「そういう話は遠慮したいと常々申し上げておりましょう」
「固いことをいうな」
死を覚悟して風を待っているというのに、と翼は楊広をねめつけた。しかしそもそも楊広とはこういう男だったと、諦観の息が漏れる。
「正直に申し上げますと」
「おう、言ってみろ」
「あまりにも幸せで、このまま雷に打たれて死んでもいいと思いました」
いきなり楊広は咳き込んだ。口もとをさすり、翼を見下ろす。
「本当は聞いてほしかったんだろう?」
「まあ、そうなんですかね」
護冬と顔を合わせることは、もうないかもしれない。そう思うと、少しくらい惚気てもいい気がした。
「信頼してすべてをゆだねてくれている。その歓びといったら言いようがありません。自分が許されている心地になるといいますか――」
楊広は、顔を覆っていた眼帯を取った。
「聞いてくださいよ」
「もう腹がいっぱいだ」
「自分から差し向けたくせに」
「まあ、うまくやっているようで良かった」
取り外した眼帯を、翼の手に持たせる。
「おれとしたことが、婚姻の祝いもやっておらん。これは高価な石らしいぞ」
つけてみろ、という目が穏やかで、こんな眼差しを向けられたことがないから戸惑った。一応、これも下賜の品かと、素直に従う。
眼帯を着けた翼を見て、楊広は感心したように声を漏らした。
「そうか、お前、出会った頃のおれと同じ歳か」
「いえ、おれはまだ二十六……」
こっちだ、と楊広を探す声が飛んできた。
敵がすぐそこまで来ている。翼の背筋が伸びた。
「せっかくですが、この眼帯は陛下がお着けください。思った以上に顔をごまかせるものです」
楊広が崖の下を眺めている。轟と風がうなったとたん、おもむろに立ちあがった。
「風が来ましたね。私につかまって――」
屈んで、飛び降りる手引きをしようとしたときだった。背に強い衝撃を覚えた。
「何をっ――」
振りかえろうとした瞬間、けがをした左足首に激痛が走る。
楊広が翼の腕と足を押さえたのだ。翼は身動きが取れなくなっていた。
「何をなさるんです!」
肩越しに振りあおぐと、楊広は耳を澄ましていた。その姿にはっとする。
楊広も風を待っていたのだ。
翼を助けるために――。
悟ったとたん、身体中の血が逆流するかのようになった。
「馬鹿なことを考えるな!」
立ちあがろうとしても、左足を押さえられて立ちあがれない。もがくほど、血の臭いが濃くなる。
「同臭相救うだろ!」
激昂する翼に、楊広はさらりと言った。
「臭い男はごめんだ。やはりおれは蓮の花がいい」
江都宮に戻るつもりだと分かって、絶句する。
「夢は、どうする気だ! 皇后が激怒なさるぞ!」
「蓮の花をひとり残すわけにはいかぬからな」
忘れていた。蕭皇后のこととなると、この男は判断を間違える。
「柳貴や沈光はすべてを投げうってあんたを助けたんだぞ! あんたが諦めてどうする!」
「だれが諦めるといった!」
力づよい声が翼の背に降りかかる。
「おれは諦めぬ。蓮の花もお前も、夢も――」
轟轟と唸る風が、翼の耳を塗りこめる。それは翼を絶望に追い立てる音だった。
「行け!」
強い力で、背を突き飛ばされる。
ふわりと身体が浮いた。
助かろうなんて思っていなかった。楊広を助けるために、この命を差し出すつもりでいた。なのに、崖の上の楊広の姿が遠のいていく。
黄金の景色が、目に瞬く。
赤々とした日が立ちのぼる東都の朝焼け。暁烏が鳴き、太陽と月星の下、幾万もの命がひしめいていた。楊広と同じ景色を見て、身を焦がすほどの夢に身を染めた。
失いたくない。なのに、伸ばした手が届かない。
「ふざけるな!」
思いつく限りの悪態をついた。しかし罵詈雑言はすべて風に呑まれていく。
刀を手にしたその背が、翼がみた楊広の最後の姿となった。
終章
皇帝は長く瞑目していた。
その頭上には、満天の星が瞬いている。
まばゆい星彩を背に、皇帝はゆったりと振り返った。
「みな、外してくれ。朕はこの眼帯の男と話がある」
