自殺未遂をした女子生徒が個人的に教師へと連絡を取るなんてことは通常、あり得ない。だからこれは、きっと先生の誰かが、鶴見瑠菜がこれ以上馬鹿なことをしないよう、最悪の形で便宜を図ってくれたんだろう。『瑞地先生と連絡が取れたら、もう自殺未遂なんか起こさない』とでも言ったのだろうか。そういう言葉を真に受けそうな教師が、何人も思い浮かんだ。
勘弁してくれ、と思った。自分に誰かを踏みとどまらせる力なんてない。無いからこそ、純礼は死んだのだ。純哉に何もかもを押しつけないで欲しい。純哉には何も出来ない。教え子を救うことも、姉を救うことも、自分の好きな歌手を救うことも。
いや、最後のだけは出来るのか。自分さえ手を汚す覚悟さえあれば、嘉奈島羽海だけは助けられるのか。
永遠のような逡巡の中で、話は勝手に動いていた。
『先生、私がしたこと聞きましたか』
「……ああ。正直、なんてことをしたんだろうと……」
『でも先生は、理解してくれるんじゃないかと思いました』
鶴見瑠菜の声は酷く大人びて聞こえた。純哉が侮っている、考え無しの女子高生の声とは思えなかった。
『嘘を吐いてごめんなさい。というか、先生にはバレてたかもしれないですよね。妊娠して、それだけで責任を取ってもらえる方が珍しいですから』
「……いや、そういうことになったら責任は取るべきだと思う。命の話であって、もう当人達だけで解決出来ることじゃないから。相手方が不誠実すぎて信じられない」
『ありがとうございます。他の先生みたいなこと、言ってくれて』
鶴見瑠菜が純哉の懐からするりと抜け出してくるような感覚があった。最早、彼女は純哉がどうこう言えるような相手ではなくなっていた。この通話だって、純哉の話を聞きたいんじゃない。鶴見瑠菜は、聞かせたいのだ。自分に。
『悔しかったですよ。私のこと散々その気にさせておいて、結局放り出すなんて。だから、子供が出来たって知った時は嬉しかった。これで、彼を逃がさないでいられるから』
鶴見瑠菜の声が震えている。涙を堪えているのだろう。けれど、彼女の声は晴れやかで、憑き物が落ちたようだった。
『私のせいで、子供、死んじゃったんですけど、』
死んだのか、と純哉は思った。鶴見瑠菜があれだけ守っていて、最後に自分の命ごと投げ捨ててしまったもの。きっと生きてはいないだろうと思ったが、実際に聞くとそれは思いの外強く、純哉に響いた。
『でも、もう解放された気がして。子供がいる間は、どうにかしないと、このまま上手くやらないとって思ったのに。今はもうそういう気持ちがどこにもなくて』
「それで?」
『私って、やっぱり死んだ方がいいんでしょうか』
唐突だとは思わなかった。鶴見瑠菜は、子供が死んで自分だけが生き残った時から、そのことを考えていたんだろう。
突き放してやりたかった。その言い草は、かつての純礼に似ていたからだ。自分の身勝手な都合で周りを振り回して、お腹の子供が死ぬ原因を作った。なら、同じように死ぬべきだ。と、言ってやりたかった。
けれど、どうしても言えなかった。もし、あのまま子供が生まれていたら、どうなっていただろう。結局、鶴見瑠菜は結婚することもなく、一人で子供を育てることになっていたに違いない。生まれた子供が可愛いから、きっと幸せになれた? そんな無責任なことは言えなかった。
鶴見瑠菜は、どうしたって解放されていた。お腹の子供がいなくなったから、こうして落ち着いて話すことが出来るようになったのだ。そして、この状態の鶴見瑠菜じゃなければ、純哉だってまともに話すことはなかったはずだ。
鶴見瑠菜は返答を待っていた。息を詰めて、ただじっと純哉の判決を待っている。
ややあって、純哉は言った。
「……鶴見さんは」
『はい』
「もし、他の人間が自分のお腹の子供を殺してくれるとしたら、それを願いましたか」
電話の向こうで、鶴見瑠菜が息を呑むのが分かった。純哉が冗談や単なる思考実験でこんなことを問うているとは思えなかったからだろう。鶴見瑠菜が黙り込む。彼女がどれだけ真剣に考えているかを感じて、純哉は少し震えた。なんだか、泣きそうな気分だった。
『もし、誰も私を責められないような状況だったら、私がここから逃げ出したい、子供から逃げたいって思っていることが誰にもバレないなら、』
鶴見瑠菜が涙を流す気配がした。酷いことを言わせているとしても、純哉はどうしても彼女からその言葉を聞きたかった。
『私は、殺して欲しいと思ってしまうかもしれない。誰かのせいにしたかったから』
その答えを聞いた瞬間、純哉は電話を切った。
鶴見瑠菜の声の余韻が、鼓膜を震わせていた。暗闇の中で、自分の輪郭が溶け出していくのが分かる。
*
『お話ししたいことがあります。どうか、直接話す機会をもらえませんか』
『次に会う時は、私の子供を殺してもらう時のはずなんだけど』
『嘉奈島さんがそう言うのもわかります。でも、どうしても話したいんです』
