(承前)
まだ子供を産み、家に戻って一週間も経っていないはずだ。それでも、夫の末野蓮司は家を留守にしているようだった。どういう事情があるかは知らない。仕事が忙しいのかもしれないし、単に飲み歩いているだけかもしれない。どちらにせよ好都合だ。彼がいないおかげで、純哉は嘉奈島羽海の子供を殺すことが出来る。
純哉を家に迎え入れた嘉奈島羽海は、別人のようだった。
目は寝不足からか落ち窪んでおり、肌に全体的に張りが無い。頬はこけているのに、身体は奇妙に弛んでいる。出産というのがどれだけ大変だったかが察せられた。
嘉奈島羽海は何も言わなかった。子殺しを頼んだ相手に何を言うのかとあれこれ予想していたものの、答えはそのどれでもなかった。
電話で事前に細かい計画は詰めておいた。
嘉奈島羽海は夫が帰ってきたと勘違いをして、うっかり玄関の鍵を開けてしまう。出産後の疲れた母親なら、そのくらいの判断ミスはしておかしくないだろう。夫じゃない見知らぬ男は、それを好機として入り込んでくる。
男は嘉奈島羽海の熱狂的なファンで、結婚も出産も赦せなかった。だから、彼女の子供を殺して元の嘉奈島羽海に戻そうとした。そういうことにした。彼女と以前やり取りしていたスマートフォンは、予め壊してからドブ川に捨てた。嘉奈島羽海の方も、使っていたスマートフォンはプライベート用のものではないと言っていたから、上手くやっているのだろう、と純哉は思う。
数えるほどしか入っていないのに、子供部屋は懐かしかった。女の子だと分かったからだろう、部屋は男の子用の飛行機のパネルや車のおもちゃが取り去られ、少し寂しい女の子の部屋になっていた。
馴染みの風景であるのに、匂いだけは明確に変わっている。部屋の中の、生々しく独特な匂い。血の臭いのような、海の匂いのような、今まで純哉の意識したことのない匂いだった。
匂いの中央には、ベビーベッドに寝かされた子供が居た。
赤子はどんな子でも似ている。少なくとも、まともに接したことの無い純哉にとってはそうだった。嘉奈島羽海になんか少しも似ていない。将来のスター性を感じることも、特別な愛おしさを感じることも何もない子だ。
嘉奈島羽海は眠る赤子をじっと見下ろしていた。あまり感情は動いていないように見える。強いて言うなら、彼女は疲れ切っていた。早くこの茶番を終わらせてほしい、と願っているような顔だ。眠いんだろうな、と純哉は思った。赤ん坊は母親から睡眠を奪う。
「この子、名前はあるの?」
「まだつけてない。旦那の実家が姓名判断とかに凝るタイプで。その姓名判断の結果の中で、一番良いものを選ぼうとしてる。明日には決まるよ。出生届、出さなくちゃいけないから」
「まだ出してないんだ」
「本当は産まれて十四日以内に出さなきゃいけないんだけど、遅れるって届け出出せば大丈夫。芸能人だからマスコミに追い回されてなかなか出す機会がなかったって言えば通るって」
実際に、そういう理由で提出がままならないことがあるのだろう。芸能人の出産はエンターテインメントだ。
「この子、まだ産まれたことが社会に気づかれてないの」
そう言って、嘉奈島羽海はくつくつと力無く笑った。出生届が出されていなくても、嘉奈島羽海の子供は既にSNSで産まれた証を得ているようなものだった。誰もが嘉奈島羽海の子供の名前を知りたがっており、勝手に名前を予想するハッシュタグまで出てきていた。そのタグをつけて、嘉奈島羽海の子供の名前が予想されている。
純哉は一呼吸置いて、肩に掛けていた鞄から包丁を取り出した。色々考えたものの、この日本で簡単に手に入る凶器なんてこれくらいしかなかった。実際に子供部屋で取り出してみると、包丁は赤ん坊を殺すにはあまりにも大きすぎる凶器だった。子供のことを、すっぽりその刃先に呑み込んでしまいそうなほどに。
嘉奈島羽海は目を逸らさなかった。むしろ、食い入るように包丁を見つめている。輝きを失った嘉奈島羽海の顔に、ほんの少しだけ生気が戻ってきたように感じられた。彼女にとって、今の純哉は救いの主なのだろう。あるいは、彼が持っている包丁こそが。
自分に危機が迫っているのに、嘉奈島羽海の子供は少しも目を覚まさなかった。この世に恐ろしいことなど何にも無いかのように、穏やかに眠っている。なんだか涙が出そうになった。姉の──純礼の子供も、産まれていたらこんな風に眠っていただろうか。純礼自身も、純哉自身も、同じように何の憂いも無く穏やかであったんだろうか。
「やって」
嘉奈島羽海が短く言った。よく通る声だった。純哉は躊躇い無く、子供に手を伸ばした。
(つづく)