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「結婚? お前が?」

「そうだよ。私もう二十歳超えてるし。仕事はメンタル的な意味で厳しいから、専業主婦になりたいんだけど、それ話したら、笙くんもいいねって。結婚しようって」

「あのさ、それこそ男のそういうの信用しない方がいいでしょ。口約束で舞い上がってたら痛い目見るよ」

「見ない! 笙くんはそんな人じゃないから!」

 痛いところを突かれたのか、純礼は声を荒らげ始めた。この類いの癇癪は久しぶりだった。宮村笙と付き合い始めて、純礼は安定していたからだ。

「ていうか、純哉嫉妬してるんでしょ」

「はあ?」

「結婚したら、私の方が上になるから。子供も産んでライフステージも上がって、それで全部巻き返せるから、それで焦ってるんでしょ。ざまあみろだ。周りだって、私が結婚したって聞いたら一目置くんじゃない?」

 何を言っているのか全然分からなかった。純哉は純礼が結婚しようがしまいが、そんなことはどうでもよかった。もし純礼が家を出てくれるなら、毎日が過ごしやすくなる──くらいは思ったが、ライフステージだとかは全くピンとこない。

 それに、純礼の言い分──今、彼女が言ったことを鑑みるに、純礼はまるで、自分が馴染めなかったクラスメイト達への復讐すらも家庭を持つことによって果たされると言わんばかりだった。そんなはずはないのに。

 その時、純哉は少し純礼のことが恐ろしくなった。宮村笙への依存的な愛情と、その裏にある何かしらの歪みが末恐ろしかったからだ。

 でも、色々なものを諦めてきた純礼からすれば、家庭を持つということがそれら全てを埋め合わせるのだろう。そうも理解出来た。純礼はそれほどまでに何も無い女だから。

「まあ、結婚の話まで出てるんなら、彼に安心されてるんじゃないの? 雑に扱ってもある程度理解してもらえるって」

「あー、ダルいねそれ。ダルすぎる。そういうんじゃないのにさ。でも、男ってそういう勝手なところあるよね」

 純哉の返答に、純礼はころっと機嫌を直した。意図せずして、純哉は純礼の求める回答をしたのだった。

「まあそうか。結婚する相手ならある程度雑にもなるか。なんとなく分かったわ。そうだよね」

 純礼はもう純哉の言葉なんて聞いてもいない様子で、自分に言い聞かせるように繰り返した。会話を勝手に終わらせる、いつもの純礼の悪い癖だ。けれど、純哉はもう気にしなかった。

 

 それから純礼は宮村笙の愚痴を言うことは無くなり、反対に母親の前で声高に結婚について話すようになった。母親は心の底から純礼を祝福した。あんなに嬉しそうな母親の姿を見たのは久しぶりだった。

「おめでとう、純礼ちゃん。お母さん言ったでしょ。純礼ちゃんの本当の良さを分かってくれる人が、いつか必ず現れるって。お母さんの言ってたことはそういうことなの。今まで純礼ちゃんがお母さんの言うことをよく聞いて、腐らずやってきたからこそ、素敵な人に出会えたのよ」

 普段の純礼だったら大いに反発しそうな言葉なのに、あろうことか純礼は瞳に涙を浮かべてその話を聞いていた。

 いきなり茶番劇が始まったかのようで、純哉は薄気味悪く感じるばかりだった。それから母親は家族の助け合いがどうとか、人を思いやる気持ちがどうとかの『説法』を始めた挙げ句、こんな言葉で締めくくった。

「血の繋がりは何よりも大切なもの。この世で何があっても消えない絆なの。純礼ちゃんはそのことを覚えておいてね。純哉も。たった二人の姉弟なんだから、仲良くね」

 純哉はそれには答えなかった。血の繋がりは、純哉にとっては単なる呪いでしかなかった。もし純礼が自分の姉弟でなければ、絶対に関わり合いにはなってなかっただろう。もし産まれる前に選べたならば、自分は絶対に純礼の弟には産まれてこなかった。

 純礼だって、血の繋がりなんか本当はどうでもいいと思っているだろう。ならば素直にそう言えばいい。

 なのに、その日の純礼は泣きながら母親と感動劇場を続けた。味のしない夕食を食べながら、純哉は早くこの家から出て行きたいと思った。父親はその日も家を空けていた。

 

 無事大学に受かり、教育学部の一学生として大学に通い始めた時に、異変が起こった。

 純礼が高校時代を思わせるほどに、不安定になったのだ。

 思えば、予兆はあった。

 純礼は事あるごとに結婚を口に出し、母親だけでなく父親からも祝福されて満足げにしていたのだ。

 けれど、純礼が外に出る機会はやはり減っていき、宮村笙との連絡の頻度はさらに少なくなっていった。安心していたはずの母親は何度も「宮村さんとは最近どうなの?」と問い質すようになり、純礼が苛立ちと──恐らくは怯え混じりに誤魔化すことが増えた。

 二人が上手くいかなくなっているのは明らかだった。

 それでも、宮村笙はごく稀にではあったが純礼を呼び出した。その時の純礼は水を得た魚のように、それがどんなに夜遅くであっても喜んで出掛けていった。痛々しいとも間違っているとも思ったが、どうすることも出来なかった。そこでようやく、純哉は姉の嵌まっている泥のような深みについて向き合わされた。

 今の純礼には友達がいない。やりたいこともない。学歴も職歴も無い。出来ることは殆ど無く、家にいてすることといえば、宮村笙からの連絡を待つことだけだ。これで宮村笙を失うことになったら、一体どうなってしまうのか。

 家庭を持つことだけが──子供を産むことだけが、自分を軽んじている全ての人間を見返すことだと思っている歪んだ純礼は。

 

 

(つづく)