*
純礼は純粋無垢な目で嘉奈島羽海のことを見つめていた。
「すごくない? この羽海ちゃんマジで神がかってる。ビジュも好きだけど、声がめちゃくちゃ心に残るの。純哉も一回聞いてみなよ。絶対いけるから。お母さんですら好きって言ってたし」
早口で語る純礼を見て、純哉がまず覚えたのは嫌悪感だ。家から出なくなって久しい野暮ったい純礼と、テレビの中の羽海はまるで違って、同じ生き物とすら思えなかった。どうしてあんなに輝いている存在を、純礼のような人間が素直に応援出来るのか分からなかった。
母親は適当に話を合わせているだけだ。そんなもん見て本当に楽しい? 流行りに流されてるだけじゃないの? と言いたいところを堪えて、テレビの嘉奈島羽海を見る。知っている顔なのに、全くの別人だ。
純礼も母親も、嘉奈島羽海が同じ中学に通っていたことは知らないようだった。二人とも、自分達のことでいっぱいいっぱいだからだろう。地域で噂話にもなっているだろうし、調べたら簡単に手に入るような情報すら、二人はまともに手に入れられない。そんな根気はこの親子にはない。
だから敢えて黙っていた。嘉奈島羽海と面識があることを。ここで話を発展させたところでろくなことにはならない。世間知らずの純礼が電話を掛けてみろだのと騒ぎ出し、厄介なことになるのが目に見えていた。
純哉は溜息を吐いてソファーに座り、純礼と一緒に嘉奈島羽海を見た。
嘉奈島羽海は輝いていた。声が耳に残り、中学校で純哉が見ていた嘉奈島羽海を上書きしていく。そこにいたのは本物の偶像で、素晴らしい意味で人間味が欠けている。
純礼はまるで嘉奈島羽海が目の前にいるかのように、彼女に声援を送っていた。その横顔を純哉は盗み見ていた。そしてうんざりもしていた。これから本当に酷いことが起こるなんて、全く想像もしていなかったからだ。
*
「当ててあげようか」
突然羽海にそう言われ、純哉は弾かれるように彼女の方を見た。意識が過去に持って行かれ、羽海の家で彼女と一緒にいることすら、何かの間違いのように感じられた。ひんやりとした夜の空気の中で、純哉は尋常じゃない程の汗を掻いていた。
「……何を当てる? つもり?」
「お姉さんさ、死んでるでしょ」
血液型を当てる時のような気安さで言われ、天地がひっくり返りそうになった。こんな反応をしたら肯定しているも同然だ。けれど、どう取り繕えばいいか分からない。
「なんでそう思った?」
咄嗟に言った。
「いや、なんでかって言われると難しいけど、そんな風に引きずってるってことはさ、大抵死んでるでしょ」
じわじわと首を絞められているような気分になり、うずくまりそうになってしまう。羽海の言っていることはそうなのかもしれない。純哉は今まで姉のことをまだ生きているものとして他人に話していたけれど、その下手な嘘を笑われながら生きていたのかもしれない。
その可能性が、あまりにも恐ろしい。
「すごいよ、当たってる」
純哉は思わず言った。先程と同じように勝手に言葉が出た。言葉の響きは乾いていたけれど、確かに羽海の耳には深く響いたはずだ。
「自殺したんだ。だから、あんまり人には話さないけど、死んだ」
「あー、なるほどね」
羽海はこの話題に対して距離を測りかねているのか、訳の分からない返答をした。
純礼の自殺について他人に話したのは、今回が初めてだった。それまではずっと隠していた。隠し通せていた。純礼はずっと引きこもっていたし、純哉はある時から姉の存在そのものを隠すようになっていたからだ。
意外なことに、羽海はあからさまに戸惑っているようだった。この反応は全く予期していないものだ。何しろ、あの嘉奈島羽海だ。子殺しのことを平気で口に出来る羽海が、どうして他人である自分の姉の自殺に戸惑うのだろう?
