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 腹に衝撃をうけ、翼は胃の中のものを吐いた。

 これ以上はなにも出ないと思うほど吐いたのに、まだ残っていたらしい。爛れた喉に痛みが走り、翼はもだえる。

「私とお前と、どちらが上か分かっただろう」

 前髪をつかまれ、翼は顔をあげた。目の前で、美しい顔立ちの少年が冷笑を浮かべていた。

 宮廷楽人のりゆうである。

 歳は、翼とおなじ十二歳。国で随一といわれるしちげんきんの腕前の持ち主だ。名人と呼ばれるおとなでも、琴の腕では柳貴に敵わない。生まれは代々の官人の家と聞いたが、これは箔をつけるために養子縁組をしたのだろう。

 なにより柳貴を語るに外せないのは、その涼しげな顔だちだ。天下一の美少年といわれていた。翼が宮中に入るまでは。

「聖上はずいぶんとお前を重んじていらっしゃるようだが、そのしゃがれた声で御耳を汚すつもりか」

 隋の初代皇帝は仁寿宮で崩御した。ぶんていおくりなされている。

 文帝が身罷って数日後、楊広は即位した。第二代皇帝の誕生だった。

 天子となった楊広は、みずから楽人をえらび楽団をつくった。柳貴は先代の皇帝の頃から、宮廷楽人として仕えていた経歴がある。若いながら、新たにつくられた楽団の長を務めていた。

 翼は後から楽団に入ったから、柳貴の後輩にあたる。しかしその後輩が、自分よりも天子の覚えがめでたく、宮廷でも人気があるのが許せないらしい。

 紅葉の鮮やかな宮中の木陰に翼を連れ出し、苛立ちをぶつけているというわけだった。

「うるせえ。おれの声が嗄れたのは、お前がへんなものを飲ませたからだろ」

 言い返す翼の声がしわがれている。

 柳貴のとりまきの楽人に身体をおさえこまれ、酒なのか油なのか刺激のある液体を口に流し込まれたからだ。おかげで喉が焼かれたように痛い。

 柳貴は崩れた翼の髪をつかみなおす。翼が頭皮の痛みに顔をしかめた瞬間、みぞおちに鋭い蹴りが入った。蹴りの力は弱いが、場所が悪い。翼は大きく咳き込んだ。

 柳貴は両手をたたいて埃をはらう。

「聖上は私の琴の音をお聴きになり、涙をこぼされた。天子の御心を、音楽でお慰めできるのはこの私だけだ。お前の歌で、聖上が涙されたことなどないだろう」

 楊広は風流天子で、とくに七絃琴を好む。琴を愛するあまり、官人を登用する試験に、琴の科目を設けるよう命じたとも聞く。

 取り巻きを背後に、柳貴は嬉々として言った。

「お前は翼のあざがあるというだけで重んじられているようだけれど、りようびんの歌声はもう出せないのだろう」

 翼の声は日々変わっている。これ以上は低くならないだろうと思っても、さらに低くなった自分の声におどろく。

「歌えないわけじゃないさ」

 翼は袖で汚れた口をぬぐった。立ちあがれずにいる翼に、柳貴はにんまりと笑む。

「お前さん、ずいぶんと不吉な歌い手だそうじゃないか」

「なにが言いたい」

「言いたいことはね、それはたくさんある」

 もったいつけるように、柳貴は翼のまわりを歩きはじめる。

「翼星というのは、最初は国に恩恵をもたらす福神だけれど、のちに災厄をもたらす儺神に変わると聞いた」

 翼は眉をひそめる。そんな話は護秋からも聞いたことがない。天子が名君であれば福神に、暴君であれば儺神になる。そういった話だったはずだ。

「儺神とは、悪鬼を祓う神だ。暴君となった天子を退け、国をかえる。民を守る神だぞ」

 ふふん、と柳貴は得意顔をする。

「私も手を尽くして調べた。南朝最後の国、陳の翼星はたいそう美人な琵琶弾きだったらしい。ところが、皇帝の寵愛を受けて琵琶にふれなくなった。音を奏でなくなった翼星は、儺神となって陳をほろぼしたそうだ。ゆえにその妃は、傾国の美女と言われているらしい」