皇帝は女人ひとりを残し、人払いをする。皇帝と女人、楽人と童子の四人だけとなると、皇帝は相好をくずした。
「ずいぶん久しいな」
「私を覚えていらっしゃる?」
「歌い手、と言われて思い出した。おぬしは隋主楊広に仕えていた男だ」
皇帝は、記憶を手繰るように眉宇を寄せる。
「その仰々しい眼帯に目がいったが、よく見れば、その顔は天下一と謳われた美少年。楊広のお気に入りの歌い手だ。名はたしか――翼」
「これは恐悦至極」
翼は微笑み、深く揖の礼をする。眼帯を外し、顔をさらした。
「相変わらず良い男ぶりだ。雁門城で会って以来か」
「もう十五年前になりましょうか。雁門城が包囲された際は、陛下の目覚ましいお働きに圧倒されました」
東突厥の襲撃を受け、隋の皇帝・楊広は雁門城に籠城した。
翼の目前にいるこの天子こそ、雁門城へいちはやく駆けつけたあの爆竹少年だった。二十九の若さで即位して早五年、名君としてよく衆望に応えているともっぱらの評判である。
この若き天子こそ、隋の次の王朝である唐の第二代皇帝――李世民だ。
「朕はそなたを探したのだぞ。迦陵頻伽の声を聴いてみたくてな。どこで何をしていた」
「戦乱を避け、妻としずかに暮らしておりました」
隋の最後の皇帝、楊広は江都宮で賊徒に殺された。
江都宮に叛徒が押し入った際、蕭皇后は頑なに楊広の行方を明かさなかった。その命が賊徒の手によって断たれんとしたその直前に、楊広は江都宮へ姿を現したという。
群雄割拠となった乱世を制したのは、次の皇帝と目されていた李密ではなく、楊広のいとこの李淵だった。李世民の父である。
李世民は、翼のかたわらの童子に目をやった。
「ではこの童子は」
「吾子にございます」
夜が更けてきたせいか、末のわが子は眠たそうに目をこすっている。
「この子にも痣が?」
「親子で伝わるものではないと思うのですが、私と同様、脚に痣がございます」
まさか自分の子の身体に、忌まわしい翼の痣を見つけるとは思わなかった。
翼星の出現は、血縁によるものではないからだ。
「で、そなたは朕を殺しに来たのか」
「なぜ、そうお思いに?」
「さきほど滅んだ国を挙げた際、お前は隋を加えなかった。つまり、その心はまだ隋にあるということだ。隋を滅ぼした唐が憎いのであろう」
長安を制した李淵は、楊広の孫の代王楊侑を隋の第三代皇帝にまつり上げた。楊広の死後、楊侑から天子の座を譲り受けるという形をとって、唐の国を建てたのである。
「朕と翼星を引き合わせて、唐朝を亡ぼす気か」
芝居めいた仕草で、翼は首をかしげた。
「翼星は、陛下にとって福神になるものと存じますが?」
「しかしそなたは儺神となった。その美貌で楊玄感を狂わせ、隋を亡ぼす傾国となった」
楊玄感は翼星の美貌に惑わされて挙兵した――。そんな根も葉もない噂を信じているらしい。
それまで大人たちの顔を窺っていた子が、うつらうつらとし始める。
「ご寛恕を。きらびやかな宮殿に来て、疲れたようです」
翼は断りを入れて立ちあがり、息子を抱き上げた。
「家族で甘やかすものですからいつまでも幼いままで」
李世民が幼子を見る面ざしはやさしい。しかし、目の奥の光は鋭いままだ。
「そう警戒なさいますな。隋がほろんだのは、私が儺神になったゆえか、それとも隋主が暴君だったゆえか。私にも見極めがつきません」
翼は、広間に残った女人へ話を向ける。
「貴女さまはどう思われますか、蓮の花?」
ゆったりとした物腰でやり取りを眺めている小柄な老婦人は、楊広が生涯を掛けて愛した蕭皇后だった。
翼を李世民に引き合わせるため、この場を設けた張本人である。
蕭皇后は若かりし日と変わらぬたおやかな風情で答えた。
「わたくしのような凡庸の身に分かりましょうや」
「御謙遜を」と翼は微笑む。
「亡国の皇后として、唐の皇族や百官から敬愛される貴女さまがなにをおっしゃいますか」
蕭皇后は、夫の亡きあと、孫の楊浩とともに英雄・竇建徳に保護された。竇建徳は、各地で名を挙げた勢力のうち、楊広が一目置いていた人物である。
