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(承前)

 

 学年主任からの知らせに、純哉の心に最初に過ったことは『折角北海道まで来たのになんてことをしてくれたんだ』だった。曲がりなりにも教師なのに、あるまじき考えだと思う。けれど、素直な気持ちはどうしようもない。折角嘉奈島羽海の心に迫ることが出来そうなのに、どうしてこんなところで邪魔されなくてはいけないのか。

 純哉は大きく息を吸って吐き、気持ちを落ち着かせてから折り返しの電話を掛けた。学校は鶴見瑠菜のことでかかりきりになっているのか、すぐに電話が繋がった。

『あ、すいません瑞地先生。お休み中に本当に申し訳無いです』

「大丈夫ですか。何があったんですか?」

『休暇中に本当に申し訳ない。ただ、瑞地先生が一番鶴見瑠菜にちゃんと寄り添っていたことを思うと、お伝えしておかないわけにもいかなくて』

 勿体をつけた言い回しで告げられたのは、要するにこういうことだった。

 恋人は籍を入れ、相手の親にも認められており、子供は十分なサポートを受けて育てられる、と豪語していた鶴見瑠菜だったが、実際は認めるどころか交際にも出産にも反対しており、鶴見瑠菜の家に乗り込んで酷く揉めた。

 その結果、鶴見瑠菜は家を飛び出し川に飛び込んで自殺を図ったらしい。

 幸い、目撃者が多くいたこともあって鶴見瑠菜はすぐに救急車で搬送されることとなった。詳しいことはこれからだが、現状、命に別状は無いという。ただ、子供の方はどうなるか分からないそうだ。

『あれだけ産みたがっていたのに気の毒だと思うけど、咄嗟に自殺を図っちゃうようじゃ、母親として到底やっていけないでしょう。そのことが分かっただけでも、良かったのかもしれませんね』

 学年主任の言い分は尤もだった。いくら責められて辛くなったとはいえ、子供にまで危険が及ぶようなことを、鶴見瑠菜は絶対にするべきじゃなかった。

 これで、鶴見瑠菜のことを擁護したり、応援したりする人間はいなくなるだろう。母親としてあまりにも不安定すぎるからだ。元より光陽高校の先生たちの中で、鶴見瑠菜の子育てを応援していた人間は純哉の他にいない。風向きは悪くなる一方なはずだ。

 そもそも、川に飛び込んでお腹の中の子供が無事だとも思えない。ちゃんと産まれてくる確率は著しく低くなっただろう。そのことを嘆く鶴見瑠菜のことは容易に想像出来たが、何故かその方が明るい想像に思えてならなかった。

 考えてみれば予想出来たことではあった。何しろ、上手くいきすぎている。誰が高校生のカップルの妊娠を受け入れて祝福するだろう? 世の中にはそういう親だっているのかもしれないが、あまり多くはないはずだ。

 ましてや、鶴見瑠菜のあの不安定な態度。思い込みの強そうなところ。意固地になって産むと言い張る姿勢は──味方がおらず、意固地になっている子供そのものだった。

 わざわざ純哉を選んで相談を持ちかけてきたところにも、その片鱗があった。鶴見瑠菜はよっぽど追い詰められているのだろうと、それだけで分かってしまった。

 あまりにも見る目が無さ過ぎる。もしかすると、純哉の心の奥底にある、たとえようもない嫌悪の気持ちが、追い詰められて胎児を呪う鶴見瑠菜の心に共鳴したのかもしれないが。

 電話を切ってしばらく、純哉は鶴見瑠菜のことについて考えていた。羽幌町に戻って宿についても、まだ目を覚ましていないであろう彼女に思いを馳せた。鶴見瑠菜は目が覚めたらまた、自殺未遂を起こすのだろうか。それとも、冷静になって子供の為に思いとどまるのだろうか。

 純哉は夕食に、珍しく酒を飲んだ。これから迫ってくる悪夢を遠ざける為だ。鶴見瑠菜の話を聞いたせいで、きっとろくな夢を見ないだろうという確信があった。

 けれど、酒は純哉の救いにはなってくれず、純哉は断続的に明晰夢を見た。今も純哉に纏わり付いて離れない、瑞地純礼の夢だ。

 純哉は目を開け、汗だくのまま起き上がり、悪夢に降伏したかのように純礼のことを思い浮かべた。純礼の卑屈でつまらなそうな声が、純哉の耳に響く。

 

