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 住所は、羽幌町から少しだけ離れた場所だった。バスで三十分ほど行った地名は、検索しても殆ど情報が出てこない。ここの名物料理店というのは少し無理があったかもしれない──と、純哉は後から反省した。そのくらいの規模だ。

 目当ての小学校の近くの掲示板には、また何かの写真が飾られていた。いつ貼られたものかも分からない古ぼけたポスターに、映画『雪の虫』の舞台となりました! という文言と色褪せたサインが残っている。主演二人はまだ現役のアイドルだった。

 どうやら、この町はこうして作品の舞台になることも多いらしい。冬には一面の雪景色になるということで、画にすると魅力的なのかもしれない。

 町には小学校が二校しかない。もし嘉奈島羽海がこの町出身なのだとしたら、彼女はどちらかに通っていたはずだ。そうしたら、おのずと嘉奈島羽海の生家もある程度の範囲に絞られるだろう。純哉は小学校教諭の免許も持っているおかげで、ある程度学区感覚のようなものがあった。

 小学校自体はどこにでもある変哲の無いものだった。純哉が通っていたものより大分規模が小さい。ここに羽海が通っていたのだとしたら、かなり目立ったのではないか……と純哉は思う。

 まだ授業中なのか、校庭に児童の姿は見えない。純哉は本来の目的も忘れて、しばらく校庭を眺めた。

 思い出すのは純礼のことだ。

 純礼と小学校に通っていた頃、純哉はよく途中で置いて行かれていた。歩幅の違う純哉が信号機に引っかかってしまっても、純礼は気にせずすたすたと歩いて行ってしまうのだ。小学校までの遠い道のりを姉の背を追いながら歩いていると、すごく不安だったのを思い出す。純礼はこちらを全く振り返らなかった。純哉がいてもいなくても気づかないんじゃないかというくらいに。その頃から死ぬ時まで、純礼は純哉のことをまともに見たことはないのかもしれない。

 このまま黙って校庭を見つめていれば、いよいよ純哉は不審者だと思われることだろう。ターミナルの男の危惧していた通りだ。そもそも、芸能人の生家を探して小学校の周りを歩き回っている時点で不審者には違いない。

 とりあえず動かなければ、と思いつつ歩き出した瞬間、声がした。

「嘉奈島羽海ですか?」

 あまりにも不躾な問いかけに、一瞬戸惑う。意を決して振り返ると、そこには先程の男と同じくらいの年かさの男が立っていた。ただ、さっきの男とは違い、深くなった皺にはまるで親しみが感じられず、曲がった背には卑屈さが見て取れた。同じ年頃でこうも差が出るのか、と思ってしまうほどである。

「嘉奈島羽海でしょ。たまーに、ここ、うろついてるから。同じようなやつが」

 文節をやたら区切った話し方だった。男は身体を揺らしながら純哉に近づいてくる。

「こうしてパトロールしてると、結構見かけるんだよ兄ちゃんみたいなの」

「パトロール……? ボランティアですか?」

 純哉は先程の男を思い浮かべながら尋ねる。

「ボランティアっていうか、自主的にやってるだけだわ。やることもないしさ、年金でさ、暮らしてるとさ」

 男は何がおかしいのかけらけらと笑っている。適当に話を切り上げようと思ったが、嘉奈島羽海という名前を出されたことが気になった。

「兄ちゃんみたいなのがさ、何が楽しいのか嘉奈島羽海の生まれた家とか見に行くんだよな。もう全然知らん人の家になってるってのに」

「嘉奈島羽海さんについて何か知っていらっしゃいますか?」

 純哉が尋ねると、男は待ってましたと言わんばかりに握手を求め、山根と名乗った。

「もし嘉奈島羽海について、なんか知りたかったら──」

 山根が言い終える前に、純哉はサッと作っておいた名刺を取り出す。

「私はフリーで記者をやっている者です。産休中の嘉奈島羽海について記事を書こうと思っておりまして、何か他と差別化出来るネタが無いかと思ってここまでやって来ました」

 刷っておいた『記者』としての名刺は全くの偽物だ。だが、初対面の山根にその嘘が見破られることはないだろう。興味本位と私欲で一人の人間のプライベートを暴き立てようとしているのだから、そう代わりない。刷り立ての名刺をしげしげと眺め、山根は一層嬉しそうな顔になった。

