしている。
望まれない子供なら、自分が憎んでいる子供なら、あの時のように、純哉が拒絶してやるべきなのかもしれない。その子供に手を下せるのは、純哉だけなのかもしれない。
だからこそ、純哉は嘉奈島羽海の願いを叶えようとしているのだろうか?
純哉にも、感情の出所が分からなかった。純礼のことは間違いなく影響を及ぼしているだろうが、そこでどうして嘉奈島羽海の子供の殺害に──同じように望まれていない子供の殺害に繋がっていくのだろう。
胸が痛くなるほど切実な苦しみと共に純礼を思い出してから、ようやく鶴見瑠菜のことを考える余裕が出た。
恋人は──正確に言うなら恋人の家族は、だろうが、鶴見瑠菜のお腹にいる子供を歓迎していない。鶴見瑠菜は学校が退学になってでも産みたいと思っているが、彼女の子供は全く望まれていないのだ。そうなるとどうなるだろう。結局、鶴見瑠菜は子供を堕ろすことになるか──もしくは、一人で育てることになるのか。
望まれない子供を一人で育てる程の強さが鶴見瑠菜にあるのか、純哉には判断出来なかった。そんな判断が出来るほど、純哉は彼女のことを知らない。なのに、純哉は無責任にも鶴見瑠菜のことを煽り、彼女なら育てられると、学校側が支援すると無闇に煽った。その底にあったのは、殆ど復讐心に近いものだ。
それを考えると、胸が苦しくなった。自分はなんてことをしてしまったのだろう、と後悔が押し寄せてくる。純哉がすべきことは鶴見瑠菜を煽ることじゃなく、止めることだった。純哉なら、きっとそれが出来たはずなのに。
純礼のことも、鶴見瑠菜のことも、純哉は後悔ばかりしている。もしやり直せたら、と何度でも思うけれど、やり直したところでどうしたらいいのかわからない。
きっと、自分はもう後悔したくないのだ。どんな選択をするにせよ、後悔だけはしたくない。だから純哉は嘉奈島羽海のことを知る為に、北海道までやってきたのだ。
嘉奈島羽海と話していると、深い海の底で藻掻いているような気分になる。それは、純礼と話していた時のどうしようもない分かりあえなさと似ている。死んだ人間との対話の代わりに、純哉は嘉奈島羽海に触れようと足掻いている。けれどそれは、あまりにも果てしないことなのだ。
──自分は、嘉奈島羽海のことをちゃんとした『人間』として見ているのだろうか。
瑞地純礼のことを人間として見ていなかった純哉は、改めてそう問い直してしまう。
(つづく)