「結局、この二人からはまるで正しい情報を得られなかった。それどころか、稗田は彼女の話に最もぴったり嵌まるように、嘉奈島鴻一が事業に失敗して本州に渡ったらしいと吹聴された」
「瑞地くん、あっさりそれに騙されたの?」
「何も知らなかったから飛びついたんだ」
本当は、山根も稗田も、最初に話を聞いた『ファン』である知夜とまるで変わらなかったわけだ。話を聞いたばかりの純哉は、まさか都合の良いように話が作られているだなんて想像もせず、勝手に嘉奈島羽海の内面に触れられたような気分でいた。
そんなことはまるでなかったというのに。
それでも、やはりあの場に行って話を聞いたことは無駄じゃなかった。彼らが当たり前のように嘉奈島羽海との思い出を捏造し、好き勝手に嘉奈島親子を語ることこそが、純哉が目の当たりにしなければいけない事実だったからだ。
もし彼らが嘘を吐く様を直接見ていなかったら、純哉は疑えなかったかもしれないのだ。
「ウミガラスも見に行ったよ。海鳥センターでウミガラスの模型くらいしか見られなかったけど。君達親子もセンターによく通っていたんだよね?」
「何しろ、ウミガラスを見るにはあそこに行くしか無いから。野生で見られるのは稀だから、一般人が見るならそこに行くしかないよね、普通に」
「そこで、昔の寄付名簿から君のお父さんの名前を見つけた。嘉奈島鴻一氏は、事業を失敗したと噂された後であっても、ウミガラスの繁殖事業に対して寄付をしていた。その点から、事業の失敗も、本州に渡った理由も、本当は嘘なんじゃないかと思うようになった」
「寄付名簿か。そういえば、別に金持ちってわけでもないのにしてた覚えがある。それで本当にウミガラスが増えるのかどうかも分からないのに」
「それで、結局この名前の情報と、寄付を行うくらいウミガラスを愛好していたことから、嘉奈島鴻一氏の昔の知人にあたることが出来た。それで嘉奈島鴻一氏が生きていることを知って、君は家族にトラウマなんか抱いていないんじゃ無いかと思ったんだ」
「酷い事実が明らかになるようなら、絶対にマスコミが発表するだろうから? なるほどね」
嘉奈島羽海は採点でもするかのように頷いて、大きく溜息を吐いた。
「随分色々調べたんだね」
「そうしないと、納得出来ないと思ったから。納得しないと、僕は君の子供を殺すことが出来ないと思ったから。君が子供を殺したいと思うほど家族にトラウマを抱いている理由を知れば、納得して殺せるだろうと思ったから」
今思い返してみれば、それがどれだけくだらないことか分かる。納得しなければ動けないのなら、引き受けなければよかった。嘉奈島羽海は助けを求めていた。納得に足る理由がなくても、その助けに応じるかどうかだけが大事なことだったのに。
「でも、納得するだけの理由なんて無かった。だから、君はずっと苦しんでいたのに。僕は何も分からない馬鹿だった。納得に足る理由があるなら、君はこんなに苦しんでなんかいなかった」
理由。理由こそが嘉奈島羽海をこの地獄から救ってくれる。嘉奈島羽海は子供を絶対に持てないトラウマがあるから。そのトラウマを目の当たりにすれば、自分が必ず協力しなくてはならないような、壮絶なものが。
そんなものがあるのなら、嘉奈島羽海は純哉なんかに助けを求めなくて済んだはずなのだ。彼女をこんな地獄に閉じ込めることにはならなかったはずだ。この部屋から出られないのは、誰かが助けてくれる理由が無いからだ。
「理由なんか無い。父親との関係は、普通だった。家族にトラウマなんて抱いていない。とても仲が良かったわけでもないけれど、険悪なわけでもなかった。君が子供を殺したいと思った理由は、父親との関係には無い。そもそも理由は──無いんだ」
その時、嘉奈島羽海が初めて穏やかに笑った。
