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 稗田の家は片付いている分、殺風景だった。部屋で目立つのは夫のものと思しき仏壇くらいのもので、他はテレビと新聞の束だけが部屋の構成物だ。あまり裕福な生活をしているようには見えなかった。かつて借家として出していた家に自分が住んでいることを思えば、経済状況は想像出来る部分もある。思えば、稗田は六十代頃だろうに、格好が不自然に若かった。襟のよれた花柄のシャツは、彼女が十数年以上同じ服を着ていることの証かもしれない。

 稗田のことに引っ張られそうだった思考を、嘉奈島羽海に戻す。彼女の暮らしていた家に上がることが出来たのは、想像以上の幸運だった。

 この慎ましい家に嘉奈島羽海が住んでいたのだと思うと不思議な感覚だった。リビングと和室が繋がっている、極めて一般的な間取りだ。想像していたよりも狭いが、小さな子供と父親が二人暮らしをするのには充分だろう。

 二人分の茶を運んできてから、稗田はおもむろに切り出した。

「嘉奈島さんのところの羽海ちゃんね。あの子、話せることが本当に無いの」

「話せることがない?」

 純哉は思わずそのまま繰り返してしまう。さっき、山根から聞いた話では、嘉奈島羽海は地元の有名人だったはずだ。父親も羽海を溺愛し、あまり近隣住民とも関わらせなかったと。そこで純哉は気づく。あれは羽海の話じゃなく、父親の話だったのか。

「お父さんが羽海さんに対し……その、やや過保護だったからでしょうか」

「過保護? うーん、過保護、と言っていいのかもわからない。過保護だったのかもしれないけれど、それは一人娘だもの。男手一つで育ててたら多少過保護にも思われるわ。それを言われたらお父さんが可哀想よ」

 言ってから、稗田が少し黙った。これから自分が言うことに、やや躊躇いを覚えていそうな表情だ。純哉は焦らずに、言葉を待つ。

「あの子自体が、ちょっと怖い子だったから」

 少し声を潜めて、稗田が言う。まるで、誰かに聞かれるのを恐れているかのようだった。純哉は、ここに羽海が聞き耳を立てているところを思わず想像してしまう。

「怖いというのは、何か彼女に異常なところが見られたとか、そういったことでしょうか」

「それはどうかわからないけど……」

 そう前置きをしつつも、稗田は滑らかに語り始める。

「羽海ちゃんはお父さんと二人暮らしで……普段はとても仲が良かったの。けれど、ふとしたきっかけで信じられないくらいお父さんに敵意を剥き出しにすることがあって。手をつけられないくらいお父さんの前で暴れているのもよく見かけた」

「でも、その時の羽海さんはまだ子供ですよね。子供の癇癪なんて珍しくもない」

「そういうレベルじゃなかったから、記憶に残っているのよ」

 稗田はぴしゃりと言った。小学生くらいの子供がいかに大人の手を焼かせるかを知っている純哉は、少し慎重になる。ちょっと大人になった子供は、まるで狐にでも憑かれたのかという具合で荒れる時がある。稗田が『敵意』とまで言うというのは、本当に並々ならぬレベルだったのだろう。

「昔、この町で『雪の虫』っていう映画の撮影があったの。知ってる? 男の子の方は有名なアイドルグループの子だっていうし、女の子も売り出し中の子で。そんな子達が来るっていうんで、町はお祭り騒ぎになるくらい盛り上がったのよ」

 今度ははっきりとタイトルが上がった。間違いなく、掲示板に貼られたポスターの映画だった。

「羽海ちゃんは結構ミーハーというか、テレビっ子だったのね。だから、撮影現場に行きたい、なんならエキストラをやりたいってお父さんに言って、結構揉めたらしいの。お父さんはお父さんで、子供にねだられたのに意固地になって、羽海ちゃんのお願いを聞いてあげなくてね。羽海ちゃんの泣き声が道まで聞こえてたくらい」

