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 純哉は家に帰り、自分の勤めている高校に連絡をした。母親の体調が悪化したことを理由に退職を申し出る。当然渋られたが、純哉は全く引かなかった。辞めようという人間を引き留める方法は、この国には殆ど無い。ましてや教師という職業なら尚更だ。

 そうして純哉は、自分が攫ってきた子供と共にいた。

 純哉の家に着くと、子供はようやく気がついたかのように泣き始めた。趣味のものすら無い殺風景な部屋に、赤子の泣き声が響く。純哉はどうしていいか分からず、彼女を抱き上げて軽く揺すった。それから、子育てに必要なものをAmazonで注文した。

 一夜明けると、嘉奈島羽海のことは既に方々でニュースになっていた。ネットでざっと深夜の凶行に目を通す。閑静な住宅街で起きた殺人未遂事件。および乳児誘拐事件。腹を刺されて子供を奪われた可哀想な歌姫。あまりにも壮絶な事件に、世間は大いに怒りを覚えているようだった。

 幸い、腹を刺された嘉奈島羽海は命に別状が無く、一週間もすれば退院出来る見込みだという。その記述を見て、純哉はほっとした。

 純哉がようやく適切な温度でミルクを作ることを覚え、夜泣きによる寝不足の恐ろしさに気づいた頃、嘉奈島羽海が事件について語り始めた。曰く、夫のふりをして入り込んできた『犯人』は四十から五十代くらいの女性だったという。

 まるででたらめだ。純哉から目を逸らす為だけの稚拙な嘘だ。けれど、それを知っているのはこの世に純哉だけだ。

『こういうことやるのっていっつも女だよな』

『子供に執着してるんだろうね。子供が欲しくても授からなかった女なんでしょ』

『妊娠しないである程度の年齢を迎えた女は凶暴になるからな』

 嘉奈島羽海の嘘が勝手な言葉で補強され、拡散されていく。嘉奈島羽海を疑う声や、彼女の迂闊さを責める声も無くはなかったものの、子供を失った母親がそう責められることはない。事実、彼女はとても綺麗に泣いていたのだ。演技が上手いな、と思うと同時に、彼女は今恐怖で涙を流しているのかもしれないとも思った。純哉の抱いている生き物は、嘉奈島羽海を遠い果てよりずっと脅かし続ける。

 ともあれ、純哉は第一関門をクリアしたようなものだった。刺された被害者の証言によってマークから外れた。そうでなくても、純哉と嘉奈島羽海は本来何の関係も無いのだ。よっぽどのことが無い限り、捜査線上にも上がらない。

 純哉のところに警察が来ることはなかった。どこにでもいる平凡な高校教師と、芸能人の子供の誘拐事件が結びつくことはない。

 しばらく経ち、無事に退職が済んだ頃には子供の世話にも慣れてきた。子供は純哉のことを不思議そうに見つめたかと思うと、パッと花が咲いたように笑った。眩しい、と思った。笑うといよいよ嘉奈島羽海には似ていない。かといって、父親の末野蓮司の面影も無い。当然ながら、純哉には全く似ていない。純哉は、この子が急に空から現れるところを想像した。純哉が一生を共にする子供として、降って湧いた命のようだった。

 純哉はこの子供を、羽海と呼ぶことにした。

 嘉奈島羽海の代わりをさせようとしたわけではない。自分が何をしようとしたのかを、客観的に忘れない為にそうすべきだと思った。『個』としての名前を与えてしまえば、本当に自分の子供であるように思い込みそうで怖かった。そのくらい、この子供は純哉にとって特別だった。

 羽海ははっきりと純哉のことを自分のことを世話する人間だと認識し、手を伸ばして甘えるようになった。それと同時に、純哉のことを振り回すようにもなった。眠る時にぐずり、ミルクを飲むことを拒否した。そのことも、純哉には何故だか嬉しかった。

 教師を辞めた純哉が次にやったのは、引っ越しだった。

 純哉には十分な貯金があった。働いている時から、まともに使うことのなかった金だ。純礼が死に、純哉が一人になってから、純哉は自分の人生の為に金を使う方法を忘れてしまっていた。純哉はその金で羽海と逃げることにした。