純哉には向けられたことのなかった、初めて理解者を見つけた時のような、安心しきった笑みだった。嘉奈島羽海が歌手としてこんな表情を浮かべたことは、今まで一度も無かっただろう。
これが、嘉奈島羽海の本物の笑顔なのだ。
「そうだよ。というか、瑞地くんがそんなことで悩んでたなら、すぐに言ってくれたらよかったのに」
「そうしたら、君はちゃんと理由を言ってくれていた?」
「子供が嫌いだから、とは言ってたじゃん。それが理由だったから、言っても何も伝わらなかったかもね」
嘉奈島羽海の瞳に、少しの絶望が滲む。純哉は今すぐ彼女に土下座して謝りたくなった。何も分かろうとしなかった自分を殺してやりたかった。彼女はちゃんと伝えてくれていたのに、それを受け止めなかったのは自分だ。その度に、嘉奈島羽海はどれだけ傷ついていたことだろう。
「子供が苦手なんだよ。産みたくない。家族になんかなりたくないし、私は夫が居ればそれでいい。それだけのことが、誰にも理解出来ないみたいだ。だから私は、もうこんな方法しか思いつかない」
嘉奈島羽海が大きく膨らんだ腹を無表情で撫でる。その様は、きっと慈愛に満ちた母親の肖像と解釈されるだろう。実際は、自分の中に巣食うものに対しての忌避感しか無いのだとしても。
「本当に遅くなってごめん。もっと早く理解すべきだった。君は本当にギリギリのところで救いを求めてくれていたのに」
「いいよ。どうせ理解されない。世間の人が納得するような正しい理由があれば助けてもらえたのかもしれないけど、私にはそれが無かった。お父さんは私には勿体無い人だよ。でも、そこまで気が合う人でもなかったし、病気になってからは私のこともよく分からなくなってたから疎遠になった。嫌いじゃないけど、心を預ける相手じゃなかった」
「ウミガラスを見に行っていた頃は?」
触れられたくないことかと思っていたが、意外にも嘉奈島羽海はむしろ懐かしむように言った。
「あの頃は楽しかったよ。というか、小さい頃のお出かけなんて、どんなことでも楽しいものじゃない? ウミガラス、見たことあるんだ。何回かツアーに参加して、その度にどうせ見られないんだからってふてくされてたけど、いざ見られた時には心の底から感動した。だから、それからお気に入り。この話をしたら、あの頃ツアーに通っていましたって言い出す人が出てきそうだったから、人前では話さないようにした」
正しい判断だ。事務所も嘉奈島羽海も公表したくないと思っているのなら、過去に繋がるような事は絶対に口にしない方がいい。
「お父さんと本州に渡った後はまあまあ大変だったんだ。お父さんの仕事、そんなに上手くいかなかったし。そこでお父さんがあんまり私をかまえないからって、親戚に預けられることになって。生活費は入れてもらってたし、親戚とも関係悪くなかったから、別に酷い生活ってわけじゃなかった」
「それからお父さんとはあんまり関わらないまま?」
「自分でやってた会社は、結局早々に売り払うことになってたかな。でもそれで肩の荷が下りたみたいだった。で、私が歌手デビューしたらへんで、ちょっと連絡を取った。おめでとうって言ってもらったけど、ライブとかは呼んでない」
「そうだったんだ」
「親に自分の歌聴かれたいかどうかって、結構分かれるでしょ」
嘉奈島羽海がなんでもないことのように言い、笑う。
「で、そこから忙しくなって、お父さんは全然仕事続けてたんだけど、ある時から認知症の症状が出始めて。私、お父さんが歳取ってからの子供だから、思ったより早いなとは思ったけど納得感もあった」
「その後は、お父さんを施設に任せた、で合ってる?」
「合ってるよ。私は世話が出来る状態じゃなかったから。それから投薬で様子を見てたけど、今はもうあんな感じ」
嘉奈島羽海が苦笑する。
「それじゃあ、私の為に駆けずり回ってくれた瑞地純哉くんの為に、ちょっとだけ本当の話をしてあげよう」
「本当の話?」
(つづく)