『僕が、あなたの子供を殺す為に』
嘉奈島羽海とはなかなか会えなかった。夫の目を盗むことが難しかったのだろう。もどかしくもあったが、好都合でもあった。嘉奈島羽海の子供が、生まれようとしていた。
無事に純哉が羽海の家に行くことが出来たのは、羽幌町に行ってから三ヶ月も経った後だった。予定日を考えれば、もう嘉奈島羽海の子供が生まれてもおかしくないくらいの頃だった。純哉は一瞬、嘉奈島羽海の心が変わって、殺害の依頼なんかを全部無かったことにしようとしているんじゃないかと思った。
けれど、そうではなかった。
『多分今日なら行けるよ。待ってて、迎えに行かせるから』
『私の子供を殺すのに、どうしても必要なことなんでしょ?』
久しぶりに会うというのに、心の底から素っ気ない嘉奈島羽海の返信を見て、純哉は少し笑った。そうでなければ、嘉奈島羽海ではない、とすら思った。彼女はまるで揺らがない。だからこそ、純哉は嘉奈島羽海を理解することが出来たのだ。
面会が叶わなかった間に、純哉は充分に準備が出来た。殆ど自分の推理を裏付けるためだけの作業だったが、結果的に羽海を理解することには役立った。
「あんまりこんな姿見せたくなかったんだけどさ」
嘉奈島羽海のお腹は、前とは比べものにならないくらい膨れていた。もう意識しないでいることは難しいくらいに、胎児の存在感が増している。こうして命が育てば育つほど、作り物めいて見えるのが不思議だった。嘉奈島羽海に、その腹は少しも似合っていなかった。
「体調とかは問題無いの?」
「全然。あーでも、先月とかはかなり気分悪かったかな。今は平気になって、もういよいよだなって思って最悪な気分。もうこの状態が自然だってなってるんだろうね。それで、あとは産まれて、全部おしまいってわけ」
彼女が純哉を通したのは、例の子供部屋だった。
子供部屋の内装はすっかり女の子のものになっていた。恐らくは、お腹の子の性別が夫にバレてしまったのだろう。男女のものが混在していたはずの部屋は、女の子を迎えるにあたって理想の部屋へとまとまっていた。ここだけ見れば、幸せの象徴のようだった。
前にこの部屋で嘉奈島羽海を見た時は、強烈な違和感で脳が揺れるようだった。けれど、今は違う。嘉奈島羽海はあまりにもちゃんとこの部屋に馴染んでいた。これから産まれてくる娘を待つ母親として、『完成』させられようとしていた。
嘉奈島羽海は、少しだけ輝きを失っていた。
海辺で会った母親のように、全てが褪せているわけじゃない。だが、この妊娠生活は彼女にとって相当に合わないことだったのだろう。どこか目も虚ろで、道ですれ違っても、嘉奈島羽海であると一瞬気づけないんじゃないかと思うくらいだった。
その代わりに、お腹の子供は順調に育っているようだった。嘉奈島羽海の輝きを吸い、自らのものにしているのだろうか。世界で一番の輝きを吸った子供のことを想像する。その子は、嘉奈島羽海に負けない魅力を持ち、世界を虜にしていくのだろうか。
そんなことになっても、きっと嘉奈島羽海は喜ばないだろう。と、純哉は思う。それで喜ぶのは、嘉奈島羽海とは無関係の他人達だけで、母親の彼女だけが喜びから取り残されてしまう。
「それで、話したいことって何? 当日の段取りは、私が指示するから、瑞地くんは何かを考える必要は無いよ。あと、私は交渉には応じない。瑞地くんがやらないなら、そこで私達の関係は終わり」
嘉奈島羽海は出会った時と全く変わらない口調で、変わらない条件を口にした。その目に色濃く浮かぶ絶望と諦念が、今の純哉にはよく分かった。その目の奥に、純礼が見えた。純礼は今も、そこで純哉を待ち続けていたのだ。
「君が、どうしてそこまで子供を産むことを拒むのか、家族を作ることに忌避感を覚えているのかが分かったから、その話がしたかった」
純哉の言葉に、嘉奈島羽海が不快そうに顔を顰める。嘉奈島羽海にとっては、その言葉より屈辱的なものは無いのだろう。彼女は自分が誰にも理解されないと思っている。その思いを拭いたかった。
「そんなことは望んでない。というか、妙なこと言わないでくれる? 私はたとえ理解されなくても、瑞地くんがちゃんと私の望むことをしてくれたらそれでいい」
「ちゃんと役目は果たす。君の望むようにするから。こんなことは絶対に僕しか出来ない。頼むから信じてくれ」
純哉が声を絞り出すと、嘉奈島羽海が黙った。
「分かったよ、全部分かってしまった。君がどうして子供に対して異様なまでの忌避感を抱いているのかも、全部だ」
嘉奈島羽海は、純哉の言葉を受け止めてくれていた。本当は沢山言いたいことがあるだろう。彼女は今まで、ずっと黙って耐えてきたのだから。
「私がどうして子供を殺したがっているのか、その理由が本当に分かったの?」
「ああ。君の世界を取り巻くものは、全部嘘だったから」
(つづく)