 純哉が最初に移住を決めたのは、全く縁もゆかりもないとある地方の大きな町だった。そこならば、純哉が羽海と引っ越してもそこまで目立たずに潜伏出来ると思ったからだ。住んでいたところを引き払い、新しい住処を決めた。

 引っ越しを決め、自分がプライベートで使っていたスマホまで捨てたのが幸いした。もう母親の干渉を受けなくて済んだからだ。きっと純哉に連絡がつかないことに気づいた母親は、あの繋がらないスマホに延々と連絡を入れていることだろう。その内、純哉の住んでいた家までやってくるかもしれない。だが、そこにもう純哉はいない。

 母親が自分の捜索願を出すところを想像したが、警察はまともに取り合わないだろう。表面上はともかくとして、成人を迎えて一人で働いている社会人の男の『失踪』なんて、本気で捜索されることはない。母親が半狂乱になって捜そうとすればするだけ逆効果になる。

 ああいう親から逃げ出す子供なんて、そう珍しいことではないのだから。

 どうして早くこうしなかったのだろう、と純哉は自分でも不思議に思った。母親からの連絡は、純哉の心を確実に蝕んでいた。純礼の代わりに、と繰り返し言う母親に、何の疑問も持たずに従うことは苦痛だった。もっと早く、逃げ出せばよかった。純哉が彼女の言うことを聞く理由なんてなかったのだ。

 きっと母親は一頻り純哉を捜した後、あっさり諦めるだろう。その確信もあった。彼女が捜しているのは純哉じゃなく、もうここにいない純礼だ。純礼を失った瞬間から、母親はあるべき家族の団欒を取り戻そうとし続けていた。そんなものは元からないのに。

 それが叶わないと気づいたら、母親は折り合いをつけるはずだ。もう何年も前から、純哉のこと自体を見ていたわけではないのだから。

 こうして純哉は、かつての家族との繋がりを断った。

 地方都市に移住して一年、純哉は出来る限り羽海の傍にいた。子供の成長は早く、羽海にはどんどん感情が出てくるようになった。羽海はテレビなどから音楽が流れてくるとご機嫌になり、ミルクを飲む時間は退屈だからか嫌いで、昼も夜もよく眠る子供になった。

 最初はミルクを飲まない羽海のことが心配で、あれこれ調べた。口を閉じてミルクを拒否する羽海を見る度に、純哉は不安でたまらなかった。その子のペースで飲ませればいい、という記述を読んで、それに縋るように日々を過ごした。

 子供を育てることが不安との戦いであると、純哉はようやく理解した。羽海は健診を受けることが出来ない。病院は保険証無しでかかることも出来たが、全額負担の医療費は大変だった。純哉はなるべく羽海が体調を崩さないように祈るしかなかった。

 テレビでは、嘉奈島羽海の無期限活動休止を報じていた。事件から立ち直れずに心身の休養を求めた彼女は、出産後に予定されていた全国ライブツアーを中止し、回復に努めるという。

 傷ついているはずの嘉奈島羽海は、それでも自らファンへの説明をしたいという理由で記者会見の場に立った。嘉奈島羽海はやつれていて、見るからに元気がなさそうだった。

 それでも、彼女の目はあの夜よりもずっと光を取り戻していた。純哉だけがその意味を知っている光だ。嘉奈島羽海はきっと輝きを取り戻していくだろう。休止もそう長いものにはならないはずだ。

 羽海が一人で留守番出来るようになってから、純哉は近くの学習塾で働くことにした。羽海に何かあればすぐ帰れるよう、主に採点や発注などの事務作業がメインのところに応募した。妻が亡くなって、一人で娘を育てなければいけないと言うと、良心的な勤め先は最大限の便宜を図ってくれた。安価なベビーシッターの紹介もしてくれた。さらってきた娘だとは、誰も疑わない。

 その町では、羽海が三歳になるまで暮らした。

 

 

(つづく)