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「意味がわかんない! どうして連絡くらい返せないの? なんでこんな目に遭わされなきゃいけないのかわかんない! わかんない! もう本当に無理!」

 純礼がスマートフォンを壁に投げつけ、ヒステリックに叫ぶ。スマホの画面に亀裂が入り、母親が小さな悲鳴を上げた。

「何見てんだよ! さっさと新しいスマホ買ってこいよ! この間に笙くんから連絡来てフラれたらお前のせいだかんな! おい! 聞いてんのかよ!」

 理不尽な要求にもかかわらず、母親は飛び上がるようにして壊れたスマホを持って携帯ショップへと走った。その様子を見ていた純哉は、思わず言った。

「いい加減にしろよ。自分でスマホ壊したくせに当たり散らすとか、意味わかんないのは姉ちゃんだよ」

「はあ? あんたに関係ねーだろ偉そうな口利きやがって。何様のつもりなんだよ」

「同じ家の中で母親が虐待されてるの見たら、一応言うしかないだろ。いい加減少しはまともになれよ」

「はは、虐待か……これが虐待になるんなら、私が昔からやられてたことも誰か怒るべきなんじゃないの」

「よく言うわ。甘やかされてたくせに」

「あーもう本当にクソだわ。この家もあんたも死ぬほど嫌い。こんなんだったら産まれてきたくなかった。なんで産まれてきちゃったんだろ。産まれてこようなんて思ったことなかったのに」

 人間は産まれてきたくて産まれてくるわけじゃない、というのがスピリチュアルなものを一切信じていない純哉の考えだ。そんなことを言ったら、純哉だって産まれてきてよかったとは思わない。なんでこんなことに巻き込まれているんだろう、という他人事のような諦念が頭の中をグルグルと回っている。

 情緒不安定な姉と、過干渉な母親と、無関心な父親の中で息を殺して生きてきた自分は、まるで血の繋がりに呪われているようですらある。

「家族ってさ、マジで終わってるよね」

 ぽつりと純礼が呟く。その声が、今まで聞いたことのない声色で、少しだけ純哉は驚く。

「家族ってこんな逃げられなくてさ。キツくてキモいよね。こうやって縛っておかないと、人間なんてすぐ逃げるからしゃーないか。責任無いと逃げ放題だからさあ」

「縛る側が言うことかよ」

 純哉が言うと、何故か純礼は少し可笑しげな顔をして「まあねえー」と言った。

 純礼さえいなければ――。

 純哉は何度もそう思ってきた。しかしその顔を見ながらふと、純礼がいなくなった後のことを何一つ想像出来ないことに気がついた。

 程なくしてそれは想像するまでもない現実になるのだけれど、この時の純哉はそれを知る由も無かった。

 

 純哉の人生が決定的に変わってしまった日の夜は、大雨だった。

 純哉は元々低気圧に弱く、そういった天気の日は体が怠くて何をするにも億劫になった。鈍痛が頭を頻りに苛み、視界も霞む。

 起きているのも辛く、夕食後すぐにベッドに入ったような最悪の夜に、純礼は音も無く純哉の部屋にやって来た。

 姉の姿はまるで幽鬼のようで、最初は生きた人間がそこにいるとは思えないくらいだった。自分は酷い悪夢を見ているのだろうと思った。

 そのまま純礼は雨の音に紛れるように純哉のベッドに入ってくる。驚いて純哉は息を呑んだ。純礼が一年前とは比べものにならないほど痩せていることに、そこで初めて気がついた。

「何してんの。なんか話したいことあるなら、昼にしろよ。今何時だと思ってんだよ馬鹿」

「笙くん結婚する気無いんだって」

 唐突な言葉なのに、純哉ははっきりと意味が飲み込めた。以前からずっと分かっていたことだからかもしれない。宮村笙は純礼に本気じゃない。他ならぬ純礼だって、多分悟っていたことだ。あの夢見がちな母親ですら、もう信じていない気配がした。

 純礼の夢は終わってしまった。彼女は再び、何も持たない存在になったのだ。

 それなのにまだ、純礼の目は昏い復讐の炎を宿し、彼女を救ってくれる蜘蛛の糸を見つめているようだった。

「だからさ、笙くんって避妊とかも本当にちゃんとするの。万一子供が出来たら責任取らなきゃなんないからって。でもさ、責任って子供が出来なくても取ってもらいたいもんじゃないの。私の人生、本当に全部返してほしいよ。勘弁してほしい」

 純礼はまだ二十一歳だ。ちゃんと人生に向き合い、やり直す気にさえなればどうにでもなる。宮村笙だけが自分を救ってくれる存在じゃないと気づきさえすれば。

 ただ、もう純礼には力が残っていない。小学生から今までに、あまりに傷つきすぎてしまったのだ。他の選択肢なんか見えないに違いない。

「子供が出来れば、責任取ってもらえるんだよね」

 ぽつりと純礼が言う。それが、純哉にとっては何よりも恐ろしい言葉だった。

「笙くんの隙を狙おうとしたけど、無理だ。全然、子供が出来なくて。どうにかしないと、このままだと捨てられる。だから、もう動き出さなくちゃ」

 純哉の背が粟立った。純礼が何をしようとしているのかが、その言葉で理解出来てしまったからだ。

「だから、もうあんたに頼るしかないんだよ。だってこれ以外どうすりゃいいの? 子供さえ出来たら、笙くんは家族になってくれる。誰の子かバレなければいい。隠し通してみせる、だから……」

「ふざけるのも大概にしろよ!」

 叫びながら、純哉は純礼の身体を思い切り蹴飛ばした。身体のことなんか一切考えずに、力強く。

 純礼は人形のようにゴロゴロとベッドから転げ落ちると、呻き声を上げながら何度も何度も咳き込んだ。その咳の音が母親の部屋まで届かないかと震えた。

「いっ……た、いったい、何すんの、酷いよ……」

「酷いのはどっちだよ! お前みたいなやつ、本当に無理だわ。人としてありえないだろ」

 体格差では負けるはずもないのに、純礼に組み敷かれるところを想像するだけで身が竦んだ。身体の震えが止まらない。純礼は完全におかしくなってしまっていた。恋人に捨てられない為に、実の弟と関係を持って子供を作ろうとする? まるで理解が出来なかった。

 子供が出来れば責任を取ってもらえる。宮村笙と『家族』になれる。ただそれだけの理由で、純礼は自分と。

「出て行けよ! 二度と俺に近づくな。もし近づいたら……このことを言う。宮村にもだ。いいな」

 純哉が言うと、意外にも純礼は食い下がらなかった。ただ、所在なげな子供の顔をして、未練がましそうに純哉のことを見つめているだけだった。その表情を見た瞬間、純哉は一瞬だけ、純礼に酷いことをしてしまったんじゃないか、という罪悪感を覚えた。

 純礼はふらふらと立ち上がると、何も言わずに部屋を出て行った。

 さっきまで雨音がうるさいほどに響いていた部屋が、海の底に沈んだかのように無音になっていた。

 その中で、純哉は姉との繋がりが絶たれたことを悟った。

 

 

(つづく)