 純礼が恋人を作ってから、ほんの一時の間だけ、純哉の家は平和だった。どうしようもない事実の前に成り立つ、仮初めの平和だった。

 予想通り、純礼の恋人──宮村笙はろくなものじゃなかった。純礼のような社会経験に乏しい人間に手を出すような男なのだから、分かっていたことだった。

 怪しいと思いながらも純礼の交際を黙認していたのは、純礼が外に出てくれているのがありがたかったからだ。母親は本来なら、ネットで出会った男と付き合うなんて許したりはしなかったはずだ。だがそれが通ってしまうくらいに、母親はすっかり疲弊していた。

 純哉もそうだった。面倒な純礼が家に居ない方が、家庭の中の風通しはずっと良かった。多少趣味の悪い男でも、彼は家に安寧をもたらしてくれていた。そのことが嬉しかった。

 侮っている部分もあった。純礼のやっている恋愛ごっこは、母親への依存や自分への依存のような一過性のもので、どうせ長続きはしないだろうと。純礼にそんな『本気の感情』なんか存在しないはずだと。ある意味で、純哉は純礼の全てを舐めていた。およそ人生を真面目になんか生きていない女が、少しの時間、男に弄ばれたところで大した痛手にもならないはずだ。そう侮った。

 瑞地純礼のことをちゃんとした人間だと思っていなかった。それが純哉の間違いだった。

「最近、笙くんが冷たいんだよね」

 最初はそんな他愛の無い相談だった。どこにでもあるような相談だ。純哉がそれを聞いてまず思ったことは、また純礼による新しい遊びが始まったんだな、ということだった。世間一般の恋人達のように、誰かに彼氏の愚痴を言う。そういう遊びがしてみたくなったんだろうと。

 今振り返れば、プライドの高い純礼が、いくらごっこ遊びでも彼氏の相談なんてするはずがない。あれは、純礼にとっての最大限のSOSだったのだ。

 そんなことも知らずに、純哉は酷くつまらなそうに答えた。

「へえ。倦怠期じゃないの。なんか、付き合うのに飽きたとか」

「そういうんじゃない。だって、笙くんは真剣な付き合いしかしない人だから。でも……」

 純礼が口ごもる。そして、小さく言った。

「なんか、最近あんまり会ってくれなくて」

 言われてみれば、最近の純礼は外出が少なかった。それまでは殆ど毎日のように宮村笙に会いに出掛けていたのに、近頃はリビングのソファーで苛立たしげにスマホを眺めるばかりになり、母親も気を揉んでいた。

 この頃の純哉は丁度大学受験を控えていて、純礼のそういった変化を単に自分の勉強の障害としか捉えていなかった。さっさと彼氏が純礼を引き受けてくれたら、自分はちゃんと勉強に集中出来るのに、と。

「連絡しても忙しいって流されるばっかりだし。前はどれだけ忙しくても返信を優先してくれたのに」

「そんなの本当に忙しいんだろ。お前はわかんないだろうけど、ちゃんと仕事に就いてる社会人はニートには合わせらんないくらい忙しいんだよ」

 未だにまともな職に就いていない純礼を当てこするように、純哉はそう吐き捨てた。純礼は一瞬顔を歪めたが、立ち去る様子もなくじっとソファーに座っていた。怒りよりも話を聞いてほしい気持ちが上回ったようだった。

「でも、笙くんって公務員なんだよ? 繁忙期はあるって言ってたけど、そんなに変わるかな。というか、前に言ってた忙しい時期とも合わないし。上手く言えないんだけど、なんか前と違うんだよ。おかしいの」

「俺、彼女とかいたことないし、男側の心変わりとか分かんないわ。普通にずっと一緒にいたら飽きるってだけの話でしょ。ネットで会った年下の女ってだけで今までは新鮮で──」

「結婚の話が出てるのに?」

 その言葉で、一瞬時間が止まった。話半分で聞いていた純哉も、真剣に純礼を見てしまう。純礼は不安と興奮が綯い交ぜになった奇妙な表情のまま、純哉を見て固まっていた。

 

 

(つづく)