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 瑞地純礼は目立たない子供だった、と思う。
 弟の純哉から見ても彼女は内気で何かを主張するのが苦手な人間で、得意なことや好きなことが傍から見てもまるで分からなかった。
 その上、そういった自分の性質を一丁前に恥じては、周りと仲良く出来ない子供でもあった。あまりにも強すぎる劣等感で、周りの子とはまともに話すことが出来ない。相手と比べてどこが劣っているか、何が足りないかばかりが思考を巡って憎しみが先立つ。
 中学校に上がる頃には、もう純礼は大人しくて卑屈な人格を完成させていた。彼女はいじめられこそしなかったものの、周りからは腫れ物として扱われていた。
 プライドの高い純礼にとっては、自分がそういった代物になってしまったということ自体が耐えられず、更に周りと確執を深めていく。悪循環だった。
 そんな純礼の唯一の友達と言えるのが、純礼の──当然、純哉のでもある──母親だった。
「純礼は良い子だけど、頭が良すぎて周りと上手くやれないから。ちゃんと同じだけ頭が良い子じゃないと、話も合わないでしょう?」
 そう言って、母親は純礼の友達の代わりを十二分に務め上げた。一緒に買い物に行き、遊園地に行き、プリクラまで一緒に撮った。純礼がそうしてほしい時は何時間でも他愛ない雑談に付き合っていた。
 純礼と一緒に過ごしている時の母親は、過剰に楽しげだった。そう振る舞っていたのだ。自分が最高に気の合う純礼の親友であるような顔をして、その証明のように大声を上げて笑うのは、誰かに脅されているかのようで寒気がした。
 そんな母親と姉の姿を、純哉はじっと見つめていた。そして、それが純礼にどんな影響を及ぼすのかを間近で観察し続けた。
 友達の代わりを務め切れていない過保護な母親が、卑屈な娘の全肯定を行った先にあるものを、見た。
 お世辞にも純礼は頭が良いわけではなかった。成績は下から数えた方が早いくらいだったし、大して偏差値の高くない学校に進学しても、あまり付いていけていないようだった。中学校の範囲すら怪しく、相変わらず友達も出来ている様子が無い。段々と純礼は高校を休みがちになっていった。
 純哉が定期テスト期間で早くに家に帰ると、決まって制服姿の姉がリビングで寝転んでいた。だらしなくシワがついたブラウスを見て、嫌な気持ちになったことを覚えている。それは、母親が毎朝アイロンを掛けているものだった。そう甲斐甲斐しくアイロンを掛けたところで、純礼はどうせ学校をサボるというのに。
「純哉、あんたなんでいんの」
 寝転んだままの純礼が、純哉に低い声で問う。冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、純哉は答えた。
「……今テスト期間だから、テストが終わったら帰れるんだ」
「あー、そう」
 聞いてきたくせに、純礼はまるで興味の無さそうな声だった。それに本来ならばその質問は、純哉こそするべきものだろう。
「あんたって学校どう?」
「どうって……普通だけど」
「部活って何やってるんだっけ」
「美術部だけど、ほぼ行ってない」
「あー、そうだ。強制で入らされるんだった。なんで行かないの」
「絵を描くことに興味無いから……? ねえ、明日もテスト、あるんだけど」
「こんなちょっと時間無駄にしたくらいでテストなんか変わんないよ」
 純礼に引き留められるのは珍しかった。普段母親と一緒にいる時は、純哉に話しかけてくることすらなかった。子供の頃だって、殆ど一緒に遊んだ記憶が無い。趣味だって全く合わなかった。全く別の人間だ。
「上手くやれてるの?」
 純礼がそう尋ね、もしかしたら本題はこれだったのかもしれない、と純哉は思う。
「上手くやれてるっていうか、普通」
「へー。やっぱり男の方が人生イージーだよね」
 その物言いにイラッとくる部分もあったが、純哉は何の反論もしなかった。それを言う純礼の目が、じっとこちらを見つめていたからだ。そこから逃れなければ、と純哉は思う。
「女はどれだけ頭良くてもキツいから」
 およそ聡明さなんて感じ取れない口調で言い、純礼は再びソファーに沈み込んだ。
 それから少しして純礼は高校を退学し、更に内に籠もるようになった。
 純礼の世界は更に狭まっていった。胎内に眠る、子供のように。

 子供を殺してほしい、という衝撃的な依頼を受けてからも、しばらく車は走り続けた。
「あの……どこまで……」
「ちょっと車酔いしてきたから、黙っておいて」
 嘉奈島羽海はさっきとはうって変わって不機嫌そうにそう吐き捨てると、目を閉じた。放り出されたような形になった純哉は、黙って彼女の顔を見つめ続けた。腹の方は見られなかった。あまりに恐ろしかったからだ。
 一時間ほど経った後、純哉はそのままあっさりと家の前で降ろされた。
「それじゃあ、やってくれるんだったら、よろしく」
「待って。これからも定期的に連絡を取るのか、僕らは」
「さあ。産まれてから連絡を取っても別に遅くは無さそうだし。それとも、もしかして私に会いたいとか?」
 なんと答えていいか分からなかった。黙り込んだままの純哉に対し、嘉奈島羽海はつまらなそうに溜息を吐くと「必要だったら、私からこうしてピックアップしにくるよ。あんまり頻繁に会ったりしてマスコミに嗅ぎつけられてもやだし。ほら、それこそ蓮司にも気取られたくないしね」と言った。
 そう言う嘉奈島羽海の表情は真剣だった。それは、純哉が初めて触れた種類の真剣さで、彼女が本当に夫にこのことを知られたくないのだと──そう思わされるものだった。
 その時、純哉はふと夫の前で泣いている嘉奈島羽海の姿を幻視した。頭のおかしいファンに愛する子供を殺され、錯乱して泣いている嘉奈島羽海。それを甲斐甲斐しく慰める末野蓮司。もう二度と子供を望むとは言えないような状況に、末野蓮司はきっと『改心』する。
 そうして嘉奈島羽海は、安穏とした生活を手に入れるのだ。
 もう彼女のことを誰もが脅かさない生活を。
 車を降りる時は、まるで放り出されるみたいだった。ここでの接触を無かったことにするような、無味乾燥とした手つき。縋るように振り返ったことが、純哉には無性に悲しかった。
「それじゃあまた。本当に期待してるし──頼れるのって今、瑞地くんしかいないから。それじゃ」
 それだけ言うと、嘉奈島羽海を乗せた車は夜に紛れて消えていってしまった。残された純哉は、しばらく家に入れなかった。暗い道に立ち竦んで、荒い息を吐くしかなかった。

 

(つづく)