 泣き声を山根が聞きつけて、羽海を連れ出すきっかけになったのだろう。

「ここへやってくるくらいだから、あの山根とかいう男と話をしたんでしょう? 信じられない。まともな親だったら、山根のやったことは許せないって思うでしょう。人様の家の子になんてことを……」

 純哉は「先程、ご本人からは意図をお伺いしましたが」と前置きをしてから答える。

「それを考慮にいれても、やはり山根さんがやったことは誘拐に近いと思います。いくら近所の子供の願いを叶えてあげたいと思ったとしても、度を超している」

「そうして山根のところで何を吹き込まれたのか、羽海ちゃんはそこから更にお父さんと不仲になっていったように見えたわ。大方、願いを叶えてくれる山根は正しくて、撮影に連れて行ってくれなかったお父さんは悪いとか、そういう話をしたんでしょう。羽海ちゃんがお父さんへ不信感を覚えるようになったのは、あの男のせいよ」

 稗田はそう断言した。

「そうして、中学に上がる前に羽海ちゃんはお父さんと一緒に本州に引っ越していった。表向きは事業に失敗したから、と言っていたけれど、本当は折り合いの悪くなった羽海ちゃんを親戚のところに押しつけにいったんだと思う」

 段々と稗田の口調に熱が籠もっていく。知らず知らずのうちに、稗田にはもう完璧なシナリオが出来上がっているようだった。

「そもそも、あの子とお父さんは血が繋がってないんじゃないかとはよく噂されてたしね」

「え?」

「羽海ちゃんとお父さん、本当に似ていなかったのよ。何度見ても親子には思えないくらい。だからよく、どこかから連れてきた子なんだとか、親戚の子を預かっているんだとか、そういうことを言われていたわね。お父さんがよく血の繋がりを強調する人だったから、余計に」

 また一つ、知らない情報が──核心に近づいていくような情報が、出てきた。

 羽海は、父母は小さい頃に死んだと言った。現に、彼女の母親は亡くなっており、父子家庭で育てられていたという証言が出てきた。

 もし『父親が亡くなった』というのが、嘘ではないのだとしたら。

 嘉奈島羽海は一体誰に育てられていたのだろう。

 

 

 お父さんに怒られた。カーテンを開けていたからだ。

 どうしても撮影が見たくて、でも外には出してもらえなくて、だから窓から眺めるだけで我慢しようと思っていたのに。それなのに、お父さんはただカーテンを開けていただけですごく怒った。怒ったのもそうだし、ちょっと泣いてもいた。お父さんが泣くのは全然見たことがなくて、私はそれがなんだか怖かった。私がお父さんを泣かせてしまったんだ。

 でも、お父さんが泣いてるのを見ていると、ごめんなさいと思う気持ちと、なんで私の気持ちは無視して、お父さんの思い通りにしようとするんだろうという気持ちが一緒になってしまう。

 それに、もういいかという気持ちもあった。

 私はお父さんを泣かせるようなことをしちゃったんだ。

 だから、もう外に出て撮影を見に行っちゃっても同じなんだと思った。

 私はどうしても撮影を見に行きたかった。

 だから、私が自分で外に出たら、私の気持ちが伝わるかと思ったんだ。私は自分で行きたいところに行ける。お父さんがいなくても。

 

 

 稗田には財布に入っていた紙幣を三枚も抜いて包んだ。ちょっとしたご祝儀のような額になったそれを、稗田は本当に嬉しそうに受け取る。機会があったら、稗田はまた同じように嘉奈島羽海の情報を売るのだろうか。けれど、彼女がどんな暮らしをしているかを考えたら、責める気にはなれなかった。

 稗田から話を聞き終えると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 時間があったら天売島に渡ってウミガラスを見に行こうと考えていたのだが、この時間だともう船は出ていないだろう──と、純哉は思う。

 嘉奈島羽海の中で、思わずインタビューで話してしまうほど印象深かったウミガラスのことを、自分の目でも確かめたかったのだ。

 諦めて羽幌町に帰る方法を検索しようとスマートフォンを見た純哉は、思わず息を呑んだ。

 三十分ほど前に、鶴見瑠菜が緊急搬送されたという連絡が入っていた。

 

(つづく)