 陳が滅んだのは、皇帝が政をおろそかにしたからだ。琵琶がどうこうという話は後づけの物語だろう。そんな迷信じみた話を、頼みにしている柳貴がおかしかった。

「歌えなくなったお前は、儺神となっていずれ隋を滅ぼす。この隋から去れ。それが聖上と、隋の民のためだ」

 翼はたまらなくなって、笑いだしていた。

「なにがおかしい」

 柳貴が眉をひそめる。取り巻きの楽人も「無礼だぞ」と翼をののしった。

「すまない、すまない」

 翼はおおきく手をふって、得意の笑みをみせた。

「おれがその傾国だって? そうだよな、だれかさんより、おれのほうが人気があるもんな」

 柳貴がいちばん気にしていることを言ってやった。楽団へ届けられる贈物の数は、柳貴よりも翼に宛てた物のほうが多い。

「お前……」

 とたんに場の空気がはりつめる。柳貴が差し出した掌に、取り巻きが短刀をわたした。

「おい、御所で刃物はまずいだろ?」

 柳貴は無言でさやを抜く。本気にさせてしまったらしい。背がぞくりと冷え、口が相手を挑発していた。

「やってみろよ」

 以前のように歌えなくなった今、顔に傷がつけば、楊広も自分を手放すだろう。刃物を持つ柳貴の目が据わってくる。翼が覚悟をきめたときだった。

「翼をお借りしても良いかな」

 間延びしたおとなの声がする。柳貴たちはいっせいに背後を振り返った。温かな秋色の茂みの前に楊玄感が立っている。

「稽古に来ないから探しに来ました。皆さんで、音楽の練習を?」

 どう見ても暴行を受けている場面だが、楊玄感は自慢のひげを撫でてうそぶく。柳貴は刃物を背に隠した。

「これは楊さま。翼がとくべつな訓練を望んだので、みなで指導をしておりました。熱が入って、ときを忘れたようです。申し訳ございませんでした」

「いいえ。翼の本分は楽人ですから、音楽の練習を優先するのが筋でしょう」

 楊玄感はおだやかに笑んだ。

「では失礼します」

 楽人たちは、翼を置いて去っていく。

 最後のひとりの背が茂みに消えたのを確かめてから、翼は楊玄感を仰いだ。楊玄感はむき出しになった翼の脚を見ていた。何を見ているのかと思えば、翼の形の痣に目が留まったらしい。翼星たるゆえんの印である。