その後蕭皇后は、隋の皇族が嫁いでいた東突厥に保護され、突厥が唐に打ち破られると、李世民のもとへと渡った。
李世民は、蕭皇后を手厚く受け入れた。その厚遇ぶりから、男女の関係にあるなどという下世話な噂も立ったほどだ。
楊広の孫に当たる浩は、今では唐の官人として取り立てられており、楊広の血脈を守った蕭皇后は伝説めいた存在となっていた。
「もっとも、翼が傾国であることには違いありませんね。最後に傍らにいたのが沈光でしたら、あの人は生き延びたかもしれません」
蕭皇后の言葉が胸に痛い。
「あの人は、翼にだけは冷静な判断ができませんでした。わたくしには、それが大きな敗因に思えます」
「それは――」
翼は声を詰まらせた。
眼裏に、崖上に残った楊広の背がよぎる。手を伸ばしても届かない。何度も夢に見てうなされた。
「それをおっしゃるのなら、隋主の痛みどころは蓮の花でございましょう。あなたさまが江都宮に残っていると知ってから、隋主は落ちつきがなくなったのですから」
蕭皇后も翼も、自分たちが楊広の足かせだったと認めたくないのだ。
蓮の花は、しずかに目をふせた。
「いいえ、あの人はなによりあなたに生きてほしかったのですよ。自分にはありえなかった幸せな人生を、あなたに生きてほしかったのです」
翼は、子をいだく手に力をこめる。
分かっている。だから戦乱を避け、護冬と生きると決めた。
授かった子は三人で、末子に痣さえなければ平穏な日々を送っただろう。
「でもね、あの人も最後まで粘ったのですよ。叛徒たちに殺されかけたとき、天子らしく毒酒で死なせるようにと謀叛人らに求めました。あの人は毒を飲んでも死にません。死んだふりをして、この窮地を乗り切ると目論んでいたのに」
だが、服毒は認められなかった。賊徒は、楊広を縛り首にしたのだ。
「隋の煬帝とは、一体何者であったのだろうな?」
李世民の問いかけに、翼はぼそりとつぶやく。
「ヨウダイ……」
李世民は楊広に「煬」という諡号をつけた。
「煬」は、民をくるしめ国をほろぼした昏君につける醜諡だ。
楊広は、陳の最後の皇帝に「煬」と諡をつけたが、死後は自身が同じ諡号を唐からつけられることになったのである。
「煬帝では不満か」
李世民の問いに、翼はかぶりを振る。
「隋主はろくでもない好色漢で、その苛烈さで多くの民を苦しめました。それ以外の諡がありましょうや」
悪態をつく翼に、皇帝は笑声をたてる。楊広は人格者ではない。その点は李世民と見解はおなじだ。
「とはいえ」
翼は李世民を見据えた。
「陛下とさしたる違いがあるとは思えません」
無礼そのものの発言に、李世民はくぐもった声で返す。
「何が言いたい」
「隋主は皇太子であった兄を廃して、帝位を手に入れました。それを非難する声もございますが、おそれながら陛下も兄君と弟君を亡き者にし、父君からの譲位という形で即位されております」
皇帝の座をめぐる争いの血なまぐささは、見方によっては楊広の上をいく。
「好色という点でも、隋主より陛下のほうが成した子の数は多うございます」
楊広は父の妃を烝したと噂になったが、李世民は殺害した弟の妃を後宮に入れて子を産ませている。さらに言うなら、楊広の娘とも子を設けていた。
不躾な指摘に、さすがの名君も機嫌を損ねたらしい。
「朕が隋主に劣るというのか」
「陛下を非難しているわけではありません。天子というものは、そもそもそういうものだと申し上げただけにございます」
李世民はすぐに反論せず、翼の言葉を反芻している様子でいる。
よい天子だ、と翼は思った。
楊広であれば、この場で斬り捨てている。
「しかしあの従兄弟伯父に、なにかよいところがあったかね」
本気で悩んでいる様子に、好感が持てた。
ここは真摯に考えを述べるべきだ。「おそれながら」と謹んで奏上する。
