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 抱き上げてみると、腕の中の赤子は想像よりも重かった。非力な女性が抱えるには、結構な負担になるだろう。羽のように軽い様を想像していた純哉は、一瞬面食らう。嘉奈島羽海は、このボロボロの状態でこんなものを抱いていたのだろうか。

 抱き上げられても、子供は泣かなかった。既に死んでいるんじゃないかと錯覚するくらい、凪いだ海のように静かだ。これなら、夜の中によく溶ける。

「何してるの」

 嘉奈島羽海が、困惑と恐怖の滲んだ顔で純哉を見る。その顔には、はっきりと裏切られたことへの絶望が浮かんでいた。純哉は心の底から申し訳無く思った。本当は、こんなことをしたくなかった。嘉奈島羽海にとっての本当の救世主になりたかった。

「この子は僕がもらっていく」

「……はあ? どういうつもり? まさか、土壇場で怖じ気づいた? ふざけんなよ! お前は、お前は絶対そんなこと言っちゃ駄目だろうが、偉そうに言って、結局出来ないのかよ!」

「怖じ気づいた、のかもしれない。分からない。どちらかというと、土壇場で選びたくなったのかもしれない。本当にごめん。でも、僕はこの子が欲しい。殺したくないんじゃない。この子が必要なんだ」

 純哉にとって、腕の中の子供は嘉奈島羽海であり、瑞地純礼であり、純礼の子供でもあり、鶴見瑠菜の子供でもあった。

 純哉にはこの子供が必要だった。純哉がこれからを生きる為に、代わりに救える存在。嘉奈島羽海よりも、純哉がこれから先のよすがに出来る存在。それが、目の前の子供だった。

 純哉に呼吸をさせてくれる子供だ。

 純哉はゆっくりと、包丁を嘉奈島羽海に向けた。嘉奈島羽海が息を呑む。男に刃物を向けられることの恐怖が、嘉奈島羽海を黙らせる。そこでようやく、彼女が思いの外純哉を信頼していたことに気がついた。子供だけじゃなく、自分が殺される可能性だって、嘉奈島羽海は考えられただろうに。

 嘉奈島羽海が震え始める。その目に涙が滲んでいた。今日で永遠に別れを告げられるはずだった絶望が、嘉奈島羽海を再び包み込んでいるのが分かる。その目は、自らの子供を見つめていた。この期に及んでも、嘉奈島羽海の恐怖の対象は、自分の娘だった。

 ここで純哉が娘を誘拐して逃げることで──自分の娘が殺されないことで、再び自分が母親に引き戻されることを恐れている。彼女の恐怖は筋金入りだった。包丁を突きつけられることよりも恐ろしいこと。他の人達には、決して理解されない、嘉奈島羽海に纏わりつく呪い。

 ややあって、嘉奈島羽海が言った。

「じゃあ、代わりに殺して」

 嘉奈島羽海がゆっくりと近づいてくる。

「娘じゃなくていい。私を殺して。私は、過去が追いかけてくることを恐れる。ここであんたとその子を逃がしたら、きっといつか、足を取られる」

 包丁の先が平たくなった嘉奈島羽海の腹部に当たる。空っぽ、という言葉がそれだけで浮かんだ。子供を産み落とした嘉奈島羽海の中は、今何も入っていない。

「その子が生きている限り、私は一生怯えて暮らすことになる。それなのに、あんたはその子を選ぶの」

「自分を選ぼうとしてるんだ。自分の方が可愛かった。本当にごめん、君のことは殺せない。君が死んだら逃げるのが難しくなる。協力してほしい」

 協力、という言葉を、嘉奈島羽海は鼻で笑った。

「何をしろって言うつもり?」

「警察に、僕と全く違う人物像を伝える。動機について見当違いのことを言う。なんでもいい、僕から嫌疑が逸らせるなら何でも。その間に、僕はこの子を連れて逃げる。防犯カメラの位置を教えてくれたのは君だったね。あるいは、いつもの癖で今日も切ってくれているか。どちらにせよ、僕は防犯カメラには映らない。逃げられるはずだ」

「無理に決まってる。どうせ捕まる」

「そうなったらその時だ。捕まったとしても、僕は君と繋がっていたことは話さない。君は被害者だ。どのみち僕はもうこの子を殺すつもりはない。子供をさらわれたことがショックで、もう新しく家族を作るつもりにはなれない。それはこれから子供を持たなくていい充分な『理由』にならないか?」

 ならない、と純哉は自分で言っていて思った。殺されるのと誘拐されるのでは、大きな隔たりがある。純哉が失敗したら、嘉奈島羽海はハッピーエンドを迎えてしまう。この子は嘉奈島羽海の下に戻り、彼女は求められる幸せを演じるようになるだろう。

 けれど、嘉奈島羽海は純哉を睨んだ後、ゆっくり息を吐いた。

「なら、出来るだけ頑張って逃げて」

 包丁の先が、空っぽの腹に入り込む感触がした。身じろぎをする暇も、包丁を離す暇も無かった。嘉奈島羽海が大きな呻き声を漏らす。彼女の手が、自分の腹に刺さった包丁を優しく引き取った。まるで、母親が子供から危ないものを取り上げる時のように。

「嘉奈島さん!」

「このくらいじゃ……死なない。死なないはず。私は今から、救急車を呼ぶ。……早く、逃げ切ってみせて。多分これ、アドレナリン切れたら、動けなくなるやつ。さっさと行って」

 嘉奈島羽海の腹からぼたぼたと血が垂れるのを見て、純哉は弾かれたように駆け出した。このまま純哉がぐずぐずしていたら、嘉奈島羽海は救急車を呼べずに死んでしまう可能性がある。動かなければならない。

 嘉奈島羽海が自分の腹を刺させたわけが、純哉には分かるような気がした。あれも、嘉奈島羽海がずっと求めていた『理由』だ。彼女は、多分それを実に上手く使う。

 目の前で母親が刺されても、子供はまだ眠っていた。親子の不思議な絆で目を覚ますかと思ったのに、そういったことは本当に無い。まるで全てが味方しているかのように、子供は純哉に都合良く縋りついていた。

 純哉は身勝手な人間だ。そのことを、まるで啓示のように思った。この子はきっとこうなる運命だったのだ、と純哉は思う。

 何にも関係の無い、この子を殺そうとしていた赤の他人だ。水よりも濃い血の繋がりが、ここには何にも存在していない。

 それでも純哉は、この子の為に全てを尽くそうと思った。

 

 

(つづく)