純哉は回らない頭で、それでもこのチャンスを掴んだ。
「嘉奈島さんの家族にも、自殺した人がいる?」
本来なら段階的に尋ねるべきであろう話を、純礼の死を踏み台にすっと持ち出すことが出来た。
「いや、いない」
案の定、嘉奈島羽海はインタビューとはまるで違う様子で、すんなりと口にする。どこまで踏み込めるかは分からない。けれど、やるしかなかった。彼女が頑なに話すことを拒んできた家族のこと、恐らくは羽海が自分の子供を殺したいと思うに至った理由に繋がること――その一端に触れる為に。
「さっきの感じからして、嘉奈島さんも家族を亡くした経験があるのかと思った」
「や、そういうわけじゃない。なんか、ちょっと無神経な話をしたかもしれないね、でもネタにしたとかじゃないから。なんとなくそう思ったから言っちゃっただけで」
「分かってる。けど、……ねえ、嘉奈島さん」
心臓が鈍く痛んだ。あまりの緊張のせいだと思った。
「お父さんとかお母さんとか、亡くしてる?」
「両方死んでる。小さい頃に」
ばっさりと拒絶するかのように、嘉奈島羽海が答えた。
純哉の魔法のような攻勢は終わってしまった。急に羽海のことを根掘り葉掘り聞こうという気が無くなり、どんどん萎んでいってしまう。羽海がその回答で以て、明確に純哉を『拒絶』してきたからかもしれない。
「言っておくけど、私の家族のことと私の考えには何の関係も無いから」
羽海は追い打ちを掛けるように言った。まるで、手負いの獣が威嚇の為に発した咆哮のようだった。
「これだけは、勘違いされたくない。私の気持ちも、考えていることも、全部私のものだから。他の何かのせいにされたくないの。お父さんのこともお母さんのことも、私の考えとは関係無い。それを分かってくれないなら、瑞地くんも結局、私を理解出来ないことになる」
「分かった。分かったから」
「分かったって言う人間が、本当に分かってることの方が少ない」
羽海は馬鹿にするように笑った。
腹は立たなかった。嘉奈島羽海がそれを口にしながら、明確に傷ついていることが分かってしまったからだ。
いくら純哉でも分かる。嘉奈島羽海が今、酷く怯えて虚勢を張っていることが。
純哉の場合もそうなのだろうけれど、人は怯えている時や傷ついている時に、最もその人の本質が出るのだろう。純哉が純礼の話を持ち出された時や、羽海が両親の──恐らくは父親の話を出された時と同じように。
「……僕は嘉奈島さんのことは、何も分からない」
差し当たって、純哉はそう言った。この間抜けで狂気的な子供部屋の中で、嘉奈島羽海をどうにか宥めなければいけなかったからだ。嘉奈島羽海が島の子供達と接して起こした放送事故を、純哉は連想する。こうなると羽海はきっと、見境を無くしてしまう。まずは彼女を『理解』しなければならない。
「でも、嘉奈島さんが言うことは信じるし、話も聞く。だから、そこは心配しなくていい」
「本当にそう?」
「信じられなくてもいい。少なくとも今の僕は嘉奈島さんに協力する姿勢を見せてるし、嘉奈島さんが言っている子供を殺したいって話も否定してない。嘉奈島さんのやろうとしていることにこれほど手を貸せる人間は他にいないと思う」
純哉の本音だった。大抵の人間は嘉奈島羽海の提案を聞いただけで嫌悪感を示し、そんなことはすべきでないと彼女を説得しようとするだろう。
だが、純哉は絶対にそんなことはしない。
「まあ、この会話を録音されてマスコミに売られたら、私一発アウトだからね。それをしないだけ、瑞地純哉は私の話を真面目に聞いてることになるのか」
「もしかしたら誰も信じないかもしれない。嘉奈島羽海がこんなこと言うはずないって」
「そっちの方がむしろ怖いな」
羽海は、いつも通りの何の憂いも無さそうな笑顔を浮かべた。その笑顔で以て、二人の間のわだかまりは一度無かったことになる、と取り決めたようでもあった。純哉は頷いた。
少しの沈黙があり、今度は羽海がじっと見つめてきた。それは自分のことを試しているというよりは、こっちの出方を窺っているような表情だった。
「何? 何で見てるの?」
「あのさ、」
嘉奈島羽海はきっぱりと言った。
「私とヤりたいと思う? そういう意味で私のこと好き?」
(つづく)