「人は当たり前のように享受しているものにありがたみを感じません。隋主が造った運河は今、国の血脈として根づいております。運河の要所であるべん州や揚州は経済の街として栄え、隋主の先見の明に驚かされます。今の唐の繁栄と民の幸福は、隋主が築いたものの上になりたっているとは言えませんか」
流通の構造だけではなく、律令も、人材の登用制度も、唐は隋がつくったものを引き継いだ。いわば唐は隋が敷いた道を走っているようなものだ。
「隋主が見ていたものは、そのときに生きていた命だけではありませんでした。国や時代という枠を超越して、隋主は永遠の民のために尽くしたのです」
少し褒めすぎたかもしれない。
しかし蓮の花の手前でもあり、これくらいは言わないと翼自身が報われない。
「出会わなければ良かったと思うか?」
思いがけない問いに、言葉に詰まる。
酷な訊き方をする。自分でも分からない。とても答えられない。
口を引き結び、顔が歪むのをこらえた。なんとか声を絞りだす。
「それでも、私は……出会ってしまったのです」
かぶりをふり、「さて」と話柄を変えた。
「昔話はここまでにしましょう。あなた様はまさに今、翼星と出会われた。この子が福神となるか、儺神となるかはあなた様次第。召し抱えていただけましょうや?」
李世民は間を置かずに切り返す。
「その気はないのであろう?」
この天子はさとい。
短い問答のあいまに、翼がなぜ拝謁を求めたのかを理解した。
「では、この子を私の手もとに留めても?」
生まれた子の脚に痣を見つけたとき、絶望に突き落とされた。同じ運命を背負って生まれきたこの子をいかに育てていくのか、途方に暮れた。
「隋主は、身を焦がすほどの夢を見せておいて、すべて放っていなくなってしまいました。あんな思いはごめんです。私は、この子に同じ思いをさせたくない」
沈光と柳貴は、楊広が殺されたと知るや、給使の生き残りを集めて仇討ちを図った。怪我が治らぬうちに仕掛けるから、圧倒的な武力を前に命を失った。
せめて態勢を整えてから仕掛ければよいのにと思ったが、おそらくふたりとも死にたかったのだ。それならば、と翼はおもう。
最初から夢など知らなければよかった。
「私は恐れておりました。いつこの子は天子と出会うのだろうと。ならば、いっそのこと会わせてしまいなさいと蓮の花がおっしゃるのです」
李世民は思慮に沈むふうに腕を組む。ひとつ咳払いをしてから、天子の威厳をもって言い渡した。
「朕はその子を召し抱えぬ。そなたの側で育てるのがよかろう」
安堵で身体の糸が切れたようになる。子を抱えたまま、ひざまずいた。
「かたじけのうございます」
涙で、子のやわらかい髪が濡れた。
翼の家族の幸せは、楊広が命と引き換えに与えてくれたものだ。これだけは守らなくてはならない。でなければ、黄泉の楊広に顔向けができない。
「さて、こちらの約束を果たしてもらおうか」
楽しげに言う声に、翼は顔をあげた。
「なにか仰せつかっておりましたか?」
「歌を聴かせてくれるという約束だっただろう?」
雁門城で会ったとき、そんな約束をしたかもしれない。
李世民は足どり軽く、広間の端へ進んでいった。棚に置かれていた楽器を手にして、身をひるがえす。広間の中央へ運び出したのは、七絃琴だった。施された文様に見覚えがある。
「これは……」
「蓮の花から譲り受けた琴だ。もとは隋主のものだったと聞いた」
そう言って、李世民はいたずらっぽく弦をはじく。
「あの従兄弟伯父の好ましいところを、ひとつだけ思い出したぞ。文才だけは素晴らしかった」
翼は満面の笑みで応える。
「では、隋主の詩を――」
ふたりで夜空の見えるところへ琴を運び、蓮の花を客にまねく。
李世民が琴をかき鳴らす。
翼は眠る子の背をやさしく叩き、子守歌をうたうように調子を取った。
暮江平らかにして動かず
春花満ちて正に開かんとす
流波月を将りて去り
潮水星を帯びて来る
月は夜空の波に揺れ、刻々と傾いている。
地は花の香りで満ち、天上の星が迫るようだった。
(了)