「あーなるほどなるほど。他社さんも来てたよ。あの子ってそんなに、人気あるんだね。ちっちゃい頃はさ、目立たなかったのに」

「そうなんですか」

 思わず食いついてしまう。純哉の目の色が変わったからか、山根は一層嬉々として話し始めた。

「俺ね、嘉奈島さんとこの、近所に住んでて、知ってるんだよね。あの親子のこと」

「お知り合いだったんですか」

「知り合いっていうか、有名だったからね、あの家。評判悪くてさあ。おっと、こういうの、陰口みたいになっちゃって、いけないね」

 話している内に段々と分かってくる。この山根という男は、嘉奈島羽海の情報を小出しにすることで自分の話を聞いてもらえるのが嬉しくてたまらないらしい。鯉に餌をやる時のようなニヤつきは、勿体ぶって話をはぐらかす純礼にそっくりだった。

 だからこそ、山根は毎日パトロールをしては、嘉奈島羽海のファンらしき人間を探しているのだろう。嘉奈島羽海がこの町出身なことが大っぴらに知られていないことを考えると、その打率は恐ろしく低いだろうに。山根は自分の話に食いついてもらうことに執着している。訳知り顔で話す時間の為に、パトロールを欠かさないくらいには。

 そこに現れたフリーランスの記者なんかは、格好の獲物だろう。話したくて仕方ないのが見ているだけでわかる。

「……有名、というのは?」

「かなりヤバかったんだよ。父親が、過保護っていうかさ」

 山根の口から直接『父親』という単語が出てきただけで緊張が走った。羽海は「父母は自分が小さい頃に死んだ」と言っていた。だが、少なくとも小学校までは生きていたわけだ。もしかすると『死んだ』という話自体が嘘なのかもしれない。

「嘉奈島羽海、羽海ちゃんはさ、すごく可愛かったんだよ。周りとはやっぱり、なんか、違うっていうか。それで、なんかこういう子は芸能界とか目指すのかなあ、って思ったんだよな」

「それで必要以上に過保護になっていたわけですか」

「そりゃもう、小学校通うにもほぼ車で送り迎えして、公園なんかにもあんまり行かせないみたいな。だからあんまり他の子とも、仲良かったイメージ無くてさ。一回、羽海ちゃんに挨拶しただけで怒鳴られたことが、あったかなあ」

 山根の話しかけ方が不躾で警戒されていた可能性も考えられなくもないが、それは確かに不自然のようにも思える。その過剰な反応は、島のロケでの嘉奈島羽海を連想させた。子供に話しかけられただけで、まるで身体に触られでもしたかのように嫌悪感を覚えていた嘉奈島羽海を。

「地元の厄介な親父って感じだったよ。なんか、いるだろそういうの。腫れ物みたいに扱われてるやつさ。あれだったね」

「そうだったんですか」

 嘉奈島羽海の人物像とそういった父親があまり結びつかず、純哉は軽く首を傾げた。本当にそれが、嘉奈島羽海の父親だったのだろうか。

 そこで山根はハッと目を見開いた。

「そういえば、あれもあった」

「なんですか」

「映画の撮影隊が来たことがあったんだよ」

 純哉は『雪の虫』のポスターを思い出した。あのポスターの古び具合を見るに、嘉奈島羽海が小さい頃の話なのかもしれない。

「だから俺、羽海ちゃんを誘って車出してさ。撮影隊のところに連れて行こうとしたんだよな」

「え? どういうことですか?」

「俺は羽海ちゃんを、撮影隊に見せたかったんだ。あの子、結構可愛かったしさ。もしかしたらスカウトされるかもしれないと思ってさ。良い考えだろ? 実際に羽海ちゃんは芸能人になったんだしさ」

 

(つづく)