 髭の師匠は、手巾で翼の顔をぬぐってくれた。

「楽人相手なら、あなたひとりで倒せたでしょう。その程度の力はついているはずです」

 最初、楊玄感から習うのは学問だけだったが、今は翼から頼みこんで武術の稽古もつけてもらっている。

 もともと身軽で、歌い手でなければ雑技をやりたいと思っていたほどだ。身のこなしには自信があった。

「でも、あいつら楽人ですから」

 万が一、指でも折ったら楽器が弾けなくなる。音楽で身を立てている者にとって、それは死にひとしい。

 翼の顔をぬぐい終えると、楊玄感は翼の顎から喉に触れた。

「がらがらの声が気になりますね。医師を呼びましょうか」

「すぐに治ります。柳貴は臆病ですから、たいしたことはできないんです」

 永久に歌えぬほど翼の喉をつぶすだけの根性はない。しわがれた声も、一時的なものだろう。

「柳貴にも困りましたね。氷の貴公子が聞いて呆れる」

「なんです、その貴公子って」

「感情をあらわにせぬ、ひややかな美貌をたたえた言葉です。あのつれない感じが良いのだそうですよ。それが、あれほど嫉妬をむき出しにしては台無しです」

「へえ」

 自分でも頬がひきつるのが分かった。

「翼にもあるんですよ。官人や女官たちがひそかに呼ぶ二つ名が――」

「え、いいですって」

 翼は楊玄感の声をさえぎる。どうせろくな名ではない。楊玄感はひげをゆらし、愉快そうに言った。

「星の貴公子。あなたが微笑みを向けてくれるだけで、闇が照らされるようになるとか」

「お恥ずかしい、ことです」

 喉が痛んで、言葉がつかえた。

「やはり医師を呼びましょう。万が一があってはいけない」

「もういいんです」

 もし声が出せなくなれば、翼は楽団を辞められるかもしれない。

 駄々っ子を見るような目で、楊玄感がみじかく息を吐いた。

「しっかりなさい。声を失うようなことになれば、護秋が悲しみますよ」

 護秋の名を出されると、翼も弱い。護秋は今、楊広のもとで仕えている。

 護秋は、失敗に終わった翼の企てを知らない。仁寿宮で騒動となったとき、護秋は薬湯をつくるために宮殿の端の厨にいた。

 あの日の出来事はすべてなかったこととされ、うわさだけが独り歩きしている。

 皇帝は楊広に殺されたのだとか、宣華夫人が楊広に乱暴されかけて皇帝に訴えたとか、真偽入り交じった話が宮中で人の口の端に上っていた。

「護秋姉さんがいなければ、私は宮中にはおりません」

 ――育ててくれた護秋に天子の歌い手となった姿を見せる。

 翼にとって、楊広に仕える理由はそれだけだった。企みを仕損じて以来、翼は生きる意味を見失っている。声も思うように出ず、籠で飼われた鳥のようだった。

「福神としてふさわしくない言葉ですね。この混乱のとき、あなたは天子を支えなくてはなりませんよ」

 楊広は文帝の遺体とともに大興城へ帰還し、政の刷新に取り掛かっている。すでに何名か、重臣が閑職においやられ、政情は不安定な状態にあった。

「先生は、陛下をどう思われますか」

 楊玄感は怪訝な顔をする。

「といいますと?」

「そのままの意味です。官人たちが陛下をどう言っているか知っていますか? 皇帝を動かすにはこういえばいい。この事業は過去に例がない、世界で初の偉業、未来永劫歴史に名をのこす英断。陛下は良い政策であっても、人のまねを嫌がります。自分が目立つことが第一で、それが民のためになるかどうかは二の次なのです」

 急な改革に官人は頭を悩ませ、民は重い労役で苦しんでいるという。つくづく、楊広の即位を防げなかったことが悔やまれた。

 楊玄感は艶やかなひげを撫で、首をかたむけた。

「私は陛下の手腕に感服しておりますけどね」

「たとえば?」

 つい、問う声が剣呑になる。

「またたく間に漢王の叛乱を鎮圧されました。その速さは称賛に値するでしょうね」

 漢王楊諒は楊広の弟だ。楊家五兄弟の末弟にあたる。

 兄弟のうち、廃太子となった長男の楊勇は、皇帝崩御ののちすぐに絞首となった。

 三男楊俊は、嫉妬深い妃に毒を盛られて四年前に亡くなっている。四男の楊秀は二年前に、素行不良の咎で幽閉された。

 楊広の兄弟で唯一公務についているのが、五男の楊諒だった。

 この楊諒が、即位した楊広の呼び出しを拒み、兵を挙げたのである。

「乱の鎮圧に手間取れば、あたらしい朝廷の方針も決まらず、結果、民にそのしわ寄せがくる。どうやら陛下は、即位される前から、漢王を抑える準備をしていたようです。あの方は、数手先を読んで動いておられる」

「それは単に、権力争いに長けていらっしゃるだけでは」

 皇帝に即位するまでの、兄や父との血なまぐさい闘争を思い返す。

 しかし、楊玄感はさらに熱弁をふるう。

「なによりあの国土計画です。あれには私も仰天しました」

 楊広は即位すると、かねてから考えていた案を披露して官人たちをおどろかせた。

 そのひとつが国土計画だ。大規模な工事を行い、南北をつなぐ運河をつくるというものだった。

「あんなの、ほんとうにうまく行くんでしょうか」

 翼の脳裡に、かつて屋敷で見た山河の模型がうかぶ。国土づくりは、模型のあそびとはちがう。

「南北が統一されて二十数年。いまだ、南と北で分断されている物や人の流れをつなごうとされているのでしょう。陛下がなにごとにつけ派手にされるのも、隋の威光をひろく示すためだと思います。辺境には恩恵が行き届かず、隋の民だという自覚もありませんから。あの方は、見ているものが常人とはちがう」

 楊玄感は、楊広を高く評価しているらしい。

「おそろしいと思ったのはあの働きぶりです。昨日、父に頼まれて仮眠中の陛下のもとへ伺ったのですが、室内に散らばっていたものを見て驚愕しました」

 楊玄感が息を飲み、喉ぼとけが大きく上下する。

「律の素案でした。陛下はどうやらかいこう律に手をつけるおつもりらしいのです」

 刑罰を定める律の条文を、自ら練っているという。

「先帝が制定された開皇律は、過酷で実態に即しておりません。それをどう緩和するのかを熟考されているようです」

 改正の作業は本来、官人のしごとだ。天子がみずから筆を執るなんて、と喉まで声が出掛かったが、思えば楊広はなんでもみずからやらねば気が済まぬたちだった。

「陛下はひとりで百人の働きをなさっている。底知れません」

 翼は頬を膨らませた。

「先生は大げさです。人格、才能、どれをとったって、私は先生のほうが天子に向いていると思うのに」

 楊玄感は慌てた様子で、周囲を見回す。

「冗談でも口にしてはいけません。だれがどこで聞いているか分かりませんから」

 そう言った瞬間、背後の茂みで物音がする。

「だれです」

 楊玄感が問いただすと、黒い影が翼たちの前に飛びこんできた。

「翼、たいへんだ。助けてくれ。柳貴さまが死んでしまう」

 現れたのは、柳貴の取り巻きだ。先ほどまで翼に暴行を加えていた琵琶弾きだった。

 

(つづく)